第18話 狼王シリウス

 現れた人狼は、鋭い眼光を霧の中に研ぎ澄ませながら、確かな敵意を持って佇んでいる。しかしその敵意は血に飢えたような刺々しいものではなく、例えるならば騎士のような、律に準じた態度だった。


「人狼……!」


 ヒューズの全身で、血が沸き立つような熱が滾る。「人狼」というだけで、胃の底からどす黒い怨嗟の念が溢れ出てくるのだ。しかし、険しい目つきになりながらもヒューズは見境をつけていた。


(……違う。


 人狼の姿形にどれほどの個体差があるのかは分からないが、両親を殺した魔族の顔ははっきりと脳裏に焼き付いていた。少なくとも、目の前の人狼はそれとは無関係だ。


「お前を知っているぞ。雷の異能力者。この森に踏み込むとは命知らずだな、憎き簒奪者さんだつしゃ共め」


 人狼はそう言って左足を引き、屈むような姿勢をとった。アルフェルグもそうだったが、自分の情報が知られている。独自に集めているのか、魔族間での情報伝達が行われているのかは分からない。ただ、こうも筒抜けなことには大きな不安が残った。


「ここに、白い髪の女の子がいないか?」

「は?」

「俺はその子を探しにきた。どうなんだ?」


 唐突な質問に人狼は警戒心を保ったまま思考を巡らせると、口角をぐい、と上げて黄ばんだ犬歯を覗かせた。


「……ああ、あれか。我らがとお楽しみ中だ。そうとう気に入られているらしい——な!」


 飛び出した肢体が、重量を乗せながら腕を振る。咄嗟に反応したヒューズの頬を、鋭い鉤爪がなぞるように傷付けた。


「っ……! "神経加速"!」


 たちまち雷光が身を包み、垂れた血液が蒸気を上げて焼き付いた。妹が……フェリシアが、この森のどこかにいるらしいことは分かった。そして「王」とやらと共にいることも理解した。問答無用で異能力者を始末するような魔族が、人間の少女と仲良くお遊びなどするだろうか? 答えは否だ。ヒューズは、激昂しながら人狼を睨み返した。


「あの小娘とお前がどんな関係かは知らんが! この森に入った以上! 退魔師は生きて帰さん!」

「邪魔だああッ!」


 人狼の爪を躱し、払い、躱し——一秒たりとも休む間のない、高速の攻防が繰り広げられる。ヒューズが驚愕したのは、人狼の体術だ。「神経加速」を使ってようやく追いつけるその手数、そして時折地に手をつき、四足歩行の形で繰り出す予測困難な攻撃。形式立てられた狩りの手法だった。


「シャッ!」


 一歩身を引いた人狼は、回し蹴りを放った。それを避けてのけぞったヒューズに対し、再び四足歩行で飛び掛かろうとする。攻めに転じたのは、このタイミングだった。


 地面に手を置いた瞬間、ヒューズが踏み鳴らすようにして足を叩きつける。電流は無益に霧散しつつも、湿った土に僅かに残り続け、その全てが人狼の体に流れこんだ。

 微弱とはいえ電気は電気だ。人狼が怯んだ隙を突き、ヒューズはその顔を思い切り蹴り飛ばした。


「ギャッ」と声を上げ、人狼が痙攣する。だがヒューズは止めを刺すことをせず、息を荒くしながら森の奥へと駆け出した。


「無事で……無事でいてくれ……!」


 脳内に残っているのは、妹の危機への恐れのみ。どこに着くかも分からずひた走るヒューズの前には、次々と新たな人狼の姿が現れていた。


「仕留めろ! これ以上進ませるな!」

「王の手を煩わせるな!」


 視界に映るだけで、十数体の魔族に敵意を向けられている。背後から聞こえる怒号も合わせれば、もはや勝ち目のない数に襲われていることが分かった。

 ヒューズは雷の出力を更に向上させ、より強く地を蹴り、より速く森を駆けた。とにかく妹を見つけ、無事に連れ戻さなければならない。それだけを考え、ただ足を動かした。


「ハァ、ハァ……」


 気付けばヒューズは襲い来る人狼たちを無傷で振り切り、森の中にぽかりと空いた、色とりどりの花が生え揃った空間に出ていた。霧は晴れ、視界も良好だ。だからこそ、目の前のものがはっきりと認識できた。


