第39話 此方七年に落とす影

 妹を取り戻すため、ヒューズはその白髪を振り乱しながら疾走した。元々純粋な「速さ」では対魔科でも抜きん出ていたヒューズだが、その走りは感情の爆発を雄弁に語るかのようだった。10メートル程後方には、彼を追うフレッドがいた。

 フェリシアを拐った男が逃げた方向へまっすぐに進んでいるだけなのだが、まるで誘導されるように諜報棟に向かっていた。足を動かすたびに、この先に待っているのが何者か、フェリシアを狙ったのが誰か……そして、自分が追い求めるべきものがこの先にいるのだという思考が確信に変わりつつあった。


 突き当たりに、ぽっかりと開いた鉄扉がある。諜報科の訓練場だ。その外観自体は自分たちが普段使うものと変わらない慣れ親しんだものだったが、やはり感情に引かれるものなのだろうか。大口を開けた大蛇に誘い込まれるような不気味さがあった。


「フェリシア!」


 訓練場に飛び込み、呼びかけながら目線を回す。何時間か前に見た障害物の山は取り払われ、雪山のように純とした白、いやそんな色彩さえも感じさせない、言うなれば虚無の塗りたくられたような空間が広がっていた。

 その真ん中には弱々しく立っているフェリシアの姿があった。白い髪と肌が背景に同化し、潤んだ碧眼だけがはっきりと浮かんで見えた。


「お兄ちゃん、助けて……!」


 その言葉に静かに頷き、走り出そうと利き足に力を込める。と同時に、ヒューズの中の理性がその力にブレーキをかけた。軽い目視だと、室内にフェリシア以外の人影はない。そんなことがあるだろうか。拐っておいて拘束もせずに放置などと。

 そして、何よりも——


「……?」


 フェリシアは、ヒューズを「お兄ちゃん」と呼んだことは一度もない。


「——フン。やはりリサーチ不足か」


 透き通るような声と反し、フェリシアの顔が悪辣に歪む。全身の毛が逆立ち、胸の中に黒い奔流が渦巻いた。怒りのまま脚を一歩踏み出したその時、背に何かがのしかかる感覚に襲われた。

 男……マリーとレインに洗脳を仕掛けたと思われる生徒が、ヒューズに絡み付いて頭を掴み抱えているのだ。


 途端、脳味噌を綿棒でゆっくりと掻き回されるような不快感が全身を支配した。視界にちかちかと白濁が混ざり、まともな思考が阻害される。天地が逆転しているような気さえした。洗脳の異能を起きたまま突き当てられていた。


「う、ぐ……!」


 酷い吐き気に体を支配されながらも、ヒューズは必死に抵抗した。正確には反射的に迎撃を始めていた。怒りと共に神経が研ぎ澄まされたことが幸いし、密接に結び付いた「雷」が暴発したのだ。

 電撃に顔をしかめ、男が手を離す。その好機に飛び込んだ人物がもう一人いた。


「くたばれ、変態野郎ッ!」


 炎の塊が鉄扉から抜け、推進力を乗せた拳が男の顔面に叩き込まれた。赤炎よりいくらか淀んだ色の血が噴き出し、男の前歯が欠ける。気絶し吹き飛んだ肉体が訓練場に汚れを残していた。

 そうして追い付いたフレッドは、後ろによろめいたヒューズの背を叩き直して笑った。


「へっ、こんなのにやられそうになってちゃ世話ねえな! ともかく目的達成だ、妹も無事で——」

「違う、フレッド。あれはフェリシアじゃない」

「あ?」


 眼を尖らせて前を見やるヒューズを見て、フレッドはもう一度フェリシアを注視した。理解は一瞬だった。一切取り繕うことなく、不遜な態度で立っている少女。極めて短い付き合いだが、どう見てもフェリシア本人ではない。彼女の姿をした、下劣な別物だと分かった。


「元の姿に戻れ、"セントール・ロス"!」


 ヒューズの怒声を嘲ると、その身体が一瞬崩れるように揺らぎ、骨格ごと変性した。『変身』の異能の解除だ。結論から言うと、ヒューズとロシェの考察は正しかった。立っていたのはセントール。つい今日出会ったばかりの諜報科主任が、見下すような冷笑を浮かべていた。


