第9話 怖いもの
思い出の世界から連れ戻された私は、八畳間の和室で正座していた。
正面にはジイさんが正座して、青筋を立てながらも、笑顔を浮かべている。
「いいですか、スバル。今回は嫌な予感がして早く帰って来たからどうにかなりましたが……一歩間違えれば、取り返しのつかないことになったのですよ?」
そう問いかけるじいさんの声は、非常に穏やかだ。
しかし、これはこれは間違いなく怒っているときの声だと分かる。
小学生の頃、よそ見をしていて車に轢かれかけたときに、これと同じ声と表情でしかられたことがあるから。
あのときは、ジイさんの説教の方がつらかったな……
「スバル、聞いているのですか?」
回想していると、じいさんは笑顔のまま首を傾げた。
……ここは、ひとまず謝っておこう。
「……心配をかけて、悪かった。反省している」
私が謝ると、じいさんは深いため息をついた。
「まったく、本当ですよ。いいですか、スバル、貴女は、二百七十と数年前、あやかしの長の座に手が届きかけた、この私の孫なのですよ」
そして、説教の前口上をはじめた。
じいさんは説教に入る前に、必ず自分が若かった頃の武勇伝を語り出す。
江戸時代中期頃に好敵手とバケモノの長の座を競い合っていただとか……
その勝負の途中に面白い青年と出会い感心しただとか……
青年とのやり取りは、屈指の怪談話として語り継がれているだとか……
それ以降、ヒトに興味を持ちヒトの世界で暮らしているうちに社会的地位を築いただとか……
……身内から見ても、うさんくさいことこの上ない話だ。
しかし、目の前で急に若返ったり、姿を変えたりするところも見たことがある。
だから、多少の誇張はあるのかもしれないが、じいさんがバケモノというのは事実なのだろう。
それに、私だってあんな恐ろしい姿になっていたのだから……
「……それに、社会に出れば気に入らないことなんて、本当にたくさん起こるのですよ。礼儀のなっていない若輩者に馬鹿にされたり、飼い犬に手を噛まれたり、下げたくもない頭を下げることになったり、気に入らない者と手を組まなくてはいけなくなったりすることなんて、ざらにあるんです」
物思いに耽っていると、前口上は仕事の愚痴のようなくだりにさしかかった。
ということは、そろそろ本題だな……
「……それで、何があったのですか?」
長い長い話のあとに、じいさんはようやく本題に入った。
……正直なところ、何があったのか思い出すのはつらい。
しかし、ここで答えなければ、夜通し説教になってしまうな。
「……友達と、トラブルになった」
言葉を濁しながら答えると、じいさんの眉がピクリと動いた。
きっと、それくらいのことで嘆くな、と言われるのだろう……
「分かりました。スバル、その不届き者の名前を教えなさい。私の孫を虐げるなど愚の骨頂だと、思い知ってもらうことにしましょう」
……うん。
そうだ、じいさんは昔から説教は長いが、過保護でもあったな……
「いや、そういうことではなく……ミナとちょっと……」
「おや、お隣のミナちゃんとトラブル? 珍しくケンカでもしたのですか?」
じいさんは禍々しい笑顔をやめて、意外そうな表情を浮かべた。
多分、ミナが私をいじめたとは思わないだろう。
しかし、誤解をして、ミナに言いがかりをつけられても困る。
……気分は乗らないが、ここは正直に話そう。
「実は……」
それから、私は今日起きたことを口にした。
じいさんは口を挟むことなく、頷きながら私の話を聞いていた。
「……ということなんだ」
「なるほど、大体の事情は分かりました」
私が話し終えると、じいさんは顎に手を置いてコクリと頷いた。
そして、深いため息を吐くと、どこか苦々しい表情を浮かべた。
「スバルは昔から、ミナちゃんのこととなると一生懸命ですからね。私の書斎を勝手に漁って、記憶を操作する呪術の勉強をしたり、死霊術の勉強をしたり」
「バレてたのか……」
