第15話 渾黒の谷にて

「血の、槍……」


 騒めく生徒や職員たちの中心で、突き立てられた深紅の槍が異様な存在感を放っている。ヒューズはごくりと唾を飲み込むと、横で怯えるフェリシアをそっと引き寄せた。


「兄ちゃん……これ、どこから?」

「分からない。今はじっとしておこう」


 先の任務——黒い果実のことが脳裏によぎる。これも怪物に変形するのではないか、と半ばトラウマじみた観念だったが、警戒に越したことはない。ここは学校だ。焦って単独で動いても損をするだけだろう。

 と、誰もが動かず槍を見つめる中で、視界の端に小柄な人影が見えた。横に人が立っている。ゆっくりと顔を向けると、そこには神妙な面持ちで槍を注視するロシェの姿があった。


「ロシェ先輩?」

「…………」


 ロシェの瞳は黄金に輝いている。天眼……異能を行使しているのだ。硬直したまま数十秒経つと、ロシェはぽつりと「解ける」と口にした。


 その発言に反応する間もなく、目の前の槍がぱしゃ、と音を立てて破裂した。シャボン玉が弾けるようにあっさりと輪郭を失ったそれは、液体として流れ落ちると地面の亀裂に吸い込まれ、ただ血痕だけが残る形となった。


「血を固めて操る異能……かしらね。まだ魔族の仕業とは断定できないけれど、敵対者の威嚇と考えるのが普通。どう思う?」

「ど、どう思うって聞かれても……俺には情報がなさ——」


 ヒューズの声を遮り、周囲から一斉にけたたましい電子音が鳴り響く。少し大袈裟に体を震わせたヒューズをよそに懐に手を入れ、ロシェは音を発する携帯端末を取り出した。辺りの人々も同様に端末を触っている。同時に着信が入ったのだ。


「先輩、どうしたんですか?」

「『一帯連絡』ね。アステリアの関係者に向けて一斉かつ一方的に送れる緊急通信。生で聞けるボイスメモって感じ。情報的に危ういから、主に遺言なことが多い」

「遺言……」

「冗談よ。というか、これ持ってないの?」

「電子機器は持ってると壊れちゃうので」


「不便なのね」と一言こぼし、通信を開く。掠れた風の音と、押し殺すような息遣いが混じり、不気味に鼓膜を震わせてくる。緊張を和らげるために軽口を叩いていた二人も、再び顔を曇らせた。


『——隊、調査班から一帯連絡……現在位置は、サンの渓谷。吸血鬼ヴァンパイアに関する現状調査は。失敗しました』


 流れてくる男の声は弱々しく、時折苦しげな咳もしていた。サンの渓谷という言葉は初耳だが、そこで吸血鬼が活動していたのだろうか。先程の「遺言」という言葉を思い出し、嫌な予感に思わず顔をしかめてしまう。


『現在……岩陰で、隠れている状態です。班員六名は死亡、単独での脱出は、困難。座標を、送信しますので……救助を、願います。敵は——』


 がたん。ぐちゃり。


 端末を落としたであろう音と、不快な水音。

 その二つだけを残し、男の声は聞こえなくなった。


「……ロシェ先輩」

「私たちには……どうしようもないわ。これは一方的な通信。何が起きたかは考えるまでもない」


 冷静に振る舞いながら、どこか遠い目でロシェは言う。その右腕は怯えるフェリシアへと向き、気遣うように頭に手をやっていた。

 周囲で通信を開いていた人々も、皆一様に暗い表情をしている。槍との関係はともかく、こう不穏なことが立て続けに起これば無理もない。通信を切ろうとする者も現れたところで、再び音が流れ始めた。


『——これは、通信機でしょうか。まだ動いていますね』


 鈴のような、柔らかながらも厳格な女の声。知性を帯び、凛とした口調からは品格さえ窺えたが、間違いなく味方ではない。

 男を殺した敵の声だ。


『ごきげんよう、アステリアの皆様。先程……そちらの「城」に向けて贈り物をさせていただきました。不躾に思われたかもしれません』


 そこで、ヒューズは確信した。贈り物とは血の槍のことだ。あれを撃ち込んだ者が、今声を発しているこの女だろう。だとすれば、校舎の位置は正確に把握されているということになる。地下から移転した弊害とも言えるが、こうも直接的に攻撃を加えられるとなると事態は深刻だ。


『ですが、それは警告です。貴方たちはこの渓谷に立ち入り、あろうことか我々に進んで危害を加えました。その槍は吸血鬼の怒りです』


 女……吸血鬼の声に殺意が滲む。

 吸血鬼と言われて真っ先に思いつくのはアルフェルグだ。彼はジンに看破されるまで種族を隠し続けていたが、もし女吸血鬼が彼の関係者だとしたら、どうだろうか。その怒りの中に、あの戦いの怨念が根付いているとしたら。


『さようなら。今後は不用意に駒を動かさないことです』


 そう言って、機械が砕ける音と共に通信が途切れた。静まり返った中庭には、不気味な血痕が赤黒く沈着し、不穏な空気に拍車をかけていた。


 


 * * *


「……姫様。先程の行為は」

「ええ、反省しています。宣戦布告のようなものでしたね。種としての方針から逸れた、野蛮な行いでした。申し訳ありません」

「いえ……ご理解なされているのなら、私は何も」


『サンの渓谷』。アステリアから遥か北に位置する、人里から隔絶された土地だ。そこで、二体の魔族が言葉を交わしている。一方は黒い衣装で全身を覆った、2メートルは優に超えるかという大男。そしてもう一方、姫と呼ばれた者は男とはまるで真逆な純白のローブを身に纏い、その裾を返り血で染めた少女だった。フードから覗く顔は陶器のように白く、真紅の瞳が映える。小さく開く口には、鋭く細い一対の牙が見えた。


 傍らには無惨に潰れた死体と、砕けた端末が落ちている。その少し先には、数人の死体……いずれもアステリアの退魔師のものが、鮮血を湛えながら無造作に散らばっていた。


「これから、退魔師が仇討になだれ込むやもしれません。動いてくれる吸血鬼はどれほどでしょうか」

「侵入者とあれば保守派でも参戦が望めるかと存じます。こちらから仕掛ける場合の戦力も増えつつあります」

「……そうですか。に感謝しなければなりませんね。——それから」


 静かに会話を交わした後、少女が唐突に振り返る。視線の先には何の変哲もない岩があった。


「——派手にやるもんだ。ご機嫌ナナメってか」


 岩陰から現れたのは、別種の魔族。ノルノンドの人狼——レグルスだった。

 少女は「無作法な者に処罰を下しただけです」と冷たく返し、レグルスに対して嫌なものでも見るような視線を送る。


「よォ、"スピカ"。元気してたか?」


 そう言って吸血鬼の少女……スピカに近付こうとするレグルスに、大男が一歩進み出る。警戒心を露わにする男を、スピカは手で制した。


「控えなさい、"ベガ"」

「姫様、しかし」

「大丈夫です。心配ありません」


 そう言われ、レグルスを一瞬睨みつけてから男は下がった。その敵意にも動じることなく、レグルスは飄々とした態度を維持している。


「何用ですか。ここは我々の領域ですよ」

「遊びに来るぐらいいいだろ」

「アルフェルグもシリウス王も故人です。縁は無い」

「ツレないねえ」


 ヘラヘラと笑うレグルスに、スピカは冷ややかな視線を向け続けている。「用が無いなら出て行け」と暗に示しているのだ。それを察すると、レグルスは意味のない話を早々に切り上げて本題に入った。


「……今日は、話があって来たんだ」


 災禍が、動き出そうとしていた。

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