三章 謎と巨龍と淡い雨

第35話 夕立と呼ばれた男

「はあっ、はぁっ……」


 一人の男が、暗い夜道を走っている。片手に握った剣は根本から折られ、顔には滝のような汗が流れている。そしてその背後には、血走った眼で獲物を狙う魔族——それも十数の群れが迫っていた。


「くそ、くそ、くそっ! こんな大群やれるわけねえだろっ、全部押し付けやがって!」


 退魔師の男は上層部への恨み節を吐き散らしながら、全力で足を回す。もはや交戦の意思はなく、魔族からすればただのご馳走だ。男の奮闘むなしく、魔族たちは無我夢中の彼を巧みに誘導し、ついに袋小路まで追い詰めていた。


 逃げ場を失った男は壁に背をつけ、腰が抜けたように崩れ落ちていく。魔族たちは一様に口角を吊り上げ、鋭い爪を男に向けた。


「いやだ、死にたくな——」


 命乞いの暇すらない。


 それは、魔族にとっても同じだった。



 すう、と空気が冷える。瞬間、無数の雨粒が魔族たちの頭上に降り注いだ。豪雨という言葉では生ぬるい。機関銃のような凄まじい速度の水滴が、無差別に魔族の身体を撃ち抜いていく。そうして地面に落ちた膨大な量の水は奔流となり、ざんざんと音を立てながら残骸を洗い流すと、何事もなかったかのように引いていった。


 男は呆然とその様子を眺めていた。目と鼻の先、至近距離だったにもかかわらず、男には血はおろか、水の一滴も付いていなかった。


「あ……あんたが、"夕立"……」


 道の先には、年若い青年が立っている。夜に溶け込む濡羽の黒髪に少し垂れた目元をした、端正な顔立ちの青年だった。


「間に合ってよかった。お怪我はありませんか?」


 天才と称えられた『水』の異能力者。いずれジンを凌駕すると期待された若き退魔師。

 ノエルは、そう言ってにこやかに笑った。


 これは、現在から三年前の物語である。




 * * *



 アステリアには、「世代」と呼ばれる概念が存在する。これは退魔師を当時の組織の変遷に合わせて分類したものだ。そもそもアステリアが学園の形を取らず、職も年齢もバラバラな異能力者を寄せ集め、傭兵集団として使っていた時代——"第一世代"。そして学園を設立し、若い異能力者を集め、適正を問わず大半を退魔師として教育しようとした"第二世代"。最後に、ある失敗を受け、高い適正を持つものだけを選抜し育成し始めたごく少数の"第三世代"。それぞれ第一にジン、第二にカトレア、第三にロシェやヒューズたち学生が当てはまる。


 ノエル・ハイトマン——レインの五つ上の実兄である彼は、最初の"第三世代"だった。


「ノエルさん」


 アステリア——移設前の地下校舎で、小さく呼び声が掛かる。廊下を歩いていたノエルが振り向くと、そこには燻んだような金髪の、小柄な少女が立っていた。一年生のロシェだ。その姿は今と寸分違わない。


「おかえり。今回は長引いたね」

「いやあ、丁度他の救援が重なってさ。あちこち駆け回ったからヘトヘトだよ」


 19歳……学園を卒業したばかりのノエルは本来一年生との接点はないが、彼らはジンを介して入学前から付き合いがあり、深い友人関係にあった。


「卒業してから、どう? 何か変わった?」

「どうだろ、任務は相変わらずだし。あっ、遠征は多くなったなあ。その分自由時間は減ったかな」


 談笑しながら廊下を歩いていると、何人か退魔師とすれ違う。彼らがノエルに向ける眼差しは尊敬であったり、畏怖であったり、嫉妬であったりと様々だ。そして嫉妬の念を抱くほとんどが"第二世代"の退魔師だった。


 第二世代というのは要するに、元々完成していた第一世代を参考に、「退魔師を大量に育成しよう」という目的で集められた量産型の世代だ。本来なら総合科、諜報科、医療科に振り分けられるところを無理に対魔科に入れた弊害で、実力不足の退魔師が多く生まれることになった。それを『失敗作』と断じられて第三世代……選りすぐりの生徒に注目が集まったとなれば、恨みが募るのも当然と言える。


