第36話 天賦の水神

 カトレアたちと別れたノエルは、軽い足取りのまま突き当たりの扉を開いた。その先ではずらりと並んだデスクにやつれた様子の大人たちが向かい、忙しなく作業を続けている。アステリアの職員室——教職だけでなく、多様な立場の者が集う中枢部だ。

 中でも特別散らかったデスクに視線をやると、ノエルは真っ直ぐにそこへ向かった。積み上がった書類の陰からは、妙に濃いコーヒーの香りが漂ってくる。席にはジンが着いていた。


「ジンさん。戻りました」

「おお、ノエル! 調子良さそうだな」


「おかげさまで」と丁寧に言うと、また何気ない話に花が咲いた。内容はロシェにしたものと大差ないが、二人にとっては重要な一幕だ。

 一頻り話終わると、ノエルは書類を取り出しながら本題を切り出した。ジンはまた書類か、と言わんばかりに苦い顔をしたが、受け取ってから目を通すまでは速かった。


「報告書です。先に見せておこうと思って」

「多いな。これだけ相手にするのは骨が折れるだろうに」


 ジンが肩をすくめながら言う。ノエルの元々の任務は何の変哲もない魔族の討伐だ。それに加え、あちこちから飛んでくる救難要請を片っ端からクリアしていった。そんな大働き自体はいつものことなのだが、討伐した魔族の数が格段に多いのだ。

 最初は「ノエルがより一層活躍した」とだけ思っていたジンだが、数と睨み合ううちに眉間にしわが寄っていく。ノエルが伝えたいことはその異常性だった。


「……いや、増えすぎだな。母数がどうあれ、魔族がこうも人前に出てくるとは」

「そうなんです。明らかに魔族の動きが活発化している。しかも……」


 報告書の一節に指を添え、続ける。


「どこか、熱に浮かされて見えました。例えば……飢えているような。理由までは分かりませんが」

「ふーむ……確かに、ここ最近の目撃情報も多い。魔族の種類に一貫性がないとなると……」


 ジンはしばらく考え込んでから、デスク上の書類を漁り始めた。魔族の活発化については、すでにアステリアが知覚している。件数が増えたことで職員の疲労も増しているというわけだ。一過性のものと考えられていたが、ノエルとジンは特に警戒心を強めていた。


「報告ご苦労さん。俺からも原因を調査するように提言しとく。忙しくなるだろうし、休める時にしっかり休めよ?」

「あはは、お互い様ですよ」


 ひとまず書類漁りを終えてノエルを労うと、ジンはコーヒーを一口で飲み干してから笑った。そうして報告を終えたノエルは別の上司にも同様に書類を渡してから職員室を後にし、ようやく自由時間に移ることになった。


 ——と言っても、文字通り束の間の自由だったのだが。


「ふうっ」


 アステリアの職員用に割り当てられた個室に戻り、いの一番にシャワーを浴びたノエルは、常備してあるアイスティーを美味しそうに飲み干して腰を下ろした。窓を全開にし、読みかけの本を手に取る。この穏やかな時間が一人での大きな楽しみなのだ。そうして栞に手を掛けた瞬間。


 ピピ、という短い電子音と共に端末が震えた。


「あ〜……そんなぁ」


 見なくとも内容がわかる。救難要請だ。端末を開き、案の定とノエルはうなだれた。


(救難はいいけど、バッドタイミングだなあ)


 魔族の数もさることながら、最近はノエルに回される仕事が増えた。その殆どが第二世代からの引き継ぎだ。最初からノエルに行かせろという意見もあったが、それだと第二世代の立つ瀬がない。そもそも、一部の実力者に頼り切りの態勢に問題があった。


 それはさておき、頼られればそれに報いるのがノエルの心情だ。要請を受けるべく内容を読み込んで、彼は一瞬目を丸くした。


「この場所は……」


 そして嬉しそうに微笑むと、鼻歌交じりに部屋を飛び出したのだった。


 * * *


 魔族増加のあおりを受け、現場の退魔師は苦戦していた。興奮した魔族たちが人を見境なく襲い、必要以上に戦闘を仕掛けてくる。普段なら人前に出てこない穏やかな種まで現れる始末だ。


