麻布の幽霊屋敷 第三話

 「……あれ?」

 屋敷に赴くと、どういうわけか彼女の姿はなかった。

 半月前に彼女と一悶着を起こした応接間。奥の食堂とそのさらに奥のキッチン。昔は食糧庫として使われていたらしいキッチン横の納戸――どこも一通り覗いてみたのだけど、やっぱり彼女の姿は見当たらない。

「留守なのかな……?」

 いたらいたで怖いのだけど、いないとそれなりに寂しい。そんなことをぼんやり考えながら、一旦玄関ホールに戻る。

 それにしても広い家だ。現代の建売住宅が独房かと思えるレベルで一つ一つの部屋が馬鹿みたいにでかい。図面の表記によればリビングが二十畳、ダイニングが十五畳、キッチンすら十畳近くはある。キッチンは、壁のL字キッチンとは別に作業台を擁したアメリカンドラマでよく見るタイプのそれで、施工当時としてはかなり先進的な仕様だったのだろう。今は故障しているが空調もセントラルヒーティング式で、改めて、当時この屋敷を施工した五津伯爵家の財力を思い知らされてしまう。うーん、ブルジョア。

「す……すみませーん……」

 今一度、ホールの奥に声をかけてみる。が、相変わらず彼女は姿を見せない。がらんどうの空間に動くものといえば、天窓から注ぐ光の中をふわりふわりと舞う埃ばかり。ただ、音の方はお世辞にも静かとは言えなくて、というのも、ちょうど表の道路で補修工事が行なわれているせいで、屋敷の中も相当に騒がしい。

 どうしよう。このまま彼女に会えなかったら、兄さんに黙って屋敷の鍵を借りた意味がない。

 兄さんは、僕が一人で事故物件に行くことを好まない。危ないから、というのが理由らしいけれど、本当は多分、それだけじゃない。

 兄さんは、僕が死者と一対一になることが嫌なんだ。

 バレれば間違いなく叱られる。それでも、わざわざ一人で会いに来たのは、叱られてもいいから彼女の正体に繋がるヒントが欲しかったからだ。僕は、兄さんほど賢くもなければバイタリティもない。兄さんは僕を褒めてくれるけど、僕の無能さは僕が一番よく知っている。実際、早くも今回の調査から外されてしまったわけで……

 それでも。

 そう、それでも僕は、幽霊と話すことならできるんだ。だから。

 とりあえず二階へ上がる。高級ホテルのロビーで見かけるような、吹き抜けを利用した瀟洒な回り階段を上がると、広い廊下に面して四つのドアが並んでいた。一番北側の簡素なドアを除けば、どれも頑丈そうな樫造りの扉だ。

「し……失礼します」

 とりあえず端っこのドアから一つ一つ開いてみる。中は、いずれも一階の応接室に負けずとも劣らない豪華な造りの洋室だった。金唐紙を張り巡らした壁と、大理石製のマントルピース。ただ、広さは部屋ごとに明らかな違いがあり、前庭に面した部屋だけが馬鹿みたいに広いほかは、八畳程度の、今の住宅事情から見ても常識的な広さの部屋が並んでいる。

 最後の、一番質素なドアを開くと、そこは意外にも洋室ではなく、こぢんまりとした和室の六畳間だった。方角が悪いせいだろう、昼間なのに恐ろしく薄暗い。

 その、薄暗い和室の片隅に、例の少女がうずくまっていた。

「え……?」

 まさか、僕に怯えて? ……いや、それだけは絶対にありえない。そもそも、本当に僕が怖ければ、前回兄さんにやったように投げ飛ばせば済む話で――そんなことを僕が考える間も少女は、膝に顔を埋めたまま両手でじっと耳を押さえている。僕の姿には、気づいてもいないようだ。

「あの、大丈夫ですか?」

 工事の音に負けないよう、やや大きめに声を張る。やっと声が届いたのか、彼女はハッと顔を上げると、あからさまな後悔の色をきれいな顔に浮かべた。

「こ、こんなところで何を――っ、」

 ふと屋敷の表で爆音がして、少女は慌てて顔を伏せる。どうやら少女は、表から響く道路工事の音に怯えているようだ。

 ただ……いくらなんでも怯えすぎだ。

 確かに、金属が岩石を穿つ重い音は、大多数の人間にとっては不快だろう。でも子供じゃあるまいし、そこまで怖がる必要があるのかといえばそうでもない。ひょっとして、殺される時にこれと似た音を耳にして、それがトラウマになっている……とか?