 最初の第三世代がノエルであったのも問題だ。現最強に迫り、第二どころか後輩の第三たちを遥かに上回る傑物を輩出したせいで、このプロジェクトが爆発的なスタートダッシュを切ってしまった。こうなれば組織としては第三の評価がうなぎ上り、第二の評価が急降下。気の毒とも言える世代だった。


 複雑な感情を向けられてはいたが、当のノエルは気にしていなかった。彼にとっては皆同じ志をもった仲間たちだ。平等に接し、助け、支える。ノエルはどこまでも平等な男だった。

 ただし——


「なら、かなり我慢したんじゃない? 妹さ——」

「そう! それがさ、わざわざ電話してくれたんだよ! レインとスノウが揃って『がんばれ兄さん』って……もう、震えたね。良い子たち!」


 妹と弟だけは格別だ。

 最愛のレインとスノウ。その存在が彼の原動力だった。ペラペラと妹弟との電話について話し始めたノエルに、ロシェがやれやれと首を振る。別段苦痛でもないが、途中から以前聞いた家族自慢がループするのだ。一週間付き合えば暗唱できる、とまで言われるほどの溺愛で有名だった。


「……で、特訓の成果を見て欲しいって言ってね? そこで披露されたのがなんと……」

「ノエルさん、もういいよ。それ七回目」

「あれ……そうだっけ? ごめんごめん、ついね」


 少し眉を下げて笑うノエルに、ロシェも珍しく微笑み返す。そうして話が止められたところで、また後ろから呼び声が掛かった。


「相変わらずだな、ノエル」


 凛としつつも親しみの篭った声に、またノエルの頬が緩む。声の主もノエルの友人の一人だった。金の長髪を一つに結んだ、スーツ姿の女性。まだ右腕を失う前のカトレアがそこにいた。


「カトレアさん! お久しぶりです」

「うん、久しぶり。元気そうで何よりだよ。まあ、君の獅子奮迅の活躍ぶりを聞いていると弱った様子こそ想像できないが」

「買い被りすぎですよ。僕も怪我くらいします」


 ノエルとカトレアは、職務上は上司と部下の関係にあたる。ノエルが在校生の頃から任務を共にすることが多く、それをきっかけに親交を深めることになったのだ。


「ロシェもますます力を付けたそうじゃないか。ジンさんも嬉しそうに自慢し回っていたよ」

「ジンが? …………恥ずかしい」

「期待の表れさ。そう言ってやるな」


 ロシェも交えて一頻り世間話を楽しんだ後、ふとカトレアが「そういえば」と後ろを向いた。ノエルもそれに続く。視線の先——少し離れたところで佇んでいた男は、二人の動きに気付くと表情を引き締めて歩み寄り、ノエルの前で深々と頭を下げた。


「あなたは……」

「昨日助けてもらったもんだ。お陰で助かった。あんたには感謝してもしきれねえ……ありがとう」


 昨日と言われ、ノエルが「ああ!」と手を打つ。路地裏で魔族に追われていた退魔師だ。あの時の怯え切った表情はどこへやら、その顔はどこかやる気に満ちていた。


「どうしても君に会いたいと言うから、連れてきた」

「ああ。あんたは命の恩人だ」

「僕は仕事をしただけですよ。……でも、その言葉が何よりのご褒美です。これからも一緒に頑張りましょうね」


 そう言われると男はもう一度感謝と共に頭を下げ、退魔師としての飛躍を誓った。男の後ろ姿を見送るノエルは、凛々しい笑みを浮かべていた。


「フフ……良い顔だな」

「嬉しくって。ああ言ってもらうために戦ってますから」


 彼の原動力は妹弟への愛情だ。しかしそれと並んで、自分に向けられる感謝と助けた者の明るい心。これがノエルの宝物だった。常人より優れた異能を持ちながら、ノエルの根底にあったのは純然たる慈愛の心なのだ。

 それを間近で感じ、絆される人間は少なくない。ロシェもカトレアもそうだった。ノエルの友人は、皆ノエルを心から尊敬していた。


「……うん、俄然やる気が湧いてきた! じゃ、僕は任務の報告があるので!」


 澄んだ眼を大きく開いて、ぐっと拳を握る。「また食事でも」という誘いと共に、ノエルは廊下をきびきびと歩いていった。





 暖かに、それでいて渓流のように穏やかに流れる時間。だが、これは幕間に過ぎない。

 災いの足音は、徐々に近付いているのだ。

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