保健室の攻防①

 連休明けの金曜日。季節はがらりとかわり、初夏の陽気もすがすがしいよく晴れた朝。

 いつも通り、朝のホームルームを始めた。教壇にたち、生徒たちを見まわす。ジャケットを着用している生徒はもう少なく、あけ放たれた窓から、爽やかな風が吹いてくる。その風とは対照的に、生徒たちの顔は一様に、沈んでいた。


 遊び疲れた顔、生活リズムがくるっているのか眠そうな顔。そんなくすんだ顔の中、一人春川の顔だけはらんらんと輝くばかりに生気がみなぎっていた。それは、葉桜をみる冒険者の顔だった。


 連休中に、何かいいことでもあったのだろう。そう単純に思っていた。

 

 生徒はみな着席している。腰から上は女子も男子も同じ制服だ。

 まったく春川の異変に、気がつかなかった。


 昼休み、職員室から逃げるようにひとり、テレピン油の独特の臭いが漂う美術準備室で、昼食をとっていた。

 この臭いが苦手だという人もいる。美大では油画専攻だったから、逆にこの臭いをかぐと落ち着く。


 響子はそんな俺をおもしろいと言ってくれた。テレピン油の臭いをかぐたび思い出すことだ。


 そんなさび付いた雑念を振り払い、購買で買った玉子サンドにかぶりつこうとした瞬間、準備室の戸が勢いよく開けられた。


「やっとみつけた! ここにいたか。探したぞ」


 ノックもなく乱暴に開けたのは、生徒指導の松尾先生だった。怒気をはらむ声、赤ら顔から察するに、校内中を探し回ったのだろう。

 すばやく、玉子サンドを口からはなす。


「秋田先生。おたくのクラスの春川桜子。いったいどうしたんだ!」


 春川の身に、何かただならぬ緊急事態でもおこったのか。

 怪我か、体調不良か、まさか、喧嘩か?

 あの態度だ、上級生に呼び出されたとか。


「春川がどうかしましたか? 朝は元気にしていたのですが」


 松尾先生は、顔にはっきり侮蔑の色を浮かべ、あきれかえって言った。

「気づかなかったのか? 春川、男のかっこしてるんだぞ」


                *


 昼下がりの保健室には陽光が燦燦と降り注ぎ、斜め前に座る春川は、腹が満たされているのか、徐々に瞼が下がってきている。


 自分が置かれているこの状況を、まったく理解していないようだ。

 保健室まで、松尾先生に連行されながら聞いた話によれば、ことが発覚したのは昼休みの食堂。


 食堂は広いカフェテリア方式で、教師も利用を許されていた。あの隣の席の数学教師が、食堂に入るといつにもまして、生徒たちが騒がしかった。

 皆一様にある生徒を気にしている。その視線の先には一人の女子生徒が、悠然と食事をとっていた。


 別段気にとめなかった数学教師は、その女子生徒が食事を終え立ち上がった瞬間、持っていたトレーを落っことした。そのままトレーをひろうことなく、女子生徒を捕縛したというわけだった。


 女子が男子の制服を着ている。この緑風高校始まって以来の珍事件。しかし、ことはデリケートな問題かもしれない。生徒指導室よりも、保健室の方がその問題に対処できるのではないか。そう判断され、この保健室に春川がいるのだ。


 眠そうな春川の真向かいに座る真柴先生は、不気味な笑顔をはりつかせていた。定年まじかのベテラン養護教諭。その長い勤続年数の中、様々な生徒の悩みを聞いてきたというのが、自慢でもあり口癖だった。


 思春期の子どもたちは、心身ともに成長過程にある。その成長過程でぶつかる悩みに、真摯に向き合い解決に導いてあげることが、養護教諭としての自分の務めである。そう熱弁を振るわれたのは、年度初めの懇親会であった。

 

「何時から、そうなのかしら?」


 前置きなく発された、真柴先生の不躾な質問の意図がつかめないのか、春川は狐につままれたような顔をしている。


「だから、男の子の服をきたいなって思った時よ。小さい頃から?」


「ううん、高校生になってから」


 でっぷりとした体形の威圧的な真柴先生にも、普段通りの口をきく春川に先生の隣に座る俺は内心ひやひやした。


「そう、高校生になってから気づいたのね」


「はっ、何が?」


「あなたは、男の子になりたいんでしょう?」


 その押し付けのセリフを聞いた春川の切れ長の目が、俺に向けられた。明らかに、今セリフをはいた大人をバカにした目つきだった。

 その視線をもとに戻し、目を閉じる。ゆっくりと開かれた中性的な瞳には、涙がにじんでいた。


「そうなの先生。私ずっと男の子の服が着たかった」


 情感たっぷりに吐き出されたセリフに、真柴先生はさもあらんと大きくうなずいた。自分の思っていた通りだと、この子の内面は男の子だと、確信が表情に現れていた。


「おかしなことじゃないのよ。思いつめないでね。お母様はなんと言っておられるの?」


「お母さん、今日から被災地に医療スタッフとして派遣されたの。一か月は帰らないって。だから私、こんなかっこしちゃった。お願い、お母さんには言わないで」


 哀れな迷える子羊に、慈悲をふりかざしやんわりと諭す、ふとったマリア。


「そういうわけにはいかないのよ。専門のカウンセラーの先生にも相談した方がいいし。お母様に連絡だけでもできないかしら?」


 春川はうなだれ、長い髪がその横顔をかくす。小刻みに肩が震えだした。


「お母さんに心配かけたくない。だって今被災地でお仕事がんばってるんだもん。後は、秋田先生と相談したらだめ? 男の先生の方が言いやすい」


 おれにとって迷惑な免罪符は、真柴先生の心に届いた。


 「大丈夫、心配しないでね」そう連呼して、先生は巨体を揺らしながら、俺にうまくやれと、無言の流し目を送り、保健室から出て行った。



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