第4話 喫茶店とスコーンと三平方の定理とクラスメイト
落ち着いた色の床と天井。
木製のテーブルと、座り心地の良い椅子。
店内に流れる、ジャズ音楽。
鼻をくすぐる珈琲の香り。
休日を過ごす場所として、喫茶店が人気なのも分かる気がする。
そんなことを考えながら、甘い抹茶ラテを一口飲んだ。
しかし、正直なところ、私は喫茶店が苦手だ。
人の少ない時間帯なら違うのかもしれないが、人の話し声が絶え間なく響いているからだ。
こんな騒がしい場所なのに、勉強する場として人気があるのは、実に不可解だ。
「スバルー、やっぱり、この問題分からないよー」
……まあ、私たちも勉強しにやって来ているのだから、人のことはどうこう言うべきではないが。
そんなわけで、私は今、中間試験の結果が赤点だったミナにせがまれ、繁華街にある喫茶店で宿題の手伝いをしている。
「どの問題が分からないんだ?」
テーブルに広げたノートの上にあごを載せるミナの頭をなでながら、物理の問題集を覗き込む。
すると、シャープペンで無数の書き込みがされた問題を見つけた。
間違い無く、この問題が分からないのだろう。
「どれどれ……おい、これ基本中の基本じゃないか」
問題は力の分解についての、基礎問題だった。
公式さえ覚えていれば、解けるはずなのだが……
「ち、違うよ! 私だって、コサインとサインをどうこうすれば、どうにかなるってところまでは覚えてるよ!」
思わず憐れみの目を送ってしまったためか、ミナは背筋を伸ばして慌てだした。
かなり疑わしい口ぶりだが、コサインとサインという単語が出たのだから、全くの嘘ではないだろう。
「じゃあ、どこが分からないんだ?」
改めて質問すると、ミナは問題の図を指さした。
「ほら、コサインとサインを求めるなら、こことここの長さが分からないといけないでしょ?」
ミナはそう言いながら、図に描かれた上向きの矢印と右向きの矢印を指でなぞった。
ふむ、どうやら惜しいところまで、自力でたどり着いたようだ。
「でも、そもそも、その長さを求めなさいっていうのが問題だから、どうすれば良いか分からないんだ」
「そうか。ところで、ミナ、この斜め上向きの矢印と横軸とのなす角が三十度、という記述に何か思わないか?」
私の問いかけに、ミナは首を傾げた。
「あれ? そういえば、なんでわざわざ書いてあるんだろう?」
「この問題を解くのに、必要な情報だからだ。ミナ、直角三角形の比について何か思い出さないか?」
解き方を思い出すようにうながしてみると、ミナは眉間にシワを寄せて腕を組んだ。
「直角三角形の比、なんか聞いたことがあるような、ないような……」
どうやら、全く覚えていない、というわけではなさそうだ。
それなら、もう少しヒントを出せば、思い出せるかもしれない。
「ほら、このスコーンみたいな三角形について、中学のときに何か習っただろ?」
「あー……たしかに、教科書を見て、なんか美味しそうな三角形だなーって思ったこと、あったかも……」
よし、この調子でいけば、思い出せるはずだ。
「そうだ。三平方の定理のあたりで習ったやつだ」
これを思い出しさえすれば……
「三へいほーの定理……」
……うん。
絶対に思い出さないだろうな、これは。
イントネーションが、どこかのアクションゲームの敵キャラクターのようになっているのだから。
「三十度、六十度、九十度の直角三角形の比は、1:2:√3だ」
図をなぞりながら説明すると、ミナは目を見開いた。
「ああ! そうか! なら、ここをこうやって……」
ミナは呟きながら、ノートに数式を書きはじめた。
見たところ、間違った式を書いている様子はない。
「よーし! 分かったー!」
「どれどれ……うん、正解だ。おめでとう、ミナ」
私の言葉に、ミナは屈託のない笑顔を浮かべた。
「やったー! スバルのおかげで解き方が分かったよ!」
「それはどうも」
はしゃぐミナを眺めながら、たまには喫茶店で勉強するのも悪くないと思った。
もちろん、ミナが一緒ならば、だが。
「あ、悪い」
「うわっ!?」
感慨にふけっていた矢先、背中に強い衝撃を受けた。
振り返ると、何だかザワザワした髪型の男子が紙カップを片手に立っていた。
男子は通り過ぎるでもなく、その場に立ち尽くしている。
しかも、なぜか私を睨み付けている。
着ている制服から、同じ高校の生徒だと分かるが……何なのだ、コイツは?