「諦めるな、持ち堪えろ! 援軍が来るはずだ!」


 部隊長はそう鼓舞するが、旗色は悪い。負傷者も続出している。街一つを捨てて撤退する他ない——そこまで追い詰められた時だった。

 堤防が決壊したように、コンクリートの上を洪水が駆ける。一瞬の出来事だった。空は晴天、近くに川はない。戦場に突然大量の水が湧いていた。


「助けに来ましたーっ! もう大丈夫!」


 快活な声と共に、波に乗ったノエルが現れた。ざわつく退魔師を尻目に、水上を滑るように高速移動する。数秒で塗り替えられたフィールドに、魔族の大群は完全に脚を取られていた。


 ノエルの持つ『水』の異能力は文字通り水を生成し、自在に操る力だ。特別な効果もないただの水。ノエルが天才たる所以は、異能の量と質にあった。


「"スピオラの渦"」


 魔族の膝下まで浸った水が、意思を得たかのように全身を取り囲む。暴れ回る魔族も水流の激しさには抵抗できず、ますます傘を増した水が渦を巻き、瓦礫を巻き込んで加速する。水没、水圧、水流の三重苦に並の生物は耐えられない。

 数十秒掻き混ぜると、渦はすうっと消えていった。周囲の人々に影響はない。縦に積み上がった魔族を横に、ノエルは「やり切った」と言わんばかりの爽やかな息を吐いた。


 異能の話に戻ろう。一つ目の強みは量だ。誰も、水の生成限界を知らない。ノエルは無限にも思える莫大な水量を出し入れできる。津波、大雨、洪水……水に関する天災を知っていれば、「大量の水」がどれほどの凶器かも分かるだろう。ある者は、ノエルを"人の形をした海"と称したという。


 そして質。水の一滴に至るまでの緻密な異能制御と、解放と解除の切り替えの速度、手数の多さ。対魔科生としての三年間で洗練されたものだ。文字通りの異能使いとしてなら、ノエルは最高峰に居た。


「ひ、一人であの数を……」

「ジンさんといい、化物はとことん化物だな……」


 半ば怯えつつ安堵する味方に、ノエルが一瞬だけ目を向ける。いつもなら念入りに負傷の確認や状況整理をするところだが、今回はにこりと笑って「それでは!」とだけ言い、水流に乗って駆け去ってしまった。


 ぽかんとする人々をよそに、ノエルは上機嫌で加速する。それもそのはず、彼にとってはここからがメインディッシュだ。同じ方角にまっすぐ移動し続け、ある街にたどり着く。そこからは水を収め、小走りで病院に駆け込んだ。


「レイン、スノウ!」


 そう、弟妹に会いにきたのだ。ちょうど立ち寄れる距離だったことで、時間の合間に見舞いに行くことができる。病室には、ベッドに寝そべる少年と、そばで本を読む少女の姿があった。


「あれ!? 兄さんだ!」

「わっ、兄さん!?」


 突然の来訪に二人は大層驚いていたが、その表情は歓喜で溢れていた。ノエルはレインの頭を撫でてからベッド横に腰を下ろし、スノウと軽く握手をした。


「近くに寄ったからさ、ついでに会いにきたんだ。どうだいスノウ、体調に変わりはない?」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう」


 弟、スノウは生まれつき病弱で入院生活がほとんどだ。だからこそ、退魔師として戦うノエルに羨望の眼差しを向けている。その甲斐あってか、今は顔色もだいぶ良くなっていた。


「このまま行けばまた退院できるかもって。ねえ兄さん、そしたら私、三人で遊びに行きたいな」

「僕、遊園地がいい!」


 妹、レインはノエルと同じ異能力者だ。それ故、スノウとはまた違った方向で兄を敬愛している。年相応に慕ってくれる家族の存在に、ノエルは心からの幸福を感じていた。


 久しぶりに顔を合わせたこともあり、他愛のない会話が続いた。軽く一時間は超えただろうか。その間スノウの体調にも変化なく、ノエルは安心して話を終えることができた。


「じゃあ、そろそろ帰るよ。また——」


 と、席を立つと同時に、またも端末が声を上げた。再び救難の要請だ。不安そうな顔をした二人の頭に手を乗せて、何事もなかったように続けた。


「また余裕ができたら会いに来る。スノウ、体に気を付けて。レイン、スノウのことをよろしく頼むよ」


 そう言うと、二人は笑顔で頷いて手を振った。ノエルも小さく手を揺らし、病室を出る。外へ出てからは端末を確認し、また流水に乗って駆けた。


 ざぶざぶと流れる水に黄昏の橙が反射していた。

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