黄昏の説得

「せんせーい、おはようございます」


 二人組の女子生徒が、目の前をかけていく。もうすぐホームルームが始まる。


「廊下を走るなー」


 そう言い、駆け足から速足にかわった二人の後ろ姿を目で追う。スカートをゆらしいそぐ生徒の隣で、肩で切りそろえた髪に紺のスラックスをはいた生徒が、大股で歩いていた。


 春川が男子の制服を着てきてから、もうすぐ一か月がたとうとしていた。

 校則違反の処分は、母親が被災地から帰宅後という決定がされた。カウンセラーに相談するのも、親の許可がいる。

 こうして、春川は一か月野放しになることとなった。


 教師たちの間では、悪目立ちしてすぐにでもやめるだろう。そう楽観視されていた。しかし、スラックスは他の生徒にも徐々に広がっていったのだった。


 春川に続く二人目は、二年生の電車通学をしている生徒だった。彼女は毎朝痴漢に悩まされ、学校にも相談していた。

 打開策として兄のおさがりのスラックスをはいて電車にのったところ、痴漢に合わなくなったのだ。


 この話は瞬く間に生徒の間に広まり、痴漢にあっていた生徒たちが一人二人とスラックスをはいて登校してきた。

 教師は、それを咎める事はできなかった。


 男装する女子生徒たちは、口々に動きやすい、楽だといい、男子生徒も変に女子と意識せずにすむ。と女子のスラックスの利点を主張した。


 教師の間でも、この意見を無視できなくなり、今日行われる理事会に校長が意見をまとめ上申することが決まった。


               *


 開け放たれた教室の窓から、湿気を帯びた風が入り込んでくる。その風にのり合唱部の発声練習が聞こえてきた。

 放課後の教室で、俺は眼前に座る春川の揺れる髪を目で追いながら、口をひらいた。


「午後に行われた理事会で、女子のスラックスは認めないと決定がでた」


 俺の言葉に春川は興味なさげに返事をした。


「女子のスカートは昔から決まっていることであり、六十五年続く事を変えるほどの利点はない。とのことだ」


「まっ、そんなとこだよねえ。どうしておっさんって変化を嫌うんだろう。利点ないって自分たちスカートはいたことあんの? 生理で気持ち悪いのにそれでもスカートはいた事あんの? 真冬のさっむい時に足出したことあんの? はいてから言えってはなし」


 内容はきついが、茶化したいいかたに、禿げあがった理事長のスカート姿を想像し、気持ち悪くなった。


「私は、ただ自分がしたいようにしただけだからいいけど、他の子たちには悪いことした。せっかく不便が解消されるところだったのに。先生かわりにあやまっといて」


 それだけをいい、俺の止める声を無視し春川は教室を出て行った。


 翌日、早朝から激しい雨が降っていた。そんな雨模様と呼応するように、理事会の決定をつたえたクラスは、しっけたように重く沈んでいる。


「しょうがないよ。校則なんてそうそうかわんねえし」


 この空気を読んだ男子の発言に、女子が食ってかかる。


「しょうがないでなんでもすますから、世の中よくならないんじゃん」


「春川さんがしたことは、けっして無駄なことじゃなかったと思う」


 クラスで一番大人しい女子が、顔を真っ赤にして発言した。


「先生、さっくん休んでるけど、大丈夫?」


 他の女子生徒が、今日欠席している春川を心配する。


「ああ、本人から連絡があった。雨の日は髪がきまらないから登校しないそうだ」


 生徒たちからどっと笑いがおこった。そのからっとした笑い声を聞いて、春川の休みの意図をくむ。

 春川のおかげか、このクラスはいいクラスになった。皆、自分の意見を持ち、それを主張できるようになった。

 勇気を出して言った言葉は、誰かがちゃんと聞いてくれると知っているから。


 本人は好き勝手しているだけだというだろうが、彼女は、クラス一人ひとりの個性を尊重し、彼らの語る言葉を聞いていたのだ。

 それは、担任である俺の仕事だ。春川にはもう頭が上がらない。


 明日の天気予報は晴れだ。春川はあきらめてスカートをはいて登校するだろう。このクラスに帰ってくる。そうしたら、みんなで今日のように笑ってむかえればいい。


 窓の外では暗雲を切り裂くがごとく、稲光がはしり、三秒後、おくれて雷鳴も轟いた。

 その光景を見ながら、単純にそう考えていた。そう考えようとしていた。


 雨は夕方にはあがり、美術準備室に鍵をかけていると背後から声をかけられた。


「先生! さっくんが学校やめるって、メールしてきた。それで、先生に会いたいって、あの公園で待ってるって。どうしよう。やめちゃうなんてやだよ。先生なんとか説得して」


 あの公園とは、きっと葉桜をみた公園だ。

 俺はその場で泣き出した生徒をなだめ、急いで職員室にもどり、荷物をひっつかみ通勤に使っている車に乗り込んだ。


 あの公園まで、一時間弱。それまで春川は待っているだろうか。せっかちなあいつの事だ、待っていないかもしれない。もう、クラスに帰ってこないかもしれない。


 昨日見た、余計な物を捨て去った透き通るような春川の立ち姿を思い出し、また俺は響子の事を思い出す。


 俺は、同じ過ちを繰り返した。


 響子もスケッチ旅行を終えたら、アメリカから帰ってくると単純に思っていた。

 脳裏に走る不穏な閃光。それに気づかないふりをした。


 人間なんてあまり成長しないもんだなあ。ハンドルを握る手に汗をかきながら自嘲する。

 だが、今度の相手は俺にチャンスをくれた。響子とは違う。このチャンスを無駄にするな。


 日が長い初夏の夕暮れ。もう桜は若葉の頃を迎え、沈む日を浴びオレンジ色に染まっていた。

 雨上がりの芝生広場に、湿気が立ちこめる。前に出会った同じ場所、広場のど真ん中に春川は立っていた。


「先生けっこう早かったね」

 学校をやめる。そんな人生における一大事を決めた清々しいまでの声音。


「学校辞めるって本当なのか、やめる必要ないだろう」


「やっぱり、クローン製造工場にはいたくないなあと思って」


 湿気をなぎ払うように風が吹き、ソメイヨシノの葉擦れが芝生の上を走り抜け、俺の背を押す。


「学校という場は、そうそう変わらないし、変えられない」


 その通り。春川は合いの手をいれる。


「そんな場にいても、どんなかっこをしていても、おまえの心は自由じゃないか」


 誰にもしばられない、言いたい事もいえる。思ったことを行動にうつせる。それだけで自由を手にしている。


「おまえには、心配してくれる友達がいる。友達のために、三年間ばからしいルールに従う。それは決して負けじゃない。ひとつの戦略だ。やがておまえが起こしたことが、将来の布石になるかもしれないんだから」


「そうだねえ。あの子たちと離れるのは、正直いやだなあ。でも、その先生の言葉には、一年前にはしたがえたけど、今はできない」


 そうきっぱり言い切って、俺の顔を真正面から見すえる。


「だって、もう私知ってるもん。明日は突然来なくなるって」







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