保健室の攻防
朝のホームルーム、なにやら生徒がざわついていたが、別段気にも留めず出席をとり始めた。
春川の名を呼ぶと、なんらかわらない普段以上の元気な返事がかえってきた。
生徒はみな着席している。腰から上は女子も男子も同じブレザーだ。
まったく春川の異変に、気がつかなかった。
昼休み、テレピン油の独特の匂いが漂う美術準備室で、昼食をとっていたら、準備室の戸が勢いよく開けられた。
「やっぱり、ここにいたか」
ノックもなく乱暴に開けたのは、生徒指導の松尾先生だった。
「秋田先生。おたくのクラスの春川桜子。いったいどうしたんですか!」
そのただならぬ勢いに蹴落とされ、昼食のサンドイッチを放り出し、松尾先生に駆け寄った。
「春川がどうかしましたか? 朝は元気そうにしていたのですが」
体調でも崩したのだろうか。とっさに頭をよぎったのはそんなことだった。
松尾先生は、あきれていった。
「気づかなかったんですか? 春川、男のかっこしてるんですよ」
*
昼下がりの保健室には陽光が燦燦と降り注ぎ、斜め前に座る春川は、腹が満たされているのか、徐々に瞼が下がってきている。
そんな眠そうな春川の真向かいに座る養護教諭の真柴先生は、不気味な笑顔をはりつかせていた。
「何時から、そうなのかしら?」
質問の意図がつかめないのか、春川は狐につままれたような顔をしている。
「だから、男の子の服をきたいなって思った時よ。小さい頃から?」
「ううん、高校生になってから」
でっぷりとした体形の威圧的な真柴先生にも、普段通りの口をきく春川に先生の隣に座る俺は内心ひやひやした。
「そう、高校生になってから気づいたのね」
「はっ、何が?」
「あなたは、男の子になりたいんでしょう?」
そのセリフを聞いた春川の切れ長の目が、俺に向けられた。明らかに、今セリフをはいた大人をバカにした目つきだった。
その視線をもとに戻し、目を閉じる。ゆっくりと開かれた中性的な瞳には、涙がにじんでいた。
「そうなの先生。私ずっと男の子の服が着たかった」
情感たっぷりに吐き出されたセリフに、真柴先生はさもあらんと大きくうなずいた。
「おかしなことじゃないのよ。思いつめないでね。お母様はなんと言っておられるの?」
「お母さん、今日から被災地に医療スタッフとして派遣されたの。一か月は帰らないって。だから私、こんなかっこしちゃった。お願い、お母さんには言わないで」
哀れな迷える子羊に、慈悲をふりかざしやんわりと諭す、ふとったマリア。
「そういうわけにはいかないのよ。専門のカウンセラーの先生にも相談した方がいいし。お母様に連絡だけでもできないかしら?」
春川はうなだれ、長い髪がその横顔をかくす。小刻みに肩が震えだした。
「お母さんに心配かけたくない。だって今被災地でお仕事がんばってるんだもん。後は、秋田先生と相談したらだめ? 男の先生の方が言いやすい」
おれにとって迷惑な免罪符は、真柴先生の心に届いた。
二人だけになった保健室。俺の腹はなり、食べそこねたサンドイッチの存在を思い出した。
「先生おなかなってるよ。昼ごはん食べなかったの?」
いったい誰のせいで、食べそこねたと思ってるんだ。怒る気力もなくし俺はいった。
「春川、ただ単に男子の制服が自分に似合うから着たんじゃないか?」
「さすが、先生。せいかーい。あの美的センスなんて到底理解できないおばさんにはわかんないだろうけど」
そう言うと椅子から立ち上がり、その場でステージモデルばりのターンをきめた。黒髪もふわりとゆれ、あたりにはなにやら花の香りが立ち込める。
足の長い春川を魅力的に見せてくれる、パンツスタイル。紺の上下が長身の体にすっきりと馴染む。確かに、似合っている。
「先生も似合うと思うでしょ」
表情に出ていたかと頬をこすり、ため息をつきながら腕組みをした。
「そんなことより、お母さんは本当に、被災地にいったのか?」
春川の言葉はいったいどこまで本当なのかたしかめる必要がある。
「そうだよ。私のこの姿みてがんばってねって言って出て行った」
母親も応援しているのか……理解のある母なのか、放任主義なのか。
「いくら似合うからって、男のかっこはまずいだろ」
「なんで? 女の子普通にズボンはくじゃん私服で」
「制服は違う。それにここの学校の制服はかわいいって評判なんだから。わざわざズボンはかなくても」
常識をふりかざす大人を見下ろし、口の端をあげ皮肉な笑みをはりつかせる。
「女子のスカートチェックなんだよ? ネクタイが縞なのに、ガラガラじゃん。おまけにひざ下って一番バランスとれない。丈をもうちょっと短くしたらまだましだったのに、先生たちがいちいちチェックするなんて信じらんない」
「見た目だけの問題なのか?」
「見た目気にしてるのは、先生たちでしょ。緑風高校の伝統を重んじきちんとした服装をしよう。ってその服装は先生たちが想定する服装であって、私たちが似合う服装じゃない。きちんとした服装って私にはこれなの」
「校則で、女子の服装は決められてる」
「なんで女子はスカートはかないといけないの? 女の先生はズボンはいてるのに。生徒だけにスカートをおしつけるなんて、おかしい」
このままでは正論を言い続ける春川にのみこまれる、教師としてどう言い聞かせるべきか。
「一人だけ、違う服装したら目立って嫌な思いするのは春川だ。それに上級生から目をつけられる」
「クラスのみんな応援してくれてる。だからホームルームの時みんな黙ってたんだよ。それに、もう上級生に声かけられた。でも、いっしょに男のかっこしましょうよって言ったら、めんどくさい奴っていってどっかいっちゃった」
五月の日差しは強い。室内の温度があがったのか、背中に汗がつたう。
「学校は、勉強するだけの場所じゃない。共同生活のルールを守るのも勉強だ。一人だけ好き勝手にしていたら、みんなの輪を乱す」
「先生つまんないこというね。せっかく葉桜がきれいって教えてくれたのに。いろんな色があっておつだって言ってたじゃん。ルールが、ばかばかしい場合でも従わなければならないの? それを変えようって思っちゃダメなの? 決められたことをうのみにして、それで成長できるの? 個性を尊重するって教育方針は、大人の建前か! 先生たちはクローンをつくりたいだけじゃん」
たたみかけるように言われ、俺は何も言い返せなかった。
「つまらないこというね」
遠い昔に、同じセリフを聞いた。いったのは響子だ。
大学三年の夏休み、響子はアメリカ大陸をバイクで横断するスケッチ旅行にいくといいだした。もちろん一人で。
女の子一人では危ないから、やめたほうがいいと俺は言った。
響子の身を心配するなら、ついていけばいいのだ。でもそんなこと絶対言えなかった。
絵を描く響子と四六時中いっしょになんかいられない。自分が書きたくても書けないものを、見せつけられる苦痛。
その才能に嫉妬し、アーティストとして大きく羽ばたくかもしれない響子を、女の身に落とし込み翼を折ろうとしたのだ。
そんなおれの姑息を見透かし、つまらないこというね、そう一言だけ残し響子は旅立っていった。
そのままアメリカから帰って来ず、響子は大学を中退した。
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