第34話 不可視の檻

 同時刻、女子寮の一画では、いつも以上に賑やかな声が漏れ出ていた。周囲の音が一切ないことも、それを際立たせる一因だった。


「——それで、ボールを蹴ろうとした兄ちゃんが転んじゃって。あれは面白かったなあ……」

「あはは、小さい頃のヒューズってそんな感じだったんだ、意外と可愛らしいね!」

「大きくなっても可愛らしい人もいるけどね。僕は忘れてないよ、この前の訓練でマリーが……」

「ちょちょちょ、レインちゃん! それはダメ!」


 パステルカラーの小物で本来無機質な寮に年頃の娘らしいアレンジを加えた部屋で、三人の女子が和気あいあいと談笑していた。立案者はもちろんマリーだ。懐に入ったものをとことんまで愛でようとする性格の彼女は、フェリシアの加入を心の底から喜び、一人の友人として向き合っていた。


「わ、私の話は置いといて! フェリシアちゃんの話が聞きたいな! ね、レインちゃん!」

「ふふ……そうだね。今日は勘弁してあげる」


 わたわたと慌てるマリーを、レインが微笑みながらあしらう。この二人の関係は入学時から良好だったが、既に親友と呼べるほどに仲を深めていた。


「えーと……そうだなあ、好きな食べ物とか」

「好きな食べ物ですか、そうですね……わたしは……くだ、ものが……」


 笑顔で答えようとしていたフェリシアの眼が、徐々にふやけるように薄らいでいく。「ごめんなさい、眠気が」と眉を下げながら言ったが、その語調も呂律ろれつが回っていないようだ。幼げに目を擦る姿はとても微笑ましいものだったが、その異常性に気付くのが遅れたのも視覚の弊害だったのだろう。


 ころり、とフェリシアがその場に転がった直後、マリーも口に手をやって大きく欠伸あくびをした。


「んん、なんか私も眠くなってきちゃった」

「僕もだよ……おかしいな。睡眠は、しっかり取ってるはず、なんだけど……」


 抗えない虚脱感に、二人の意識がこれを危機だと認識し始める。微かに残った五感を研ぎ澄まし、睡眠欲に抵抗しながら辺りを注視する。扉の方を見たマリーが、右腕をつねりながら叫んだ。


「レインちゃん、あそこ……!」


 扉の近くには、レインとフェリシアの靴が置かれている。その靴紐が不自然に揺れているのに気付いた。扉の下のわずかな隙間から、見えない何かが噴出しているのだ。恐らく催眠ガスだった。


 しかし、気付いた時にはもう遅い。マリーが決死の形相で光の異能を解放しようとしたが、それが放たれることはなかった。マリーの姿勢が崩れると同時に光も霧散し、そのまま昏倒してしまった。


「ぼ……防御を……身を、守るんだ、僕、が……」


 レインが床に手を当て、咄嗟に冷気を放出した。それが霜となりカーペットの毛束を逆立たせ、氷晶へと変貌し始める。徐々に壁として成立しつつある氷を置いたまま、レインも気を失った。


 冷気とガスの入り乱れる室内に、三人の寝息だけが穏やかに聞こえている。一分程度の時間が流れ、その静寂に沈み込むようにして、音もなく扉が開いた。

 部屋に何者かが踏み入っている。最早それに気付ける者は居ないが、その姿が明かされることはなく、足音一つ聞こえなかった。だが、そこには確かに侵入者が存在した。

 透明な侵入者の足が止まる。レインの氷壁が、部屋を二つに分断していた。


「……どーすんの? 突破できないでしょこれ」

「おい、喋るなよ。『不可視』が解けてる」

「しまった。……って、アンタも喋ってるじゃん」


 何者かの声が響いた瞬間、侵入者の姿に色彩が貼り付けられた。一方は小柄な女性で、その体格に極めて不釣り合いな厳ついガスマスクを装着している。やけに甲高い声も、その違和感を捻出していた。

 もう一方は男性だ。中肉中背で、口鼻をマスクで塞いでいるが女性とは違って眼を出している。それを加味しても、至って何の特徴もない——翻って、無個性が特徴的な男だった。


