麻布の幽霊屋敷 第四話

「どうした、瑞月」

 両手いっぱいに買い物袋を抱えてマンションに戻ると、先に帰宅していた兄さんが怪訝な目を僕に向けてきた。

「にやにやして、何かいいことあったのか」

「えっ……いや」

 今日も麻布の屋敷に足を運んだ僕は、そこで、例によって少女とのアフタヌーンティーを楽しんでいた。数あるスイーツの中で、特にチーズケーキを気に入った彼女は、毎度のように僕に注文を入れると、翌日、注文の差し入れをうきうきと食した。

 その幸せそうな顔が可愛くて、ついつい噛みしめていたのが運の尽きだった。

「さてはあれか、またアイドルだか声優だかのイベントに行ったのか。言っとくが、手はちゃんと洗えよ」

「あ、握手会じゃないし! っていうか、握手会の後もちゃんと手を洗ってるし……もったいないけどさ!」

「もったいないのかよ」

 ええそうです! もったいないんです! 推しの柔らかくて小さな手のひらのぬくもりを、本当は急速冷凍して永久に保存していたいんです! 愛でていたいんです!「そ……そういう兄さんこそ手がかりは見つかった?」

 すると兄さんは、答えの代わりにどやっと大きく胸を張ると、さっそくボディバッグからタブレットPCを取り出し、それを僕に差し出した。

「そこの『五津』ってフォルダを開いてみろ」

「えっ……」

 見ると、確かに『五津』と書かれたフォルダがデスクトップに置かれている。さっそく開いてみると、中には大量の画像データが収められていた。どうやら古い写真をスマホで撮影、そのデータを落とし込んだものらしい。ただ、オリジナルの写真はどれもかなりの年代物らしく、白黒の、しかも不明瞭なものばかりだ。

「これは?」

「ああ、戦前あの屋敷を所有していたオーナー、五津伯爵家の写真だよ。――どうだ、あいつは写っているか」

 なるほど。僕が麻布で毎日のように茶をシバている間、兄さんは昔の住人に的を絞って調査を進めていたらしい。が、せっかく兄さんが掻き集めてくれた写真にも、彼女の姿はどこにも写っていなかった。

「どうだ、奴は写っているか?」

「……ううん」

 食い入るように訊ねる兄さんに、僕は小さくかぶりを振る。

「そっか……けど、これ以上はなぁ。戦争でほとんど焼けちまったと言うし……」

「うーん、それもあるけど、そもそも彼女が、生前と同じ姿で化けて出ているとは限らないし……」

 折り畳み式のミニテーブルに、さっき買っておいたスーパーの総菜を広げる。本当は家計のために料理をやりたいのだけど、ガス台すらない今の部屋では、せいぜいケトルでお湯を沸かすのが精一杯だ。と、それはさておき――

 死者たちは、自分が一番満たされていた頃の姿で現れる。多くは若い頃の姿で。なので例えば、ある写真に孫と思しき少年と写るおばあちゃんが彼女の正体、という可能性もなくはないのだ。あるいは別の写真で、その少年と一緒に写るお母様と思しき女性が、という可能性も。

 とにかく、この方法は効率が悪い。できれば写真だけではなく、例えば日記だとか手記だとか、その手の文字情報も欲しいところだ。ただ、そうした資料が今も残っているかといえば……普通の家はまず残さないだろう。残していたとして、赤の他人がおいそれと閲覧できる代物では……いや待て、それを言えば写真だって。

「こんなにたくさんの写真をどこで? 遺族の方が見せてくれたの?」

「いや、博物館の資料だが?」

「は…………博物館?」

 まさか五津家の? いうあ、貴族だとは聞いていたけれど、戦後はそうした制度も消えてしまったと言うし、さすがに家族の博物館を設けるほどのアレでは……

「お前、五津電工って会社を聞いたことがあるか? いや、そいつは上場名で一般的には、メガソニックの方が通りが良いかもだが」

「メガソニック、って、あの家電メーカーの?」

 さすがにそれは知っている。日本でも有数の家電メーカーで、その創業者である五津義正氏は経営の神様として今も各界名士の尊敬を集めている。

「ちなみに、同じフォルダに白い軍服を着たイケメンの写真が入ってるだろ。そいつが創業者の五津義正氏だ」

「――ぇ」

 慌ててフォルダを漁り、それらしい写真を開く。確かに……ものすごい美男子がいる。白黒写真でもはっきりとわかる整った顔立ち。ほっそりとした顎に細い鼻梁。綺麗な二重瞼。僕は女性じゃないので詳しい需要はわからないけど、多分、今でも充分通用するタイプのイケメンだろう。

「そいつは出征前に撮られた写真だそうだ。ちなみにその博物館ってのが、五津電工の記念館でさ、五津氏の半生に関する展示が一通り揃ってて、まぁ、なかなかの見応えだったぞ。いやぁ波乱万丈ってのはああいう人生を指すんだなぁ、正直、感心したぜ、うん」

「へぇ……」

 普段は口が裂けても他人を褒めない兄さんがここまで褒めちぎるなんて、よっぽど凄い人生を送ったんだろう。おまけにイケメンだし……うん、勝てない。

「そんなに凄い人が、あの屋敷に住んでたんだ……でも、結局手放しちゃったんだね。場所も悪くないのに、どうしてかな」

「ああ。あの辺りの屋敷はな、戦後間もない頃に占領軍の将校どもにごっそり接収されちまったんだそうだ。そうでなくとも華族制度が廃止になって、経済的にも維持管理が難しかったんだろ」

