黄昏の説得①

「せんせーい、おはようございます」


 校舎二階にあるクラスへ、職員室をでて歩いていると、二人組の女子生徒が、目の前をかけていく。もうすぐホームルームが始まる。


「廊下を走るなー」


 そう声をかけ、駆け足から速足にかわった二人の後ろ姿を目で追う。スカートをゆらし階段を駆け上がる生徒の隣で、肩で切りそろえた髪に紺のスラックスをはいた生徒が、二段飛ばしの大股で階段をのぼっていた。


 春川が男子の制服を着てから、もうすぐ一か月がたとうとしていた。

 校則違反の処分は、母親が被災地から帰宅後という決定がされた。カウンセラーに相談するのも、親の許可がいる。

 こうして、春川は一か月野放しになることとなった。


 教師たちの間では、悪目立ちしてすぐにでもやめるだろう。そう楽観視されていた。しかし、スラックスは他の生徒にも徐々に広がっていったのだった。


 春川に続く二人目は、二年生の電車通学をしている生徒だった。彼女は毎朝痴漢に悩まされ、学校にも相談していた。

 打開策として兄のおさがりのスラックスをはいて電車にのったところ、痴漢に合わなくなったのだ。


 この話は瞬く間に生徒の間に広まり、痴漢にあっていた生徒たちが一人また二人とスラックスをはいて登校してきた。

 教師は、それを咎める事はできなかった。


 男装する女子生徒たちは、口々に動きやすい、楽だといい、男子生徒も変に女子と意識せずにすむ。と女子のスラックスの利点を主張した。


 教師の間でも、この意見を無視できなくなり、理事会に校長が意見をまとめ上申することが決まった。


                   *


 美術教室の真ん中に軍神マルスの石膏がおかれ、生徒たちはそれを囲むように輪になっていた。

 みな一心にスケッチ帳に鉛筆を走らせている。


「まず、最初に大まかな形をとってから描き始める事。それから細部まで描きこむように」


 俺はデッサンの基本をもう一度言う。みれば、顔から描いたり、たくましい腕から描いている生徒がいたから。

 芸術系の選択科目なんて生徒の息抜きの場だ、厳しいことをいってもしょうがない。少しでも、芸術にふれる時間であったらそれでいい。

 

 その輪の中に春川がいた。マルスに向かい背筋をまっすぐ伸ばし、鉛筆を立て比率を図っていた。デッサンの基本ができている。誰かにならったのだろうか。

 興味をひかれ、後ろから覗き込んだ。


「春川、うまいな。誰かにならったのか?」


「えへへ、ないしょー。でも、なんかこのデッサンくるってない?」


「あーそれは、図る時の目を決めてないからだろう。右目と左目で大体6センチ離れている。その誤差が狂いになる」


「すごーい先生みたい」

 俺をなんだと思っているんだ。なめた口をたしなめるより、俺は春川に言った。


「美術部に、はいらないか。これだけかけるんだし。今年新入部員すくなかったんだ」


 顧問をしている美術部に勧誘する事を優先した。


「絵は好きだけど、他にしたいことあるし。先生ごめんね」


「さっくんは、デザイナーになりたいんだよ」


 春川と仲のよい女子生徒が、すかさず言った言葉に、春川はおおいに照れていた。なるほど、その方があってるな。

 学校指定のポロシャツにスラックス姿の春川を見て思う。

 髪はアップにして、すっきりとまとめていた。今日もその姿に隙がない。


「デザイン画を描くにもデッサンが必要だ。美術部に入って損はないぞ」


 俺の誘惑に心が揺らいだのか、春川は俺を振り返る。


「えー先生ずるい。個人的に教えてくれたらいいのに」

 この少々甘えがにじむ言葉に、教室がどよめき男子生徒がはやしたてた。


「ばか、変な事いうな。おまえと二人っきりなんて勘弁してくれ」


 また、どんな無茶ぶりをされるかと思うと、たまったものじゃない。

 そんなあせる俺を横目に、春川は前方の生徒のスケッチ帳を首を伸ばしのぞきこむ。


「でもね、私より夏木さんの方がうまいよ。みんなも見て」


 そう言って、春川の前に座る女子を指さした。その場にいるのさえ忘れてしまうような存在感が薄い生徒。春川以外誰も気にもとめなかっただろう。

 今その夏木がみなの注目を浴びていた。


 たしかに、うかまった。春川のように、テクニックがあるわけじゃない。でも丁寧に描かれた線は繊細で均一。絵が好きなんだとこちらにも伝わる絵だった。


「本当だな夏木。美術部に入らないか。六月からでも遅くない。ちょっと技術を身につければ、ぐんぐんうまくなるぞ」


「あの、私なんてそんなうまくもないし。人見知りで美術部の人たちとうまくやっていく自信もないし……」


 消え入りそうな声で、言い訳をいう。この自信のなさが、何事にも足をひっぱっていた。

 せっかく誇れるものを持っているのに。どういえばいいか。そう悩んでいる俺の横で、春川があっけらかんと言い放った。


「苦手なら、人付き合いしなきゃいいじゃん。美術部に入って絵だけかいてたらいいんだよ。先生がうまくやってくれるって。好きな物は好きっていわないと。好きが逃げちゃうよ」


 俺になんでも押し付けるな。いや、押し付けじゃないな。信用されていると思っておこう。


「今年の美術部は、大人しい子が多い。何より新入部員をみんな待っている。だから考えてみてくれないか」


「せんせーい。クラスの時と全然ちがうじゃん。すごいやる気がみなぎってる熱血先生みたい」


「うるさい春川。だまってろ!」


 俺たちの夫婦漫才を聞いて、夏木はぷはっと大量の息を勢いよく口からもらす。


「ありがとうございます。考えてみます」


そう言った夏木の言葉に美術室中から、拍手が巻き起こった。


 こんな、平穏な学校生活もそう長くは続かない。つかの間の自由であると、俺にはわかっていた。


 もうすぐ、春川の母親が帰ってくる日にちが迫っている。のらりくらりと逃げているわけにもいかない。


 それに、スラックスの要望を審議する理事会が明日の午後おこなわれるのだ。

 結果がしだいでは、春川に重い処分が下されるかもしれない。


 




               


 

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