二章 ノルノンドの狼
第13話 アステリアの妖精
目覚めた時、視界一杯に無機質な白色があった。
消毒液の香りが辺り一面に漂っている。ヒューズは、自分が病室に横たわっていることを少し経ってから理解した。
なぜそんな簡単なことを理解するのに時間を要したかというと、それ以上に気を引くものがそこにあったからだ。
「……」
頬に断続的に訪れる圧迫感。少し視線を横にやると、制服姿の少女がペン先でヒューズの頬をつついているのが見える。見たところとても同級生には見えない。おおよそ十二歳あたりの、こじんまりとした少女だった。
彼女は燻んだような金色の髪を揺らしながら、眉一つ動かさない無表情で頬をいじくり回している。
「…………」
「……えと、すみません」
「なに?」
「あなた誰です?」
念のため、最初は敬語で話しかける。少女は悪びれもせずペンを枕元に置くと、つまらなさそうに口を開いた。
「私はロシェ。ロシェ・ライラック」
「ロシェ……って、確か」
「そう。対魔科三年、ロシェ・ライラック」
今までに何度か聞いたことがある。マリーの異能を矯正した人物だ。ヒューズは「十二歳」と断定したことを心の中で訂正した。
「あなたがやられて丸一日。お早い目覚めね。レインって子以外はもう起きてたけど」
「え……レインは大丈夫なんですか?」
「大丈夫、生きてる。容態は安定してるわ」
そう聞いて、ヒューズは胸を撫で下ろした。レインの傷は他に比べるとかなり深いものだったが、応急処置と凍結処理が間に合ったのだろう。フレッドとマリーが無事なことも確認できた。
喜ぶヒューズを無表情のまま見つめると、ロシェは本題を切り出そうと無理に話題を変えた。
「あなた、"黒影"にこてんぱんにされたんでしょ」
「う……まぁ、はい」
「悔しくない?」
悔しいに決まっている、とヒューズは頷く。単に負けたことではなく、自分の今持ち得る力の全てが通じなかったことが悔しかった。入学してまだ時間は経っていないが、完膚無きまでの敗北というのは心に重くのしかかるものだ。
「……ジンに頼まれてね。もう初心者向けの訓練をしてる暇がないんだって。だから私が教える。実戦向きの戦闘技能」
ロシェが起伏のない声で言う。
詳しく聞くところによると、アルフェルグの襲撃と宣戦布告を重く見た学園の本部……異能を総括する機関が、ジンを含む退魔師を招集しているらしい。つまり、教師の人手が足りていないのだ。
そこで、戦闘経験豊富な三年生を指導にあたることにしたということだった。
「具体的には、どういう……?」
「異能の効率的な引き出し方、致命傷を避ける身の振り方、致命傷でも動き続ける方法、相手に気取られない歩法、効果的な誘導の仕方、未知に対する分析の手通り……あと、強敵への見栄の張り方」
機械的な説明に、ヒューズは思わず首を傾げた。とにかく有用なことを教えてくれるというのは分かったが、このロシェという人物からは「感情」が読み取れない。綺麗に整った顔立ちも相まって、人形のような人だと思った。
「……じゃ、用件は伝えたから。三十分後に第一訓練場」
「え? でも——」
「動けるよ」
病室から出ようとしていたロシェが振り返る。先程まで翡翠のような鮮やかな緑だった瞳が、淡い輝きを放ちながら金に変色していた。
「その身体。治りが早いっていいわね」
そう言い残して、ロシェは足早に病室を後にした。
* * *
「……ホントに動けた……」
学園の「医療理学科」。その病室から出たヒューズは、肩を回しながら呟いた。
戦いの中、ヒューズは影に刺し抜かれた。決して浅い傷ではなく、出血量も相当なものだったと記憶している。しかし、若干の痛みを残す程度でそれらは回復していた。傷跡は残っているが、塞がっているのだ。異能力者の頑健さを、自分の体で改めて実感していた。
「おーい、ヒューズ!」
廊下を進む途中、後ろから弾けるような声に呼び止められる。マリーだった。以前と変わらぬ太陽のような笑みを浮かべて、小走りでぱたぱたと寄ってくる姿に、ヒューズは口許を緩めた。
「よかった、もう動けるんだね!」
「おう、もう大丈夫。俺はロシェ先輩に呼び出されたんだけど、マリーは?」
「あ、私もだよ。第一訓練場だよね?」
訓練場に向けて足を進めながら、消毒液の香りを横切って言葉を交わす。ヒューズは会話の中で、ロシェとマリーには面識があることを思い返していた。マリーの様子から、ロシェの指導がスパルタだということは分かる。それ以外にも、彼女がどんな人なのかを知っておきたかった。
「なあ、ロシェさんってどんな人なんだ?」
「んー……可愛い人だよ。『アステリアの妖精』ってあだ名もあって、常にぽやんとしてる感じ。教え方は……すっごく厳しいけど……」
確かに可愛らしい風貌ではあるが、「ぽやんとしてる」という表現にヒューズは引っかかりを感じた。ひょっとすると、あの貼り付けた面のような無表情は「何も考えずぼうっとしている顔」なのだろうか。だとするとペンで頬をつつくという行動にも納得できる。
「口数は少ないんだけどさ、私のこともすごく可愛がってくれたよ。年下が好きなのかな?」
「初対面のイメージと全然違うなあ。いい人ならそれに越したことはないけどさ」
そうしてマリーの言葉に耳を傾けていると、第一訓練場の鉄扉まで辿り着いていた。約束の時間まであと八分ある。もう来ているだろうか、と思いながら、重い扉を引き開けた。
「——ぐああああああッ!」
途端、引き裂かれるような叫び声が響き渡った。
その音圧に肩を震わせて前を見やると、そこには腹部を抱えて身悶えるフレッドと、彼を無言で見下ろしているロシェの姿があった。
「あああっ……! 痛ってえええ!」
ごろごろと人工芝を転がり回るフレッドを、ロシェの目が右往左往と追っている。クラスメイトがなんらかの危機的状況にあるのは確かだが、その光景を見ているとなんだか心温まるような気もした。
ロシェがこちらに気付き、フレッドを放置したまま小さく手を振る。それに対し、マリーは状況を飲み込めず当惑しながらも大きく手を振り返した。
「……集まったわね。じゃあ始める?」
「せ、先輩。こいつはどうしたんですか?」
「いや……急に襲ってきたから、つい……」
ロシェはフレッドを一瞥すると、ばつが悪そうにぼそぼそと口にした。依然として無表情のままではあったが、眉が少し下がっているように見えた。
「フレッド……何したんだ?」
「お前この状況で俺責めんのか!? 力試しに殴りかかったら殴り返されたんだよ! しかも一撃がクソみてえに重いんだこの女……!」
「あー……すみません、先輩。こういう奴なんです」
地面に転がったまま喚き散らすフレッドを無視して、ヒューズがロシェに頭を下げる。ロシェは「別に気にしてないわ」と短く言うと、少し逡巡してから髪の毛を払った。
「いい例にはなったかも」
「え?」
ロシェの瞳が、再び金色に輝き始める。月明かりにも似た、優しくも神秘的な光だった。それを目にしたマリーが青ざめるのを見て、ヒューズは身の危険を悟っていた。
「改めて、私はロシェ。今から指示通りの訓練を行なって貰うわ。それで、もし不出来なようだったら——あんな風に、転がり回る羽目になるから」
無機質で、透き通った声が鼓膜を揺らす。この瞬間から、"アステリアの妖精"……「眼」の異能力をその身に宿すロシェによる、地獄の訓練が幕を開けたのだった。
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