下北沢のホーンテッドアパート 第二話
そのアパートは、駅から歩いて十分圏内という、都内のワンルームアパートとしてはそこそこ良い立地にあった。
総室数は六。近くには東大駒場キャンパスをはじめ多くの大学を擁し、本来なら常時満室でもおかしくはないロケーションだ。築年数は約二十年。さすがに新築、築浅並みとはいかないにせよ、きちんとメンテナンスをかければすぐに客もつくし収益も上げられる、そんな物件だ。
ところが、二年ほど前からこのアパートでは退去者が続出しはじめ、新しい入居者も途端に定着率が悪くなった。理由は、夜な夜などこからともなく聞こえる謎の啜り泣きだ。一応、半年以内の退居には違約金を課すなどの特約を設けたものの目立った効果はなく、ついに今年、春に入居した新入生が秋を待たずして全滅するに至り、元オーナーもついにアパートを手放すことを決意した……らしい。
「二学期まで持たなかったんだ」
すると兄さんは、空室だらけのアパートを見上げながら「ああ」と嗤笑する。
「どうせ格安だからっって飛び込んだところ、マジで出る部屋だったもんでビビって逃げ出したんだろうよ。まぁ、ガキには良い社会勉強になっただろうよ。安物には安いなりの理由があるってこった」
「なるほど……」
その安物買いの結果、今もどしどし赤字を垂れ流す兄さんが言うとやっぱり説得力が違うなぁ。
改めてアパートを見上げる。外見的には何の変哲もない、むしろクリーム色の外壁が愛らしいアパートだ。南側は公園に面し、日当たりも悪くない……なのに、六室全部が見事にからっぽだ。
その公園では、子供たちの賑やかな笑い声が弾けている。遊具に取りつく子、鬼ごっこで広場を駆けまわる子、なわとびやキャッチボールをして遊ぶ子……それを、保護者と思しき大人たちが温かく見守っているのが見ていて微笑ましい。
ただ、外が賑やかなぶん、余計にアパートの閑古鳥ぶりが際立って見える。
「……ガラガラだね」
「だな。しかぁし、俺が買い取ったからには意地でも全室埋めてやるから覚悟しろっ!」
びしっ、とアパートを指さすと、さっそく兄さんはアパートへ向けて大股でずんずん歩いてゆく。その勇ましい背中を、兄さんより一歩の幅が短い僕は小走りで追いかけた。
真っ先に僕らが向かったのは、二階の真ん中の部屋だった。
アパートが今のような霊障に襲われはじめる少し前、この部屋で、一人の男性が亡くなっていた。死因は不明。というのも、発見された時点ですでに腐敗が進んでおり、検死に回されたものの、詳しい死因は特定できなかったからだ。ただ、誰かが押し入った形跡はなく、また自殺の形跡も見つからなかったことから、突発的な病死という見立てが今では濃厚だ。
今回の霊障は、その霊が原因だろうと兄さんは睨んでいた。
「開けるぞ」
「うん――
「ええ」
「ちょっと待て」
ノブに手をかけたまま、呆れ顔で兄さんが振り返る。
「お前、今、何っった?」
「えっ? 桃子さんに、良いですか、って」
「そうじゃねぇ。何で奴がここにいる」
「何でって……そういえば、何でついていらしたんです?」
振り返り、背後に立つ桃子さんに訊ねる。すると桃子さんは、今更それを訊くのか、と言いたげにうんざり顔をすると、「だって面白そうじゃない」と痩せた肩を竦めた。
「面白そうだから、だって」
「いや待て待て待て。そいつ地縛霊じゃなかったのかよ。屋敷の外には一歩も出られねぇんじゃなかったのか? えぇ!?」
「えっ? 最近は出かける時はいつも一緒だけど……買い物とか。ちなみに、地縛霊なんてものは存在しないんだよ兄さん。桃子さんみたいに、ある場所に強い思い入れがあってそこを離れられない霊はいても、基本的に移動は自由なんだ」
桃子さんも、最近は毎日のように外に出かけては、戦前から様変わりした東京の町を見て回っている。そのたびに僕も案内役としてついて回るのだけど、東京タワーやスカイツリー、新宿や丸の内の高層ビル群を物珍しそうに見上げる彼女は、正直、とても可愛い。
「いや知らねぇし――てかお前、幽霊と一緒に買い物行ってんのか!?」
「うん」
すると兄さんは、頭を抱え、ふううううと深い溜息をつく。
「お前……あまりにも彼女が出来なさすぎてとうとう……まぁいい、これ以上の追い打ちは人権問題になる。行くぞ」
改めて兄さんはノブを回し、ドアを開く――と。
「……あ」
「どうした。何が視える。瑞月」