「あ、
突然の訪問者に呆然としていると、ミナが男子に向かって声をかけた。
ミナに声をかけられた途端、相馬と呼ばれた男子は、にこやかな表情を浮かべた。
「おう!
……どうやら、ミナのクラスメイトか何かのようだが、なんとも分かりやすい反応だ。
そんな相馬の反応に気づく様子もなく、ミナはキャラメルマキアートを口にした。
「ホントだねー、ていうか、なんで土曜なのに制服着てるの?」
「部活帰りだからだよ! そんなこと言ったら、神野だってパーカーにハーフパンツって、小学生男子かよ!」
「もー、酷いこと言わないでよー」
意気揚々と話す相馬に、ミナが相槌を打つ。
ただ、いつもより棒読みに聞こえるのは、気のせいだろうか?
疑問に思っていると、相馬は近くの席から椅子を引き寄せ、私たちの間に入るような形で席に着いた。
「そんなに怒るなって! それで、今日は何しに来てるんだ? 赤点の課題か?」
「うん。スバルに物理を教えてもらってるんだ」
「マジかよ! わざわざ別のクラスのヤツに頼まなくても、俺が教えたのに!」
「えー、でも相馬だって、私と同じくらいの点数だったし」
「俺の方が、五点も高かったわ!」
相馬は大げさな身振りと、感情がこもった声でミナに話しかけている。
しかし、ミナはどこか退屈そうに答えるだけだ。
まあ、なんというか、ご愁傷様だな。
スコーンを頬張りながら相馬に同情していると、不意にミナが立ち上がった。
「ごめん、スバル! ちょっとトイレ行ってくるね!」
突然声をかけられたため、スコーンが喉に詰まりそうになる。
「……っ分かった、行ってくるといい」
しかし、抹茶ラテのおかげで、なんとか事なきを得て、ミナに返事ができた。
すると、ミナは屈託のない笑顔を浮かべた。
「うん! 行ってきます!」
そして、トイレの方向に向かって、走りだした。
まあ、トイレにいくのは仕方ないと思う。
「……ちっ」
しかし、あからさまにこちらに敵意を向ける相手と二人きりにしないでくれ……
まあ、些細な敵意をいちいち気にしても仕方ない。
ひとまず、スコーンを食べきってしまおうか。
ミナを待ちながらスコーンを食べている間、相馬は不機嫌そうな表情でスマートフォンをいじり続けていた。
「……はぁ」
そして、わざとらしいため息や、聞こえよがしの舌打ちを続けている。
しかも、時折足を蹴ってくる。
……まあ、仕方ないか。
相馬は私のことを、ミナの友人、ではなく、恋敵、として見ているようだから。
それに、その見方は間違いではない。
……まあ、ミナが自分から好きになった相手なら、私は黙って身を引こうと心に決めている。
しかし、先ほどの態度を見るに、ミナが相馬を好きだという可能性は、極めて低そうだ。
それなら、こちらから身を引いてやる道理もない。
だから、また足を蹴られたからといって、席を立つわけにはいかない。
まあ、痛かったけれども。
すごく、痛かったけれども。
「スバル! お待たせ!」
相馬に対して苛立っていると、パタパタと足音を立ててミナが戻って来た。
「ああ、おかえ……」
「お、遅いじゃん神野! どんだけ待たせる気だよ!」
私の声をかき消すように、笑顔になった相馬が声を上げた。
ミナに構って欲しいのは分かるが、耳が痛くなるから側で大声を出さないで欲しい。
「あー、ごめんね。じゃあ、私たちもう帰るから」
しかし、ミナは相馬を軽くあしらうと、テーブルの上を片付けはじめた。
主催者のミナが帰りたいというのなら、私が止める道理もない。
「相馬、じゃあねー」
テーブルの上を片付け終わったミナは、相馬に向かってひらひらと手を振って出入り口に向かった。
「お、おう。またな」
相馬は戸惑いながらも、ミナに言葉を返した。
まだ帰るなよ、と言われるかと思ったが、意外に聞き分けはいいのだな。
……いや、別に感心することでもないか。
ともかく、私も、ミナに続くとしよう。
戸惑う相馬を置いて、私たちは喫茶店を出た。
相馬の件がなければ、もう少しゆっくり抹茶ラテを味わいたかったかな。
「スバル、なんかうるさくしちゃって、ごめんね」
名残惜しく思っていると、ミナが申し訳なさそうに呟いた。
「いや、ミナが謝ることじゃないだろ。それよりも、クラスメイトを置いてきて良かったのか?」
「うん。相馬って、何かにつけて絡んでくるから、実はちょっと苦手なんだよね」
私の問いかけに、ミナは苦笑しながら答えた。
私はその答えに少し安心した。
苦手だと思っているなら、ミナが相馬の元に行ってしまう可能性は低いはずだ。
恋敵が相手とはいえ、暴力をふるうようなヤツに、ミナは任せられない。
万が一二人が恋仲になったりしたら、その暴力がミナに向いてしまうかもしれないのだから。
いや、恋仲にならなくても、告白してフラれて、逆恨みなんてことがあったら……