「当たり前ですよ。それでも、まあ、その二つを覚えることが、無価値とまでは思いませんでしたから、放っておいたんです」
じいさんはそこで言葉を止めると、再び深いため息を吐いた。
「しかし、あのミナちゃんが、そんな一生懸命なスバルのことを、怖いモノ、だなんて思うでしょうか?」
そして、私の目を見つめながらそう問いかけた。
私だって、本当はミナに怖がられていない、と思いたい。
それでも……
「ミナは私のことを忘れてしまったんだ。私のことを、怖いモノ、と思ったに違いないだろ」
私が答えると、じいさんは納得がいかないという表情を浮かべた。
そして、そうですかねぇ、と呟きながら、またしてもため息を吐いた。
「ともかく、スバルがショックを受けているのは分かりました。それでも、早まったことをすることは、許しませんよ。明日も、ちゃんと学校に行きなさいね。あと、借りた本もちゃんと自分で返すんですよ」
「……分かった」
返事をすると、じいさんは満足げな表情を浮かべて頷いた。
それから、程なくしてじいさんの説教から解放された。
夕食はとっていなかったが、凄く疲れていたので、そのまま入浴をして寝てしまった。
そして、一夜が明けた。
自室の窓の外からは絶えず雨の音が聞こえ、気が重くなる。
しかし、消え損ねた以上、学校に行かないをいうわけにもいかない。
しかたがない、じいさんの言葉通り、ミナに借りた本を持って登校することにしよう。
それから、一人で登校し、一人で授業を受け、一人で昼食をとり、いつの間にか下校時間になった。
教室の窓の外を見ると、雨はまだ降り続いていた。
しかし、朝と比べれば雨足は随分と弱まっている。
何か本を読んでいれば、そのうち止むかむしれない。
そう思って、鞄の中を漁った。
すると、中からミナに返さないといけない、本が出てきた。
……昼休みに返しにいこうとは思っていた。
しかし、面識のない相手がいきなり本を返しに来る、という事態に対しての、上手い説明が思い着かなかった。
それでも、どうにかしてこの本を返さなくてはならない……
期末試験以上の難問に直面し、口から自然と深いため息が漏れた。
本来なら、こんなことで悩むはずではなかったのに。
それどころか、今日はこの「異世界に転生した私ですが親友の為に今日もチート能力で暗殺稼業です」の話題で、ミナと話し込んでいたはずなのに。
……いや、今さらそんなことを嘆くのは止めよう。
ひとまず、雨宿りがてら読みかけだった「異世界に転生した私ですが親友の為に今日もチート能力で暗殺稼業です」の一巻を読んでしまおう。
読み終わる頃には、何か名案が浮かぶかもしれないしな。
それから、私は「異世界に転生した私ですが親友の為に今日もチート能力で暗殺稼業です」の一巻を読みふけった。
本を読み終えて、顔を上げると、雨の音が止んでいることに気づいた。
窓の外に目を向けると、雨は止んでいた。
それはありがたいことだが、肝心のミナに本を返す方法はまだ思い着いていない。
さすがに、借りたままにしておくわけにはいかないし、どうしたものか……
「失礼します」
考え込んでいると、女子の声と共に突然教室のドアが開いた。
驚いて目を向けると、おかっぱ頭をした女の子がこちらに向かってくるのが見えた。
一瞬、小学生が迷い込んだのかと思ったが、私と同じセーラー服を着ている。
そうだ、この人は……
「リコぺん、さん……?」
「はい。ご指摘の通り、リコぺんさんです」
声をかけると、リコぺんさんは私の席の前に立ち止まり、軽く頷いた。
「いつも、お世話になっております」
そして、とても形式張った挨拶をしながら深々と頭を下げた。
「あ、どうも、こちらこそ」
私もつられて、席を立って深々と頭を下げた。
リコぺんさんは、パニックを起こしたミナの口からよく名前が出ていた。
それと、ミナのクラスで昼食をとるときに言葉を交わすこともあった。
しかし、二人で話すほど親しくはなかった。
それなのに、一体なぜここに来たのだろうか?