「今日はぶどうのジャムを持ってきたんです。ワインの搾りかすがいっぱいあったので、安く買ってたくさん作っちゃいました」

「ほうっ、とな! また珍妙なものを持ってきたな。泥のようであまり美味そうには見えんが、まあいつも通り良き味なのだろう」

「この前、パンの作り方を教えたでしょう? あれと一緒に食べるとおいしいですよ」


 談笑する白髪の少女と、一際威圧感のある巨体の人狼。少女の方には覚えがあった。自分のものよりずっと白く、混ざり気のない純粋な色をした髪に、ふやけたように口を緩ませる笑い方、そして透き通った青い瞳——見間違うはずもない、フェリシア・シックザールその人だった。


 故に、その隣に鎮座する人狼を見て、ヒューズの理性は吹き飛んだ。会話など耳にも入らない。ただ自分の肉親に魔族が近付いている、その事実だけが身体を突き動かした。


「——"流槍エンテルトリア"ッ!」


 流槍。核となるレインの氷槍もなく、ただ無意識に構えを取っていた。ある種の無我に陥った今だからこそ、ヒューズは「雷に形を与える」ことに成功したのだ。


「……おっと。これは随分と剛毅な客だ」


 人狼は流槍を軽々と避けると、ぽかんとしているフェリシアをその場に座らせて笑った。


「妹から! 離れろッ!」


 鬼のような形相で殴りかかるヒューズの拳を受け止め、「ひょい」と持ち上げると、人狼はその場で二、三回振り回したのちにヒューズを投げ飛ばした。

 ヒューズが受け身をとって立ち上がったその時、周りから花の空間を取り囲むように気配が現れる。追いついた人狼たちだった。


「下がれ、お前たち。わしの客人だ」


 その一声で、周囲の気配が一斉に消えていく。結局この空間に残ったのは、ヒューズとフェリシア、そして「王」たる人狼の三人だけだった。


「え……え? 兄ちゃん……?」


 ヒューズの姿を見て、フェリシアがか細い声を震わせる。七年前と変わらぬ、自信のなさそうな、それでいて慈愛の念がこもった声だった。


「フェリシア、こっちに来るんだ! この森は危ない、人狼が異能力者を狙ってる!」


 そう言うと、フェリシアは困った様子で首を傾げ、兄と人狼を立て続けに見比べた。そこで腕を組んで見守っていた人狼は、耐えられない、といった具合に豪快に笑い出した。


「わはははは! それが常識的な反応だろうな! どうするフェリシアよ、「危ない森」から逃げ帰るか?」

「え、ええと……本当に、兄ちゃんなんだね? この人は悪い人じゃないよ、わたしを……」

「待てい、それは誤りだ。善悪というのは物差しとして使う言葉ではない。時によって変わるものよ」


 状況が飲み込めない。ヒューズはそう思いながらも、自然と雷を収めていた。少し冷静になった頭では、眼の前の人狼……確かな「魔族」が、フェリシアに害を為そうとしているようには見えなかった。むしろ、長年連れ添った仲、それこそ友人のように話しているようだった。


「ふむ、もしやとは思ったがな。……ヒューズ・シックザール。アステリアに従う雷の異能力者。フェリシアの実兄……むぅ……」


 人狼はしばらく考え込んだ後、「まず自己紹介するのが人の礼儀だったな」と笑い、声を張り上げて語った。


「聞けい、人の子よ! 我が名はシリウス! 人狼を統べる王にして、ノルノンドの森にてこの地をはかるもの、そして——」


 人狼の王……シリウスは、眼を大きく見開き、叫んだ。


「救世の徒たるアルフェルグ……その盟友なり!」


 狼王シリウス。この邂逅とフェリシアとの再会が、ヒューズにとって新たな運命の捩れであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る