「それが教師に対する態度か? 対魔科のボロ雑巾共が随分と傲慢だな。どんな理由があろうと目上の人間への敬意を失ってはならんと思わんかね」

「俺の知ってる教師は生徒の無法を許したりしない。……まして、反逆の指示なんて絶対に出したりしない」

「ブレンハイムの犬がよく吠える。躾が足りんな」


 敵意を剥き出しにするヒューズとは対照的に、フレッドは変身の能力に眼を丸くした後、二人の顔を交互に見ながら困惑していた。場の雰囲気で目の前の男が敵だというのは理解できる。それよりもフェリシアに化ける精巧な能力と、肝心の本人の居場所、それに重要人物の筈である『洗脳』の異能力者が気絶していることに無反応だったことに頭を捻っていたのだろう。


「フェリシアはどこだ」

「ここにいるとも」


 セントールが一歩動くと、彼の体の影に眠ったままのフェリシアが乱雑に放られているのが見えた。


「てめェ……!」


 フレッドが憤るよりも先に、空間に雷が舞った。

 瞬きにも満たない速さでセントールの後ろに回り込み、青筋を浮かばせながら大振りで蹴り入れる。電気を纏った豪脚が衝突した。——しかし、そこに立つ男は再び『変身』を行使していた。考慮内だ。セントールの異能は考慮に入れていた。ヒューズの動きがそこで止まったのは、その故だった。


「お望みの答えを示してやろうか」


 以前見たものだ。いや、以前見たものに似ているが違う。そしてずっと前に見たものと同じだった。

 けば立った硬質な毛皮に下部に覗く筋肉を示した隆起。獣の匂い。口角から見える牙、柔毛に覆われた一対の耳。人狼の姿だった。

 七年前に見た人狼の姿だった。


「君の親を殺したのは、この私だと」


 怒り、恨みよりも先に訪れたのは、困惑と落胆だった。探すべき怨敵と出会ってしまったことへの惑いもあるが、それ以上に復讐の相手が人間、それも同じ組織に属する人物だと知って心底から幻滅していたのだ。

 その様子を見てセントールは嗤い、人狼の剛腕を容赦なく振るった。


「——!」

「しっかりしろボケがッ!」


 間に入ったフレッドが、人狼の腕を払ってヒューズを押し除けた。その表情には先程よりも強い焦りが溢れて見えたが、彼は至って冷静だった。普段熱狂するのが自分である分、他人の熱のいなし方はよく弁えていた。


「フレッド……」

「俺も何となく察した。前話してた仇……だろ?」

「…………」


 沈黙を以て肯定すると、フレッドは少し考えるように髪を掻き上げ、舌打ちをしてからヒューズを殴り飛ばした。疲弊した精神で躱せる筈もなく、頬に鈍い痛みが駆ける。顔を上げると、フレッドは不快そうに歯軋りをしていた。


「んなこたァ今どうでもいいんだよ! ちょっと仇を見つけたくらいで動揺してんじゃねえ、お前がすることは?! やんなきゃいけねえことは何だ!」

「どうでも……!? フレッド、お前!」

「いいか、俺の邪魔はすんな! こいつが仇だろうが人だろうが魔族だろうが敵は敵、戦うのは俺ら!今は何も考えず暴れる時なんだよ石頭!」


 フレッドの言葉に、ヒューズは息を飲んだ。どんなに考えてどんな結論を下そうと、全てが駄目になった後では遅いのだ。今すべきことは、セントールを止めて学園の異常を正すこと、そしてフェリシアを守ること。復讐は二の次だ。惑う暇などない。

 ヒューズは自身の未熟を悔やみ、フレッドの成熟を羨んだ。自分の青さを痛感し、決意を込めて立ち上がった。


「フ……お熱い説教劇は終わりかね」


 セントールはそう笑いながら、体を次の形態へと変質させている。敵と向き合い、二人はフェリシアを守るように肩を並べた。


「マジで今日はツイてねえ。仲間運が最悪だ」

「悪い、フレッド。迷惑かけた」

「あとでメシ奢れよな」


 軽く笑うヒューズの眼には、迷いを押し殺した先の光が宿っている。完全に振り払うことはできない。しかし、今はそれで十分だった。

 そして炎と雷が各々の唸りを上げた。

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