「あのっ」

 彼女の前に駆け寄り、畳に膝をつく。今度は僕が投げられるかも、という恐怖がほんの少し脳裡をよぎったけれど、それでも僕は、彼女を放ってはおけなかった。

 だってきっと、今までもこんなふうに、独りで……

「あの、これ」

 パーカーのポケットから取り出したものを、慌てて少女に差し出す。それを少女は不思議そうに見下ろすと、やがて、なにこれ、と言いたげに僕を見上げた。

「ええと……ワイヤレスイヤホンです。耳栓代わりになればと思って」

「耳栓? これが?」

「いえ、本来はイヤホンなんですけど、とりあえず、耳栓の代わりに」

 何となく会話が噛み合っていない。どうやら少女はワイヤレスイヤホンの存在を知らないようだ。その彼女は、僕の手から一つずつイヤーピースを取り上げると、とりあえず尖った方を耳の奥に押し込もうとする。が、そっちはアンテナだ。スピーカーじゃない。何より、尖り過ぎていて危険だ。

「待って」

 慌ててイヤホンを取り上げ、正しい方向に直してから彼女の耳に装着する。大きく薄い耳たぶは貝殻のようで、その美しさにどきどきしながらもう片方の耳にも同じようにイヤホンを押し込む。

「これ、あまり音が――きゃっ!」

「あ、あと少し……」

 一刻を争う救命士の気持ちでスマホを取り出し、アプリを立ち上げ、曲を再生――

「ひあっ!?」

「ど、どうしました!?」

「お、音楽……? どこから……?」 

 慌てて周りを見回す彼女は、やはり、こうしたタイプのイヤホンを知らなかったようだ。ただ、屋敷はもう何十年と空き家の状態が続いていたというし、彼女がそれ以前に亡くなった人間なら、決しておかしな話でもないだろう。

「その耳栓から聴こえているんです」

 自分の耳を指でトントンと小突きながら、身振りで事情を説明する。少女は、不思議そうに右耳のイヤホンをつけたり外したりすると、やがて、へぇ、と目を丸くした。

「こんなに小さいのに……」

「ええ。不思議でしょう――って、のぅあ!?」

「どうしたの?」

「あ、いえその……何か他にリクエスト、あります?」

 さりげなく当たり障りのないJPOPに曲を切り替えながら質問する。あうう、何でも良いから音楽を、と適当に再生したのが運の尽きだった。よりにもよって推し声優のガチめのキャラソンを流してしまうなんて……完全に詰んだ。詰みだ。

「……リクエスト?」

「は、はい! 好きな曲を仰ってください」

「そうね、じゃあ……いえ、あなたの好きな曲で構わないわ」

「……?」

 何だろう、途中、慌てて口を噤んだように見えたのは……さては自分の性癖がバレるのを恐れたのか? いや、それを言えば僕も相当な声豚だし、今の選曲でそれはイヤというほど伝わっているはずだ。そんな相手に、今更性癖を隠す必要なんか――って、そうじゃない! たぶん彼女は、曲の好みから世代がバレるのを避けたんだ。ということは、やっぱり生前の記憶を……?

 いや、それは薄々わかっていたことだから正直どうだっていい。問題は、本当は何もかも憶えているくせにどうして〝犯人を探してくれ〟なんて注文をつけたのか、だ。純粋に犯人を捜してきて欲しいのなら、憶えている限りの犯人に関する情報を明かすのが効率的だ。でも彼女はそうしなかった。やはり兄さんの言うとおり、犯人云々は屋敷を護るための無茶振りだったのだろう。

「さっきの曲」

「え?」

「さっきの曲がいいわ。あちらの方が元気が出るもの。……この曲は嫌い」

「は……はい」

 慌てて先程のキャラソンに切り替える。それにしても……嫌いなのか、この曲。国民的人気を誇る某男性ユニットが最近リリースしたラブソングで、遠距離恋愛がテーマの切ない歌詞が若い女性を中心にウケている、とのことで選んだのだけど。