いや、私に用があると決まったわけではないか。
それでも、今教室に残っているのは私だけ……
「スバル氏、一つお伺いしたいことがあります」
混乱していると、リコぺんさんは無表情に挙手をした。
「あ、はい。なんでしょうか?」
思わず敬語になってしまいながら聞き返すと、リコぺんさんは僅かに眉を寄せて首を傾げた。
そして……
「ミナ氏とケンカでもしたのですか?」
……なんとも答えづらい質問を繰り出してきた。
「えーと……そういう、わけでは、ないんだが……」
なんと言って良いか分からず、言葉を濁しながら答えた。
じいさんならともかく、リコぺんさんに怪奇現象がどうのなんて話をしても、信じてもらえないだろう。
そんなことを考えていると、リコぺんさんは反対側に首を傾げた。
「そうなのですか? 私はてっきり、ケンカしたものとばかり思っていました。なにせ、ミナ氏は口を開けばスバル氏の話をしているのに、今日は一言も名前が出なかったので」
……ミナが、今までどんな話をしていたとしても、もう私には関係ないことだ。
ただ、そんなに頻繁に私の話をしていたとなると、若干気になるのも確かだ。
「ちなみに……ミナはいつもどんな話をしていたんだ?」
黒歴史のことを話していないか不安になりながら、恐る恐る質問をした。
すると、リコぺんさんは傾げていた首を元の位置に戻した。
「はい。例えば、下校したときに笹かまぼこについて話ながら帰った、とか、登校したときに一緒に綺麗な花を見つけた、だとか、そんなことを凄く楽しそうに話しています」
「そうか……」
「ですから、一度、ミナ氏はスバル氏のことが好きなのか、と聞いたことがあります。そうしたら、ミナ氏は満面の笑みを浮かべて、うん、と即答しました」
「そうか」
「ただ、ミナ氏はそのとき、でも時々ちょっと怖くなる、とも言っていました」
「……そうか」
そういえば、ミナは私が怪奇現象を処理していることに薄々感づいていたと言っていた。
それならば、私のことを気味が悪いとも思っていたのだろう。
実際、プールサイドでの姿を見たミナは、私のことを忘れてしまったのだから。
「はい。いつか黙っていなくなっちゃいそうで怖い、と言っていました」
「……え?」
予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。
気味が悪いことをしていそうだから怖い、と思っていたのではないのか?
「ですから、ミナ氏は、スバル氏が予告無しに自分の前から姿を消してしまいそうで怖い、と思っていたようです」
混乱していると、リコぺんさんはゆっくりとした口調でそう言った。
「そう、だったのか……」
「ええ、そうです。それなのに、今日はスバル氏のことを一切口にしなくなったのですから、どうにも気になり、事実を確認しに参った次第です」
リコぺんさんはそこで言葉を止めると、どこか悲しげな表情を浮かべて首を傾げた。
「スバル氏は、ミナ氏の側にいるのが嫌になったので……」
「そんなことは、絶対にない」
言葉を被せぎみに答えると、リコぺんさんは安心したように微笑んだ。
「ならば、さっさとミナ氏のところへ行ってあげればいいのですよ。ミナ氏は美化委員会の活動で、まだ校内にいますから」
……ミナが私のことを怖がっていないのかもしれないなら、なんとかして真相を聞き出したい。
しかし、今のミナは私のことを忘れているままだ。
それに、答えを聞き出すのは凄く怖い。
もしも、また怖がられてしまったら……
「ちなみに、ミナ氏が担当している活動には、怪奇現象が多発している慰霊碑の手入れが含まれています」
……うん。
これは、うじうじと悩んでいる場合ではない。
「えーと、慰霊碑というのは、校庭の隅にあるアレのことでいいのか?」
確認すると、リコぺんさんは軽く頷いた。
「その通りです。昔々、疫病で亡くなった方々を校庭で
リコぺんさんの答えを聞いて、思わずため息がこぼれてしまった。
そんな場所にミナが行けば、間違いなく何か怖い目に遭っているだろう。
というか、この学校は、いささか怪奇現象スポットが多すぎるのではないだろうか?
七不思議とか怪談とかは、せめて中学校までにして欲しいのだが……
いや、そんなことをぼやいている場合ではないな。
「リコぺんさん、教えてくれてありがとう。ちょっと、様子を見に行ってくる」
「ええ、行ってらっしゃいです。私は、お二人が仲良くしているのを見るのが好きなので、万事上手くいくことを願ってます」
リコぺんさんは、微笑みなら軽く手を振った。
……そう言ってもらえるのは、とてもありがたい。
しかし、リコぺんさんもミナが怪奇現象に遭遇しやすいということを知っているようだが、いつそのことを知ったのだろうか?
……いや、今は気にしなくても構わないか。
万事が上手くいったら、ミナから教えてもらえば良いのだから。
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