「それに、あの喫茶店のトイレで怖い目に遭ったから、長居したくなかったんだよね」
「……またなのか」
……ひとまず、起こるかどうか分からないことを心配するより、目の前のことを片付けよう。
「そうなの! あの喫茶店、リコぺんからもオススメされてたから、すっごく楽しみにしてたんだよ! それなのにさ、トイレに入ったら個室が一個しまってて、誰かいるのかなって思ったら、ぶしゅって声が聞こえたの。お腹痛くなっちゃったのかなって思ったけど、最初はあんまり気にしなかったんだ。それでも、私が手を洗うときにもまだ、ぶしゅって言ってたのね。だからヤバいって思って、大丈夫ですか、って聞いたら、ドアがバーンってなって、ボタボタボタって……」
ミナは足を止めると、相変わらずの勢いで、遭遇した怪奇現象を説明してくれた。
ひとまず、リコぺんさんが喫茶店をオススメしてくれたことは伝わった。
しかし……
「ミナ、ちょっといいか?」
私が声をかけると、ミナは意外そうな表情で首を傾げた。
「うん、どうしたの?」
「話の内容が、全く頭に入らない。五・七・五・七・七でまとめろ」
私の言葉に、ミナは残念そうな表情を浮かべた。
「そっかー、伝わらなかったかー」
「あ、いや、大変だったのは伝わったが、もう少し情報を整理して欲しい」
ミナの表情に罪悪感を抱き、フォローを入れた。
するとミナは、苦笑を浮かべて軽く頷いた。
「うん、分かった。頑張ってみる」
返事をしたミナは、口元に指を当てて、真剣な表情で黙り込んだ。
まあ、二度とあの喫茶店に行かないという話なら、放っておいてもいいのかもしれない。
しかし、ミナに一切の非がないというのに、行動範囲が狭まるのは忍びな……
「首と舌 伸ばした人が ぶら下がり 蛆を垂らして 腐臭を放つ」
……うん。
少しでも再び遭遇する可能性があるなら、対処しておきたい類のモノだな。
「腐乱系は、なかなかキツいな……」
「でしょー。思わず現実逃避のために、この場合ロープにかかる力はいくらか、なんて物理の問題文考えちゃったもん」
ミナは物騒なことを口にすると、深いため息を吐いた。
「次の試験でそんな問題が出たら、ますます物理が苦手になっちゃうよ」
「そんな悪趣味な問題が出てたまるか! というか、ミナ、そんなに苦手なら、なぜ物理を選択したんだ?」
いい機会だから、前々から気になっていたことを質問してみた。
理科は選択式だから、物理が苦手だと思うなら、別の科目を選択すれば良かったはずだ。
私の質問に、ミナはパチリと瞬きをした。
「え、だって橋を作るなら、物理が分からないとダメだよね?」
帰ってきた答えは、あまりにも意外なものだった。
「は……橋? ミナ、建築関係の仕事を目指すのか?」
「ううん、まだそこまで考えてないよ。ただ、私の部屋のベランダとスバルの部屋のベランダを繋ぐ橋があったら、便利でしょ!」
……たしかに、私たちは隣同士に住んでいるし、時折ベランダで話し込んだりするけれども。
「ミナ、そういう壮大な計画は、子供だけでなくて、家族にも説明した方が……」
「うん! だから、この間、スバルのおじいちゃんに説明したよ! そしたら、それは楽しみですねぇ、って言ってたから大丈夫!」
……ジイさんめ、帰ったらミナをそそのかすなと、抗議しなくては。
「だから、橋の完成を楽しみにしてて……あれ?」
上機嫌にしていたミナだったが、不意に話を止めて首を傾げた。
「なんで橋の話題になってるんだっけ? 折角、完成してからのお楽しみにしようと思ったのに……」
「それは、ほら、ミナがなんで苦手な物理を選択したかって話をしてたからだろ」
色々と話を省略した説明をすると、ミナは屈託のない笑顔を浮かべた。
「そっか! そうだったね!」
どうやら、今回も何を見たかうまく忘れてくれたようだ。
さて、それなら私はするべきことをしてこよう。
「ミナ、すまないがさっきの喫茶店に忘れ物をしてしまったようだ。取りに行ってくるから、どこかで待っててくれないか?」
「うん! 分かった!」
ありふれた言い訳だったが、ミナは疑うことなく頷いてくれた。
そしてあたりを見渡してから、向かいの道に見える本屋を指さした。
「じゃあ、あそこの本屋さんで待ってるから、早く戻ってきてね!」
「ああ。すぐに戻るよ」
まるで新婚夫婦のような会話を交わしてから、私は先ほどの喫茶店に向かって歩きだした。
店に戻ると、相馬の姿はすでになかった。
また因縁をつけられたら面倒だと思っていたが、これならちょうど良い。
さっさと用を済ませて、ミナの元に戻ろう。
店員にはトイレに忘れ物をしたと説明し、問題のトイレに向かうことになった。
入り口のドアを開けると、陶器製の水場と二つの個室が目に入った。
今は誰もいないが、処理中に誰かが来たらまずいか……ん?
