黄昏の説得②

 開け放たれた教室の窓から、湿気を帯びた風が入り込んでくる。その風にのり合唱部の発声練習が聞こえてきた。

 放課後の教室で、俺ははためくカーテンから目をそらし、眼前に座る春川の揺れる髪を目で追いながら、口をひらいた。


「午後に行われた理事会で、女子のスラックスは認めないと決定がでた」


 肩にかかった髪を手ではらいながら、俺の言葉に春川は興味なさげに返事をした。


「女子のスカートは昔から決まっていることであり、六十五年続く事を変えるほどの利点はない。とのことだ」


「まっ、そんなとこだよねえ。どうしておっさんって変化を嫌うんだろう。利点ないって自分たちスカートはいたことあんの? 生理で気持ち悪いのにそれでもスカートはいた事あんの? 真冬のさっむい時に足出したことあんの? はいてから言えってはなし」


 内容はきついが、茶化したいいかたに、禿げあがった理事長のスカート姿を想像し、気持ち悪くなった。その不快な映像を、頭から追い払う。


「春川の処分は、今後スカートをはくことを了承すれば、処分はしないそうだ」


 本当は、停学を検討されたが、担任である自分が春川にかならずスカートをはかせると、説得しておとがめなしとなったのだ。


「私は、ただ自分がしたいようにしただけだからいいけど、他の子たちには悪いことした。せっかく不便が解消されるところだったのに。先生かわりにあやまっといて」


「自分の言葉でいえ。みんなお前の言葉ならきく」


「先生なさけないなー生徒を頼るなんて。でも、髪がぼわってなるから、明日は雨なんだよね」


 訳の分からないことだけ言って、スカートをはくとも、はかないともいわぬまま、俺の止める声を無視し教室を出て行った。

 後に残ったのは、春川の髪から漂っていた甘い香りだけだった。


 翌日、早朝から激しい雨が降っていた。そんな雨模様と呼応するように、理事会の決定をつたえたクラスは、しっけたように重く沈んでいる。


「しょうがないよ。校則なんてそうそうかわんねえし」


 この空気を読んだ男子の発言に、女子が食ってかかる。


「しょうがないでなんでもすますから、世の中よくならないんじゃん」


「春川さんがしたことは、けっして無駄なことじゃなかったと思う」


 美術部にはいった夏木が、顔を真っ赤にして発言した。今まで人前で発言できなかったのに、堂々と自分の意見を述べている。春川に人付き合いしなくていいと言われ夏木だが、美術部員とたどたどしいがちゃんと交流していた。


「先生、さっくん休んでるけど、大丈夫?」


 他の女子生徒が、今日欠席している春川を心配する。


「ああ、本人から連絡があった。雨の日は髪がきまらないから登校しないそうだ」


 生徒たちからどっと笑いがおこった。そのからっとした笑い声を聞いて、春川の休みの意図をくむ。

 春川のおかげか、このクラスはいいクラスになった。皆、自分の意見を持ち、それを主張できるようになった。

 誰かがちゃんと見ていてくれる。そう思うと勇気がでるのだろう。


 本人は好き勝手しているだけだというだろうが、彼女は、クラス一人ひとりの個性をみきわめ、彼らの語る言葉に耳を傾けていた。

 それは、担任である俺の仕事だ。春川にはもう頭が上がらない。


 明日の天気予報は晴れだ。髪型をびしっと決めた春川が、スカートをはいて登校してくるだろう。スカートであっても似合っているに決まっている。

 そうしたら、みんなで今日のように笑ってこのクラスにむかえればいい。


 窓の外では暗雲を切り裂くがごとく、稲光がはしり、三秒後、おくれて雷鳴も轟いた。

 その光景を見ながら、単純にそう考えていた。そう考えようとしていた。


 雨は夕方にはあがり、美術準備室に鍵をかけていると背後から声をかけられた。


「先生! さっくんが学校やめるって、メールしてきた。それで、先生に会いたいって、あの公園で待ってるって。どうしよう。やめちゃうなんてやだよ。先生なんとか説得して」


 あの公園とは、きっと葉桜をみた公園だ。

 俺はその場で泣き出した生徒をなだめ、急いで職員室にもどり、荷物をひっつかみ通勤に使っている車に乗り込んだ。


 あの公園まで、一時間弱。それまで春川は待っているだろうか。せっかちなあいつの事だ、待っていないかもしれない。もう、クラスに帰ってこないかもしれない。


 昨日見た、余計な物を捨て去った透き通るような春川の立ち姿を思い出し、また俺は響子の事を思い出す。


 俺は、同じ過ちを繰り返した。


 響子もスケッチ旅行を終えたら、アメリカから帰ってくると単純に思っていた。

 一瞬ひらめいた、もう帰って来ないのではという思い。そんな自分にとって都合の悪いことに、気づかないふりをした。


 人間なんてあまり成長しないもんだなあ。ハンドルを握る手に汗をかきながら自嘲する。

 だが、今度の相手は俺にチャンスをくれた。響子とは違う。このチャンスを無駄にするな。


 日が長い初夏の夕暮れ。もう桜は若葉の頃を迎え、沈む日を浴びオレンジ色に染まっていた。

 雨上がりの芝生広場に、湿気が立ちこめる。前に出会った同じ場所、広場のど真ん中に春川は立っていた。


「先生けっこう早かったね」

 学校をやめる。そんな人生における一大事を決めた清々しいまでの声音。


「学校辞めるって本当なのか、やめる必要ないだろう」


「私は学校をやめる。やっぱり、クローン製造工場にはいたくないなあと思って」


 その言葉をかき消すように湿気をなぎ払う風が吹き、広場を取り巻くソメイヨシノが、一斉にうなりを上げ、葉擦れの音をあたりに響かせる。

 響き渡る葉擦れが芝生の上を走り抜け、俺のまがった背をドンと力強く押す。


「学校という場は、そうそう変わらないし、変えられない」


 その通り。春川は合いの手をいれる。


「そんな場にいても、どんなかっこをしていても、おまえの心は自由じゃないか」


 誰にもしばられない、言いたい事もいえる。思ったことを行動にうつせる。それだけで自由を手にしている。


「おまえには、心配してくれる友達がいる。友達のために、三年間ばからしいルールに従う。それは決して負けじゃない。ひとつの戦略だ。やがておまえが起こしたことが、将来の布石になるかもしれないんだから」


「そうだねえ。あの子たちと離れるのは、正直いやだなあ。でも、その先生の言葉には、一年前にはしたがえたけど、今はできない」


 そうきっぱり言い切って、俺の顔を真正面から見すえる。


「だって、もう私知ってるもん。明日は突然来なくなるって」

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