「ええと……逆に、兄さんには誰が視える?」
「誰っつーか、ただの空き部屋だが? 六畳一間のワンルーム」
なるほど。つまり兄さんには、窓の桟に手をかけたまま、驚いたようにこちらを振り返る男性の姿は視えていないらしい。
年齢は中年に差しかかる頃合いだろうか。中肉中背の、外見的にはこれという特徴のない男性だ。ただ、これは幽霊としてはかなり特異な姿だ。彼らは大抵、自分が一番幸福だった頃の姿で現れる。どさくさ紛れに衣服も一緒に新調する。
だが。彼はおそらく死亡当時の姿で幽霊と化している。取り繕う気を感じさせない、よれよれに着古した背広がその証拠だ。
その男性の顔に、僕は見覚えがあった。
「……あの人」
「ええ、間違いないわ」
背後から、そう桃子さんが耳打ちする。どうやら桃子さんにも視えているようだ。ということは、やっぱり……
ここを訪れる直前、僕は、ある写真を兄さんに見せてもらっていた。それは、以前この部屋で亡くなったという男性の顔写真で、前の大家からアパートと一緒に譲り受けた書類の中に、男性と交わした賃貸借契約の書類も含まれていたらしい。写真は、そこに紛れていた免許証のコピーだった。
男性の名前は柊木太一さん。死亡時の年齢は四十三歳。家族はなく、死亡当時も独りでこの部屋に住んでいた。遺体は引き取り手がなく、法令の定めどおり自治体の費用で火葬され、遺骨は合祀墓に埋葬された。
一応、死者への礼は尽くされた。ただ、現にこうして居残っているということは、結局、それらの礼が彼の魂を癒すことはなかったのだろう。
「こ……こんにちは……」
靴を脱いで部屋に上がり、そう、柊木さん――と思しき男性に声をかける。すると柊木さんは、びくりと首を竦めると、逃げ場を探すように目を左右に泳がせた。
「えっ、僕が視え……?」
「はい。そういう体質なんです。ええと、僕たちはこのアパートの新しい大家です。それで、挨拶も兼ねて伺ったんですが」
「何だ、やっぱりいやがるのか、幽霊が」
僕に続いて部屋に上がった兄さんが、うんざり顔で僕に問う。
「うん。柊木さんだよ。ほら、以前ここで亡くなった……」
「なるほど。おい柊木、ここはもうてめぇの部屋でも何でもねぇ。成仏するならする、しないならしないで今すぐここから出ていけ!」
「兄さん! いくら何でも言い方ってものがあるだろ!」
「言い方ぁ? あのな瑞月、こういうテメェの迷惑行為に自覚のねぇ野郎はガツンと言ってやらなきゃわかんねぇんだよ! 散々入居者追い出といてよ! そんなに一人で居座りたきゃ全室分の家賃を払え家賃をっ!」
まるっきりヤクザまがいの脅し文句だ。ただ、死者にもいろいろいて、当然だが気の荒いタイプもいる。下手に刺激をすれば、桃子さんにシバかれたバブル時代の地上げ屋みたいに痛い目を見ないとも限らない――
「ももも、申し訳ありません! このたびは、とんだご迷惑を……!」
「えっ?」
意外ななりゆきに僕は唖然となる。あ……謝られた?
そもそも、現世に居残る霊の多くは揃いも揃って図々しい。何せ、死してなお現世にしがみつくほどの鉄面皮だ。人様に迷惑をかけようが、それで大家の家賃収入が下がろうが、むしろ当然の権利とばかりに居座るのが彼らの基本ムーブである。
なのに、この人は……
「なぁ瑞月、こいつ、何か言ってるか」
「う、うん……その、頭を下げて……謝ってる。他の入居者さんに迷惑をかけたことも、一応、反省しているみたい」
「反省だぁ? だったらさっさと出ていけこの野郎!」
「できないんです!」
慌てて答える柊木さんの声は、ほとんど悲鳴じみていた。
「本当に、申し訳ないと思っています。でも……僕自身、なぜこんなことになってしまったのか……わからないんです、何も……」
「とりあえず、顔を上げてください」
ひざまずき、できるだけ優しく声をかける。
どうやら、彼もまた成仏を強く望んでいるらしい。なのに、何かがそれを阻害している。であれば、今僕らがすべきは柊木さんを問い詰めることではなく、彼に寄り添い、その願望を丁寧に引き出してあげることだ。
「安心してください。僕らは、あなたの成仏をお手伝いに来たんです……まずは、お話を聞かせてもらえますか」
柊木さんはのろり顔を上げると、強張った頬をようやく緩めた。
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