あたりを見回すと、入り口のドアノブに鍵がついていることに気がついた。
これなら、好都合だ。
それから、ドアノブの鍵を回し、個室に向き直った。
首と舌
伸ばした人が
ぶら下がり
蛆を垂らして
腐臭を放つ
そして、目を閉じて、ミナが詠んだ歌を頭の中で唱えた。
その途端、甘いような酸いような生臭いような強烈な臭いが鼻をついた。
「ぶしゅっ……しゅ……」
目を開けると、ミナが詠んだ通りのモノが、個室のドア枠にぶら下がっていた。
暗い赤紫色をしたソレは、空気が漏れるような音を発しながら、目をギョロギョロと動かし、ボタボタと蛆を垂らしている。
こんな強烈なモノに、ミナがまた遭遇してしまったら可哀想だ。
だから、早々にご退場いただくことにしよう。
そんなことを考えているうちに、私の足元から赤黒い沼が広がりはじめた。
そして、沼からは無数の赤黒い手が伸び、ぶら下がっていたモノに触れていく。
赤黒い手は、ぶら下がったモノを崩したり千切ったりしながら、沼に沈める。
……何度か見たことのある光景だが、あまり良い光景ではない。
しばらく、目を閉じていようかな。
「ぶしゅっ……しゅっ……」
目を閉じると、どこか不服そうに空気を漏らす音が聞こえた。
まったく、不服なのはこちらの方だ。
腐乱系を処理すると、しばらく胃腸の具合がおかしくなるというのに。
目を閉じてぼやいているうちに、強烈な臭いも、空気が漏れる音も消えていった。
ゆっくりと目を開くと、ぶら下がっていたモノは跡形もなく消えていた。
よし、今回はこれで終わりだ。
早く、ミナのところに戻らなくては。
店員に忘れ物が見つかったと報告してからら、足早に店を出た。
そして、ミナの待つ本屋にたどり着いた。
店内を探すと、ミナは新書コーナーで眉間にシワを寄せていた。
手には、「高校物理は、こんなに楽しかったのか!?」と書かれた本を持っている。
ミナは私に気づくと、本を手にしたまま屈託のない笑みを浮かべた。
「スバル、お帰り!」
「ああ、ただいま。面白そうな本を見つけたみたいだな」
私の言葉に、ミナは勢いよく頷いた。
「うん! なんかね、大人になってから振り返ってみると物理は結構面白いよだからちゃんと勉強してみようね、って本みたい」
「そうか。なら、苦手意識を払拭するために、買ってもいいんじゃないか?」
「うーん、でも今月は『異世界に転生した私ですが親友のために今日もチート能力で暗殺稼業です』の新巻が出るから、バイト代がちょっと心もとないしなぁ……」
「……安全な橋を作るためにも、そっちより今手に持ってる本を買った方が良いと思うぞ」
「えー!? でも『異世界に転生した私ですが親友のために今日もチート能力で暗殺稼業です』の主人公、スバルに似てて可愛いから、新巻を買わないわけにはいかないよ!」
「……それは、どうも」
「よし! 決めた! ちょっと厳しいけど両方買う!」
「そうか。そうすると良い」
いつのまにか私たちは、とりとめのない会話をしながら、レジに向かっていた。
きっと、大人になると、こんななんでもない日々が一番楽しかった、と思うようになるのだろう。
そのときに、ミナの側にいられますように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます