下北沢のホーンテッドアパート 第四話
翌日、僕らはふたたび下北沢のアパートに足を運んだ。
部屋に着くと、柊木さんは昨日と同じく窓の桟に腕を預けたまま、身体を捩じるように僕らを上げていた。そういえば、昨日も同じポーズで僕らを出迎えていた気がする。ひょっとして、僕らが部屋を訪れる直前まで外の景色を眺めていたのかしら。
まぁ、言われてみれば狭い六畳間ばかり眺めていても飽きるだろうし、それに多分、幽霊にも気分転換は必要だ。
「お邪魔します」
兄さんが聞いたら、「不法滞在者にお邪魔しますもくそもあるか! 邪魔してんのは奴の方だ!」と叱られるパターンだな、なんてことを考えながら、
以前は、僕一人での事故物件の内見は禁止されていた。ところが、麻布の屋敷に住み始めたあたりからどうでもよくなったのか、今ではその制約もゆるい。その屋敷にも、本当は移りたくはなかったらしいのだけど、練馬のマンションに意外にも早く客がついてしまい、住む場所をなくしてしまったのだから仕方ない。
「あなたは……ああ、昨日の」
「はい。比良坂です」
とりあえず桃子さんと並んで正座すると、ショルダーバッグから携帯用魔法瓶を取り出す。中には、屋敷で淹れておいたコーヒーが入っていて、それを付属のカップに注ぐと、柊木さんの前にそっと差し出した。
「これは……コーヒー?」
「はい。柊木さんのために淹れて来たんです」
「僕のため? ……でも、僕はその、幽霊ですし」
「大丈夫ですよ。味わうだけなら幽霊さんでも大丈夫ですし」
そして僕は、その実例を振り返る。現に桃子さんは今朝も、僕が新品のIHコンロで作ったフレンチトーストを味わってご満悦だった。
「ええ。でも、残念だけど味わうだけね。口に含むとわかるのだけど、喉がそもそも食べることを受けつけないの」
「そ……そうなんですか」
「そうなの。でも、逆に言えばそれだけで充分なのよ。だって、そもそも食事って滋養の補給が目的なのでしょう? 私たちはほら、その必要がないから」
必要がない――その言葉に、僕は少しだけ胸が詰まる。そう、必要がないのだ。なぜなら彼女たちは死者だから。
「と、とりあえず、召し上がってみてください」
「え……ええ」
柊木さんはおそるおそるカップを受け取ると、半信半疑の目でそれを口に運んだ。と、怯えの色がふっとほぐれて、代わりに穏やかな表情が疲れた顔に浮かぶ。
「本当だ……久々に口にしましたが、良いものですね」
「ええ」
やんわりと、桃子さんが頷く。
「でも、食べられるのはこうして自分に捧げられたものだけ。昔は、食事のたびにお仏壇にお供え物をしていたのだけど……あれも、今思えばちゃんと意味があったのね」
「ええ。そういえば田舎の祖母も、昔はよく仏壇にお供えものをしていましたね……随分と昔の話ですが……」
遠い目でしみじみと語りながら、柊木さんはふたたびカップを口につける。自分の過去を語ってくれたということは、少しは、心を開いてくれたのだろうか。
「あの、失礼ですが田舎……故郷はどちらに?」
「新潟です。僕も、生まれは新潟なんですが、両親と仲違いをしてしまったせいで、上京後はとうとう一度も帰りませんでした。……まぁ、どのみち僕は、家族の中ではお荷物扱いでしたから、それで良かったんでしょうけど」
「お荷物……」
「ええ。大学を卒業後、見事に就職に失敗しまして……父はプライドの高い人でしたから、不出来な息子がどうしても許せなかったんでしょうね。毎日のように罵倒されて、ブン殴られて……このままじゃ殺される、そう思い、逃げるように東京に飛び出したんです。……まぁ、うちには優秀な弟もいますし、老後の心配は……」
そして柊木さんは、ほろ苦く笑う。
遺体の引き取り手はないと聞いて、てっきり天涯孤独なのだと思っていた。でも実際は、両親も兄弟もいた。柊木さんの年齢を考えるに、まだ生きていても不思議じゃない。ましてや弟さんなら……なのに、柊木さんの遺体は誰にも引き取られることはなかった。
「すみません」
改まったように正座すると、柊さんはぺこりと頭を下げる。
「僕の死体は、本当は親族が片付けなければいけなかったのでしょうけど、その……本当に、ご迷惑をおかけしました」
そして、また深々と頭を下げる柊木さんに、僕はどんな顔をすればいいのかわからなくなる。
所有物件で人が死んだ場合、どうしても生じるのが遺体や残置物の処理、体液等で痛んだ室内の補修費用だ。さいわい柊木さんは保証会社と契約していたため、当時のオーナーは、とりあえず原状回復の費用だけは補填してもらえたそうだ。
ただ、それはそれとして心理的瑕疵による客離れと、それに伴う不動産価値の毀損は、当時のオーナーに相当の痛手を与えたはずだ。僕は当事者ではないので、まだ他人事でいられるけれど、これが当事者なら笑うに笑えなかったはずだ。
ただ、自殺でもない限り、彼を責めたところでどうにも……
「あの、一応確認しておきますが……自殺、ではないんですよね?」
「えっ? は、はい。それは……ええ」
カップを手にしたまま、こくこくと柊木さんは頷く。
「多分……突然死、というやつなのだと思います。三日ぶりに会社から帰って……そこで、突然胸が苦しくなったんです。さすがにこのままではまずいと思い、慌ててスマホに手を伸ばしたんですが……その頃にはもう、目の前が白く霞んで……気付くと、冷たくなった自分を見下ろしていました。後は……ただひたすら、自分の死体が腐ってゆくのを眺める日々でした。スマホでの連絡も試みましたが、いくらタップしても反応してくれなくて……仕方ありませんよね。何せ、幽霊なんですから。そうこうするうちにスマホの電源も切れて……」
「ど、どなたか様子を見にいらっしゃいました?」
「様子? え、ええ……上司が」
「上司さんが?」
「はい。いや、あの時は参りました。僕の組んだプログラム……ああ、生前はプログラマーだったんですがね、何でも、試験中にバグが生じたとかで、急遽会社に戻って来いとアパートまで怒鳴り込まれてしまいまして。……多分、スマホで連絡がつかないのでわざわざ迎えに来てくれたのでしょう。しかし、死んでいては返事もできず……はい」
「他には……?」
「他には? いえ、その一回きりですよ」
う……嘘だろう、いや、嘘と信じたい。四十数年生きた人の安否が、誰にも案じられることなく見過ごされてしまった、なんて。
愕然となる僕に、さらに柊木さんは、耳を塞ぎたくなるほど悲しい言葉を淡々と続ける。
「ええ……なので、死体を見つけてもらった時は心底ほっとしました。自分の身体が腐ってゆくのを目の当たりにするのは、お世辞にも気持ちの良いものじゃありませんからね……まぁ、夏場に数十キロの肉塊が一気に腐れば、臭うのは当たり前といえば当たり前ですが……」
ははは、と力なく笑う柊木さんに、僕は追従の笑みさえ返すことができなかった。
誰にも気遣われることなく、代わりに遺体が放つ悪臭によってのみ見出された死――こんなものは、人間の死とは呼ばない。呼びたくもない。
でも。
こうした死が、今の日本では決して珍しくないこともまた事実なのだろう。柊木さんの事例は、そんな、数多ある事例の一つに過ぎないのだ。
「コーヒー、ありがとうございます。……久しぶりだったので、すごく、嬉しかったです」
そして柊木さんは、照れ臭そうにカップを差し出してくる。相変わらずカップではなみなみとコーヒーが揺蕩っていて、僕はそれをぐっと飲み干した。
「ええ。こんなものでよければ、毎日でも――」
そうだ。このまま柊木さんを屋敷に連れ帰れば、アパートでの霊障も落ち着くだろう。もちろん柊木さんの成仏は手伝う。ただ、それでアパートを貸し出せるようになれば、兄さんも除霊を急かすことはなくなる。当面の次善策としては悪くないだろう――いや、駄目だ。ただでさえ屋敷は、桃子さんの許可がなければ入居できない。僕らが二階に住むことを許されているのも、僕が日々桃子さんに捧げるスイーツと、日々引き受ける桃子さんの案内役というギブあってこそのテイクなのだ。
でも、今のままでは……寂しすぎる。
「あの、桃子さん」
「なぁに?」
「当面、彼には屋敷に住んでいただく、というのはどうでしょう。一緒ならもっと、ゆっくりお話ができると思うんです。それに、」
「すみません」
断りを入れたのは、桃子さんではなく柊木さんの声だった。
「確かに、そうすべきなのは理解しています。理解していますが……ただ……」
そして柊木さんは、窓の方に目を移す。視線を追って外を見下ろすと、相変わらず子供たちが楽しそうに駆け回っている。ひょっとして柊木さんは子供好きなのか。それで、公園を一望できるこの部屋に居残って……?
こうした些細な情報が決め手になることを、僕は前回のケースで学んだ。子供が好き。それはきっと、彼の心を解きほぐす重要な鍵になるだろう。
「わかりました。また伺います」
やんわり告げると、僕は深く頭を下げて部屋を出た。
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