葉桜の公園②

 大きな総合病院の白く四角い建物が、鬱蒼とした木々の向こうに見える。その公園には、広大な芝生広場を囲うようにソメイヨシノが数十本植えられていた。花見シーズンには大いに賑わうのだろうが、今は葉桜。レジャーシートを広げ、子供を遊ばせる親子の姿があるだけだった。


 そんなのどかな親子連れの中、芝生広場のど真ん中に何をするでもなく、立ちすくんでいる若い女性がいた。黒のスキニーパンツが長い足を強調し、真っ白なパーカーを着て長い髪をポニーテイルに結っている。


 遠目でも、まっことかっこのよい服装をした女性は、あの春川桜子だった。


 俺は躊躇した。声をかけるべきかどうか。

 休日に先生に声をかけられるなんて、生徒は気分を悪くするだろう。教師なんぞに学校以外で会いたいわけがない。おまけに、春川は俺にいい印象など持っているはずがない。


 しかし春川は俺をみつけ、ためらいを見破るように大きく手を振り、そしてあたりに響き渡るほど大きな声で言った。


「せんせーい。こんなところで何してるの?」


 あっけらかんと響く声音に驚く。思っているほど、春川は俺のことなんか気にもしていない。自分の自意識過剰を心の中で笑い、意を決する。

 

 俺は教師の仮面をすばやく装着し春川に近づいて行った。一歩一歩、歩を進めるたび、カサコソと青くしげる芝生が音をたてる。


「散歩だ。春川こそ何をしていたんだ?」


 新学期が始まって一週間。あの服装検査以来、個人的な会話を交わしたことはなかった。というよりも、俺がさけていた。ある理由から。


「桜みてた。葉桜ってきたないなあって」


 長い指をまっすぐのばし、葉桜を指さす。その幼いしぐさをみて、心のしこりが解けていく。外見だけだと、大学生に見えるがまだ二か月前まで中学生だったのだ。

 春川の指先の葉桜に、目をむける。

 たしかに満開に咲く桜の隙のない美しさに比べれば、葉桜はくすんで見えた。


「遠くから眺めたらそうだなあ。でも近づいてみたら意外に、葉桜もおつなもんだぞ」


 美術教師らしいことを言い、葉桜にゆっくり近づいていく。ついてこないのではないかと、ちらりと後ろをうかがうと、春川は素直についてきた。

 俺はうつむき目を細め、くっと口の端をあげる。ちょうど桜の真下に来て、上を見上げた。


「ほら、遠くから見たら色がまじりあって濁って見えるけど、ここならはっきり一つ一つの輪郭が見えて、きれいだ」


 桜の木には、花びらが落ちたえんじ色のさくらしべがぶら下がり、枝の付け根には黄緑色の若葉。まだところどころ花も咲いていた。

 満開の薄紅一色の桜と違い、彩りが豊かだ。それぞれが、みずみずしい色を放っている。


 春川は、俺の言葉を確かめるべく口をぽかんとあけ、頭上の葉桜を見上げた。


「ほんとだあ。このガクちっちゃいサクランボみたいでかわいい。若葉の色もきれいだね。さすが美術教師、見るとこがちがうねえ」


 新たな発見に胸を躍らせる冒険者は、破顔する。こういう顔を拝めるのは、教師の数少ない特権だ。その特権を存分に味わうべく、桜を見続ける横顔をながめていると、記憶の中の面影と重なり、思わず目を閉じた。


 瞼の裏に焼き付く、忘れえぬ面影。ベリーショートの頭を上げ、真っすぐ前をみていた、その横顔。心の底から吹きあがるなつかしい記憶が、頭の中を占領する。

 二十年たっても色あせないその生々しさに息が詰まり、ボタンダウンの襟もとを強く握り締める。


 たまらず、目をあけると芝生の上におちた自分の影の濃さにぎょっとした。その驚きをかき消すように陽気な声がして、春川を再びみる。


「葉桜はたしかにおつだけど、私桜って嫌い。特にソメイヨシノ。木にいきなり花が咲くんだよ。一色だけなんてつまんない。先生知ってる? ソメイヨシノってみんなクローンなんだって。だから一斉に咲く。気持ち悪いよね」


 ソメイヨシノは、人の手で作り出された栽培品種であり、接ぎ木や挿し木で増やされたクローン桜なのだ。教師風をふかせ、知っていると言っても生徒の心のガードは固くなるだけだ。


「自分の名前が桜子なのにか?」


「あっほんとだ」


 初めて気づいたのか、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。

 思わず俺は胸に巣くう影を払しょくし、笑い出した。


「ひどーい。私が嫌いなのは、ソメイヨシノだからいいの。八重桜とか山桜は好きだもん」


「さっき、桜が嫌いって言ったぞ」

 俺の意地悪な指摘に、ますます頬を膨らませる。


「だって、ソメイヨシノってなんか学校みたい。みんながおんなじ色して、おんなじ瞬間咲くなんてさ」


「春川は学校が嫌いなのか?」


 俺は意外だった。クラスの大人しい子たちと違い、もう男女の区別なく友人をつくり毎日楽しそうにしている。

 砕けた口調。教師にも敬語を使わない。もちろん人見知りもしない性格は、まだキャラの探り合いをしているクラスにおいて、ムードメーカーとなっていた。

 そう俺の目には映っていたのだ。


「せっかく私立の高校に入ったんだから、自由にできると思ってたのに全然違うんだもん。地獄の服装検査もあるし」


 そんな愚痴を教師の前で堂々と言える生徒の心は、もう何物にも縛られておらず、自由ではないだろうか。


 ここは、担任としてなにかアドバイスするべきだろう。そう思っても何も頭に浮かばない。黙り込んだ俺を不思議に思うわけでもなく、春川は一心に葉桜をながめていた。


 遠くから春川の名を呼ぶ声がした。

 俺は、はっとしてその声の主をさがす。


「おかあさーん。仕事終わった?」

 

 そう春川は言って、母親へ向かって走っていった。

 春川の母親は娘から俺の身分を聞いたのだろう、ふかぶかと頭を下げてくれた。俺も慌てて頭を下げる。頭をあげ一瞬母親と目があった。

 その顔に見覚えはなかった。


 体育館の外で春川をみつけた時、記憶のそこからよみがえった一人の女。美大時代の恋人、響子。

 春川と響子は似ているというか、まとう雰囲気が同じだった。

 思わず年齢的に娘かと思い、春川の家庭調査票にその名を探した。

 そこに記された母親の名前は、響子ではなかった。


 母親は、この公園に隣接する総合病院に勤務しているシングルマザーの薬剤師。響子はアーティストになったのだ。全く経歴が違う。

 それでも、今日春川の母親の顔に注目させたのは、俺の未練だったのだろうか。


 公園での出来事から日は流れ、新入生は高校生活にもようやく慣れ始めた五月。

 俺はいらぬ助言をしたのか、ゴールデンウイークがあけた最初の登校日。学校中がひっくり返ることとなる。春川桜子は男子のスラックスをはいて、登校してきたのだった。

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