麻布の幽霊屋敷 第二話
ブレーカーの落ちる音とともに、部屋中の照明が一斉に消える。この二か月、僕らに温かな寝床を提供してくれた中野駅徒歩五分の2DK中古マンションの一室は、このたびようやく借り手がつき、明日から壁紙の貼り換えとクリーニングに入る。
この部屋も、かつては札つきの曰くあり物件だった。夜な夜な響く謎の読経のおかげで入居者が定着しなかったこの部屋を、兄さんが買い上げたのが三ヶ月前。霊障の犯人は、以前そこで孤独死した独居老人で、読経と思われたものは、実は彼の愚痴と説教だった。
普通、生きた人間は幽霊の声を聴くことはできないのだけど、寝入り端や、疲れが溜まりすぎて意識が落ちそうな時には聴こえてしまうことも多い。入居者は部屋で毎晩寝泊まりする。そのたびに得体の知れない人の声が聴こえたら、確かに気色が悪いだろう。
除霊は、僕がひとくさり老人の説教に相槌を打つと嘘のようにすんなり完了してしまった。自分の話に耳を傾けてくれる若造を探していたらしい。まぁ内容は、今時の若者にはためになるどころか倫理観が古典的すぎて伝わりにくい代物だったのだけど。
「ありがとうございました。今度の入居者さんはとても良い方なので、どうか楽しみにしていてください」
「待て、誰と話してる」
部屋から出て来た兄さんが、ぎょっとした顔で訊いてくる。僕の言動から、まだ中に誰か居残っているのかと勘違いしたようだ。
「あ、違うんだ。今のはその、部屋に……」
「は? 部屋?」
「うん。短かったけど、一応、雨露を凌がせてくれたし」
「んだよ、びびらせやがって」
うんざり顔で溜息をつくと、兄さんは部屋のドアを閉ざす。そうして僕らは、めいめいボストンバッグと段ボールを抱えて住み慣れたマンションを出た。
「次はどのマンションだっけ」
「こないだ首吊って自殺した男の霊を祓っただろ、あそこだ」
「えぇ……」
ついドン引いてしまったのは、そこが首吊り自殺が起きた部屋だったから、ではない。今更その程度の心理的瑕疵にビビる僕ではないし、そもそも、部屋の除霊はとっくの昔に終えている。
むしろ問題は、その祓い方にあった。
「いや、あの時のお前ときたら傑作だったなぁ! 酒も飲まねぇのに真っ赤になって!」
「そ、そりゃなるに決まってるだろ! あんなにたくさん女の人に囲まれて……犬みたいに撫で回されて……こ、怖かったんだから、ほんとに!」
その霊を現世に縛りつけていたのも、やっぱり生前の思い残しだった。ただ、問題はその中身で、若くてかわいい女の子に思いっきり踏まれたいっ! という仏性もへったくれもない願望に、よせばいいのに兄さんもノリノリで応え、学生時代に交流のあった女友達を総動員、肝試しと称してのピザパーティーを敢行したのだった。そこで僕は、集まった兄の友人たちに「陽ちゃんの弟だー」「かわいー」と散々に撫でくり回され、最後はぶるぶる震えながら部屋の隅っこで冷えたサラミピザを齧ることを余儀なくされた。
結果的に除霊は成功したのだけど、無邪気に笑い合う女性たちの足元やお尻の下で満足そうに踏みしだかれる彼の姿は、正直、二度と思い出したくなかった。
「怖かったぁ? 何言ってんだよお前、二十二にもなって! ……ったく、俺の弟ともあろう者が。俺がお前ぐらいの頃はな、そりゃもう凄かったんだぜ色々と!」
「ど、どうせ……兄さんと違って非モテだよ」
学生時代は女子生徒の告白をちぎっては投げし、毎年二月十四日にはチョコでいっぱいの四十リットルゴミ袋をサンタクロースよろしく肩に担いで学校から持ち帰った兄にしてみれば、成人した今も恋人どころか女友達の一人もできない僕は、さぞや情けなく見えるのだろう。
駅前のバス停で路線バスに乗り込み、一路、新居を目指す。次の新居は練馬にあり、中野からであれば鉄道より路線バスを使った方が早く着く。お昼時ということもあって車内は比較的空いていて、僕らは最後尾の席に腰を下ろすと、その隣と足元に抱えていた荷物を置いた。
さっそく兄さんがスマホを弄りだす。どうせ楽待かレインズ、さもなければ大島てるあたりだろうと思って覗き込むと、ふたばちゃんねるのオカルト板だった。
「またオカ板?」
「ああ。赤羽に、もう何人も死んでるやばい部屋があるらしい。何でも、一年前に無理心中があったとか――おっ、大島てるに詳細が載ってる。へぇ……」
嬉々と目を輝かせる兄さんには、事故物件情報サイトの過去の殺人事件を示す炎マークも、ホテルバイキングにずらりと並ぶごちそうにしか見えないのだろう。
「別に、好き好んでそんな物件ばかり買い漁らなくても……そりゃお買い得かもしれないけどさ、除霊代だって馬鹿にならないんだし」
除霊は、一度外注すれば新車が一台買えるぐらいのお金が平気で飛ぶ。訳あり事故物件が投資家界隈で敬遠されるのは、幽霊や祟りが怖いからではなく、単純に費用対効果が悪すぎるせいだ。ある程度自前で済ませられる僕らでさえ、辛うじて黒を出せる程度の収益しか上げられないのだから、本来、そこまで美味しい物件でもない。
とはいえ、そうした物件に好んで手を出す兄さんの本当の動機も知っているから、僕としては、あまり強くは言えないのだけど。
「そういや、例の件は何か進展があったか?」
「例の件?」