「でも、後で買い戻すことはできたはずだよね? まして自分が生まれ育った家ならさ。メガソニックの創業者さんなら、それぐらいのお金も稼げただろうし……」

「さぁ……何か、嫌な思い出でもあったのかもな」

 そして兄さんは、僕が買ってきた半額シールつきの総菜パックをいそいそと開く。

「そういうお前は、何かわかったのか」

「えっ?」

 すると兄さんは、財布から一枚のレシートを取り出した。それは昨日、僕が麻布のコンビニでスイーツを買った時にレジで貰ったもので、レシートには品目と、『麻布十番店』の文字がしっかりと刻印されている。帳簿をつけるのはもっぱら兄さんの役目で、経費で落とせそうなレシートはレジで受け取って兄さんに渡すのが癖になっている……のだけど、今回はそれが裏目に出てしまったらしい。

「一人で行ったんだな」

 指先に挟んだレシートを顔の横でひらひらさせながら、やんわりと、でも、冷ややかに兄さんは問う。

「いや、それは……麻布マダムの皆さんに聞き込みをかける時の手土産、というか……」

「麻布の奥様方に? コンビニスイーツをか?」

「……」

 ぐうの音も出なくなる、というのはこのことだ。まぁ、口で兄さんに勝ったことなんて、これまでの人生で一度もないのだけど。

「……ごめん」

「まぁいい、どうせ過ぎたことだ。ただ、もう二度と一人では行くな」

「に、二度と? でも……今はだいぶ仲良くなってるし、その、特に危険は……」

「そういう問題じゃねぇ。相手は死人だ。そしてお前は生きてる。そのあたりのけじめをきっちりつけろと言ってんだ」

「けじめ……」

 兄さんの言いたいことはよくわかる。でも、死者が視えてしまう僕にはあまりにもハードルが高い注文だ。僕には、生きた人間と死者との見分けがつかない。ごく一部の、悪霊化した死者を除けば普通に言葉も交わせるし、だから僕も、つい生きた人間と同じように接してしまう。でも、それが兄さんには気に入らないらしい。

「ごめん……でも、せめて工事が終わるまでは……」

「は? 工事?」

「うん。彼女、工事の音をすごく怖がっているみたいなんだ。でも、僕が一緒ならイヤホンで音楽を聴かせてあげられるし、あと、気も紛れるだろうから」

 そういうことなら携帯プレイヤーでも買ってあげれば良い話なのだろうけど、僕のお小遣いも限られているし、何より……楽しいのだ。彼女との会話が。

 彼女は、外の世界の話なら喜んで何でも聞いた。流行りの漫画や小説、アニメに声優……ジャンルに癖がありすぎるのは概ね僕のせいではあるのだけど、ただ、不思議と彼女はオタクカルチャーへの偏見も少なく、まるで初めてジャパニメーションに触れた外国人のように無邪気に僕の話を聞いた。

どうやら屋敷の外の世界に強い興味があるらしい。にもかかわらず屋敷を出ようとしないのは、やはり、屋敷を護ることに相当なこだわりがあるのだろう。

「……工事の音?」

 口に放り込んだ唐揚げをもりもりと咀嚼しながら、兄さんが訝しげに眉根を寄せる。

「あ……うん。ほら、でかいホッピングマシンみたいなやつで、アスファルトに穴を開ける機械だよ。両手に持って、こう、ズガガガガ、って……尋常じゃない怯え方だったから、多分、彼女の死因に関係しているんだと思う」

「……へぇ」

 ふと兄さんは何かを考え込むように押し黙る。やがて何かを思いついたのか、指についた唐揚げの油をTシャツの裾で拭うと(汚い!)、僕の手元からPCをひったくり、何やらネットで検索を始める。

「ちなみにその音ってのは、こんな感じか?」

 やがて呼び出されたのは、なぜか機関銃の射撃訓練を撮影した映像だった。超高速で連射された無数の弾丸が、的がわりのコンクリートを容赦なく抉る映像は、音だけ聞けば、確かに、屋敷で耳にした工事の騒音によく似ている。

「……うん、似てる。でも、どうして」

「なるほどな」

 長い指を顎に添えると、兄さんは僕の問いに答えないまま静かに目を閉じる。どうやらまた黙考タイムに入ったらしい。ひょっとして……何か重要なピースだったんだろうか。今の、何でもない話が。

「奴は、犯人を見つけてくれと言ったんだよな?」

「えっ、あ、うん……それが?」

「殺した人間じゃなく?」

「え……?」

 どうだったかな。あまり細かな言い回しには気を払っていなかったから。でも、言われてみれば確かに〝犯人〟を見つけてくれと言っていた気がする。ただ……それがどう今回の件に絡むのか、僕には見当もつかない。

「うん、たしか」

「参ったな」

「どうしたの」

「いや、このままじゃ試合には勝っても、勝負には負けちまう、ってことだ」

「……え?」

 それは一体、どういう――

 ふと、電車のけたたましい警笛が耳をつんざいて、僕は思考を中断する。ベランダのすぐ下を西武線が走っているせいで、事故物件以前にとにかく騒音がひどい。数か月も住めば慣れるのだろうけど、慣れた頃にはきっと、僕らはまた別のマンションに移っている。

 部屋の中を振り返れば、家具も何もないがらんどうの部屋に、人力で持ち運びができるだけのわずかな荷物が置かれるばかり。ベッドどころか布団すらなく、夜は寝袋で凌ぐ毎日だ。

 落ち着かないな、と思った。

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