 気付くと工事の音は止んでいた。念のため外の様子を確かめておこうと、さっきのバカ広い洋室に戻る。洋室には前庭に面したバルコニーがあって、庭や門扉、外の道路を一気に見渡すことができる。そのバルコニーから外を見下ろすと、作業員たちが早くも撤収を始めていた。少女が怯えていた騒音の原因と思しきホッピングの親玉みたいな掘削マシンも、すでに片付けられているようだ。

 とりあえず今日は、これ以上彼女が苦しむこともなさそうだ……

 ほっと胸を撫で下ろし、奥の和室へと引き返す。相変わらず彼女は部屋の隅にうずくまっていて、でも、僕の姿を見ると安心したように頬を緩めた。

「工事、終わったみたいですよ」

「そう……」

 おそるおそる立ち上がると、彼女は何かを思い出したようにはっとなり、それから、むむむと頬を赤らめた。なまじ肌が白いぶん、赤らんでいるのがはっきりとわかる。

「と、ところで今日は、何のご用かしら?」

 外したイヤホンを乱暴に僕に突き出しながら、そう少女は問うてくる。その頬は相変わらず真っ赤だ。耳も赤い。かわいい。

「何かしら」

「えっ、あ……いや、すみません!」

 しまった。ついじろじろと眺めてしまった。誓って言うがえっちなことは何も考えていない。本当だ……うん、多分。

「用、というほどの用ではないんですが、その……あなたと、お話がしたくて」

「お話?」

「は、はい……お一人だと、寂しいかなと思いまして……駄目でしたか」

 見ると、すでに彼女は落ち着きを取り戻していて、どころか冷ややかな目で僕を突き放している。まぁ、僕のような冴えないオタクに不躾な目を向けられたら、女性なら誰でもこんな顔になるだろう。おまけに……寂しそうだから一緒に話がしたいだなんて、余計なお世話にも程がある。

「すみません……嫌ですよね、僕みたいなキモオタと、その」

「お菓子は?」

「えっ?」

「だから、お菓子は、と訊いているの。人様の家にお茶をしに行くときは、手土産を持参するのが礼儀でしょう? ……贅沢は言わないわ。キャラメル一個でも、構わなくてよ」

 そして少女は、少し気まずそうにそっぽを向く。どうやら甘いものをご所望らしい。

 彼らはすでに死んでいるから、生きるための食事は必要としない。ただ、嗜好品として味わうことはできるようで、むしろ純粋な嗜好であるぶん喜びも大きい、らしい。そんなわけで、幽霊にお菓子を所望されること自体は別に驚かないのだけど、それが、前回は散々僕らに敵意をぶつけてやまなかった彼女のリクエスト、というのが純粋に驚きだった。

「ええと……すみません、そういうのは全く……あっ、でも今すぐコンビニに行って買ってきますので、好きなお菓子があったら言ってください」

「コンビニ?」

「ええと、危険物以外は基本的に何でも売ってる便利なお店のことです。最近は本格仕様のスイーツもばんばん売り出していて、なかなか侮れませんよ?」

「そ、そう……じゃあ、バターケーキ……とか、お願いしても?」

「バターケーキ? チーズケーキじゃなくて?」

「えっ? ええと、じゃあその、チーズケーキ? で構わないわ。何でもいいから買ってきて。できれば、その、最近流行りの……」

 どこか照れ臭そうに甘いものをリクエストする彼女は、年頃の女の子そのままで、僕は少し微笑ましくなる。と同時に悲しくもあった。事情はどうあれ彼女は、こんな若さのままで人生を終えてしまったのだ。その後の人生で得られるはずだった喜びや、幸せを何も手にできないまま。

 そして今は、こんな寂しい場所に一人で暮らしている……

「わかりました。たくさん買ってきますので、楽しみに待っていてください。ああ、あと、飲み物のリクエストはあります?」

「飲み物? アフタヌーンで飲むものといえば紅茶でしょう? 何を言うの?」

「紅茶ですね、わかりました!」

 軽く敬礼。瞬間、彼女の顔がふと凍りついた気がして、見ると、もう彼女はいつもの仏頂面に戻っていた。……さっきのは、単に僕の見間違いか。

「じゃ、行っていきます」

「必ずよ」

「えっ?」

「必ず、戻ってきて。いいこと?」

 どこか必死な顔で告げる彼女は、余程スイーツに飢えているのだろう。僕はもう一度軽く敬礼すると、今度こそコンビニに向かった。

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