「麻布の屋敷の件に決まってんだろ。ここ最近、図書館で過去の殺人事件を調べているんだろ。それらしい事件は見つかったか?」
「ああ、その件……いや、それが、まだ……」
屋敷に憑いている以上、あそこで起きた殺人事件の被害者、という線で疑うのが妥当だろう。というわけで今は、ネット記事や図書館の新聞アーカイブを漁ってはいるのだけど、あれから半月が経つ今も、それらしい事件の記事は一つも見つかっていない。
「まぁ、時間をかければいつかは、」
「そいつはどうだろうな」
「えっ?」
問い返す僕に、兄さんはスマホから目を離すことなく答える。
「こいつは俺の勘だが……多分あいつは、生前のことを憶えてるぞ。その上で、こんな注文を出したんだ」
「えっ、何のために……」
「屋敷を護るために決まってるだろ」
言われてみれば、彼女は終始、いかに屋敷を護るかにこだわっていたように思う。その彼女が、思い残しはと問われていきなり犯人の話題へ飛んだことを不思議に思っていたのだけど、単なる目くらましだったのなら辻褄も合う。
「そもそも、本当に犯人の居所が気になるってンなら、何でテメェで捜しに行かねぇんだ。答えは簡単だ。そもそも興味がねぇか、あるいはすでに知っていて、その上で復讐もせずに放ったらかしているか、だ。いずれにせよ、あいつにとっちゃ大して重要な存在じゃない……逆に、屋敷に対しては異常なほど執着している。工事関係者たちを叩き出したり、屋敷の使い方にやかましく制約をかけたりな。あいつの本当の目的は、あくまでも屋敷を昔の姿のまま護ることにあるのさ」
「本当の、目的……」
「ああ。んで、屋敷を護ることが目的である以上、注文は無理筋に近い方がいい。そのためには、可能な限り与える情報を減らすことが肝要だ。あえて名前を伏せたのも、無個性すぎる格好も、あるいは……いや、さすがにそいつは邪推がすぎるか。注文の件とは関係なしに名前を伏せていたしな……」
「その話が本当なら……僕の半月は無駄だったってこと?」
すると兄さんはふと僕を振り返ると、僕の頭をわしっと撫でた。
「なぁにヘコんでんだよ! お前が半月も頑張ってくれたから、奴が嘘をついてることに確信が持てたんじゃねぇか。真面目なお前が半月も頑張って、それで何も出てこなかったから。だからだよ、瑞月」
「……うん」
そう言ってもらえると少しほっとする。兄さんの役に立てるのは嬉しい。そして、それと同じだけ足を引っ張ってしまうのは心苦しい。
「つーわけで、だ。今後は事件じゃなく、奴の正体を暴くことに力点を移すこととする」
「正体?」
「ああ。餌だとわかってるもんにいつまでも拘るのは馬鹿らしいだろ。そもそも、俺たちの目的は奴の探偵ゲームに付き合うことじゃない。一日でも早く奴を成仏させて、あの屋敷を賃貸に出すことだ」
「でも……名前も、生まれた時代もわからない人の身元を、一体どうやって……」
「いや、さすがにこっちはノーヒントってわけでもねぇだろ。事実、奴は屋敷を護ることにやたらとこだわっている。じゃあ当然、屋敷の関係者と見るのが妥当だ。……おそらくは元住人、もしくはその関係者か」
「あっ……その件だけどさ」
「あン?」
「念のため、調べた方がいいかなと思って、その……近所の人たちに、昔、屋敷に住む女性が殺されたことはなかったか、ヒアリングしてみたんだ」
「お前……」
がしっ、と大きな手のひらに頭を掴まれ、そのままわしわしわしわしと犬みたいに撫で回される。痛い。でも、兄さんにこんなふうに雑に撫でられるのは正直、嫌いじゃない。
「ほんっっっとお前、可愛いなぁ!」
「あ、ありがと……」
見るからにブルジョアな麻布マダムに凸るのは、本当のことを言えばしんどかった。でも、兄さんが喜んでくれたのなら、それだけで僕は充分だ。
ただ、肝心の成果はというと。
「……でも、結局、それらしい情報は何も……というか、そもそもあそこは何十年と空き家の状態が続いていて、誰も、人が住んでいるところを見たことがないって……」
「なるほど」
細い顎に指先を添えると、兄さんは車窓へと目を映す。何か考え込んでいるらしい。このモードに入った兄さんは、下手に集中を乱さない方がいい。それを二十二年の付き合いで知る僕は、思考の邪魔にならないようそっと口を閉じた。
やがてバスはマンションの最寄りの停留所に到着する。次のマンションは練馬駅から徒歩七分の、やはりファミリータイプの中古マンションだ。駅前には飲食店が充実し、外食中心の僕らが食事に困ることもなさそうだ。ありがたい。
「とりあえず俺は、過去の住人を捜してみる。運が良けりゃ何か探れるだろ」
「えっ? じゃ、じゃあ僕は」
「お前は……そうだな」
またしても兄さんは考え込むと、やがてニッと笑って言った。
「とりあえず、部屋に着いたらコーヒーを淹れてくれ」
要するに……さしあたって僕に任せられる仕事はない、と、そういうことらしかった。
でも。
僕は嫌だった。ただでさえ弟のためにあらゆるものを――仕事を、キャリアを、約束された成功を――犠牲にした兄さんの、さらなる足手まといになることが。
そんなわけで翌日、僕は兄さんのキーボックスから例の真鍮製の鍵を拝借すると、一人、麻布の屋敷へと向かった。
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