「外に出て窓から入るか。面倒臭いが」

「それより呼んで来た方が早いんじゃない? そろそろ終わってる頃でしょ」

「じゃあお前が呼んでこい。俺は窓から入る」

「はいはい。リスク分散ってやつ?」


 男女はそう言うと廊下に戻り、扉を閉めた。


「こうも手際が悪いと主任に怒られそうだな」

「しょーがないじゃん、異能力者の暗殺は初めてなんだし。それに眠らせた時点でほぼ目的達成よ」

「つくづく狡い異能だな」


 軽口を叩きながら、物音一つ立てずに走り出す。魔族などではない。彼らは正真正銘人間だ。アステリアに籍を置く、諜報科の生徒たちだった。


 * * *


「——ッ、"神経加速"!」


 二階の廊下で、雷撃の弾ける音が反響した。その一挙手一投足に合わせて電灯が不安定に明滅し、時折ひび割れて機能を停止する。ヒューズに掛かる負担を象徴するように、纏った雷の規模は目に見えて増大していた。


 糸とナイフの攻撃は息をつく間もなく続き、次第に激化していた。ヒューズの動きを読み始めているのだろうか、その軌道に迷いが消えている。致命的と思われる糸の攻撃は避けられたが、その間隙を縫うような投擲で、体には既に幾筋もの裂傷が残っていた。


(くそ、本体はどこだ! 姿どころか気配一つ感じないぞ!)


 ヒューズは苛立ちを隠そうともせず、建材が壊れようかという勢いで床を蹴る。寮棟に向けて進んでいるのは確かだが、この進度では到着する前に殺されてしまうだろう。

 分析が正しければ、敵は二人だ。ナイフ使いと糸使いの二人で攻撃を仕掛けている。そして遮蔽物のない廊下で姿を見せないということは、身を隠す類の力を使っているに違いない。

 だがそこまでだ。それが分かっても対処の仕様がない。雷の広範囲攻撃は試したが、別段効果があるとは思えなかった。


「目的はなんだ! 何が狙いだ!?」


 当然、返答はない。

 その代わりに、「これが目的だ」と言わんばかりの殺意が向けられた。雷の伝導で辛うじて視認できる糸。局所的な攻撃を狙うばかりだったそれが、突如蜘蛛の巣のように行先を阻み、ぎちぎちと音を掻き立てながら迫ってきたのだ。背後にも挟み込むように糸が張っている。無理やりにでもこちらを始末するつもりらしい。


 追い討ちに、後方から十本のナイフが飛来した。間一髪でそれを躱すと、あろうことかナイフの一本一本が強固な糸に弾かれ、不規則に跳ね返り始めた。初撃はともかく、反射は予想の埒外だ。糸が迫り来る中、ヒューズの右太腿に刃が突き立てられた。


「ぐっあ……!」


 思わず崩れそうになった姿勢を必死に維持する。前後に張り巡らされた糸には、もう潜り抜けられる隙間が無い。僅かな穴からは殺意を込めたナイフが飛んでくる。切り詰めた命の危機に対し、ヒューズは刹那の発想を形にした。


「"落雷烏ブロンティス"ッ!」


 全身から絞り出した雷電が白く輝きながら右の拳に絡みつき、刺々しく迸る。余りに急な雷の流れに突くような痛みが腕を襲ったが、太腿の傷より幾分か上等だ。迫る驚異を一旦脳内から排斥し、床を思い切り殴り付けた。足場の揺れを物ともせず、更に二撃、三撃。轟音と共に、学園の床を叩き割った。


 上がる土煙と瓦礫に紛れて、右脚を庇いながら降下する。施設を破壊してしまったことを詫びつつ、このまま追手を振り切ろうと意気込んだ、その直後だった。目の前の廊下に広がる景色に、ヒューズは絶句していた。


「……な、なんだよ、これ……」


 そこらに転がっていたのは、数人の死体だった。首や胸元を突き刺された少年、あるいは少女の亡骸だ。制服を濡らす鮮血が、それが「いつ」殺されたのかをありありと示している。

 当然——アステリアの生徒たちだった。

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