第10話 政略結婚とは
何かを踏みつぶすような勢いで歩く王太子は俺の前に立つなり、マルレーヌ妃、フルール様の悪口を並べる。そのどれもが、噂に踊らされている根拠に乏しいものばかりだ。
「こんな婚約、私が父様に話して反故にしてもらう。いくらなんでも、フランセーン卿が哀れだ」
哀れまれる必要なんてないんだが、この愚直な王太子なりの優しさなのだろう。彼女と結婚すると話した時も、自分の事のように喜んでくれたしな。
「これはもう決まったこと。夢魔だの、夢魔の子なんて噂に過ぎません。寧ろ本当に夢魔ならそれはそれで」
顔を真っ赤にされて、王太子は思春期真っ盛りだ。何かを勝手に想像したのだろう。
「だが、パルムクランツ嬢のことは……彼女を亡くしたばかりだというのに」
「……それは、それ。これはこれと、思わなくてはいけません」
フルール様を守る為に、マルレーヌ妃は自分が産みの母だと嘘をつき、前国王を誑かした夢魔だと噂を流した。国王は王女様の願いを守る為、幼い妹であり姪であるフルール様を嫌っていると、偽り遠ざけた。
俺に託された役割は……
「この婚約は出世が約束されているのです。……そう卑下するものではありません」
出世か……そんなものどうでもいい。
彼女がいない。出世したところで、嬉しくもなにも無い。どうでもいいと思っているからこそ、この役割が俺に回ってきたのだから。
――フルール様を守り、嫌われ、捨てられる。
花嫁の一番綺麗な姿を見る事が出来なかった哀れな花婿にこそ相応しい。
乾いた音が響き、周囲が一瞬だけ鎮まった。
俺の答えに不満があったのだろう。王太子が俺の頬を思いっきり叩いていた。
口に中に滲む鉄の味を袖で拭う。
「幾ら相手があの、夢魔の子でも、子供だからと……それはいくらなんでも、非道だ」
フルール様の身の上を知ったら、この王太子はなにがなんでも守ってくれそうだ。まだ、成人前というのが惜しい。
大人であってもきっと、国王は王太子に真実を話すことはないだろうな。王女様の願いを叶えるには執政者としての非道を捨てなくてはいけない。フルール様にだけ向ける慈悲は隠しきらなくてはいけないものだ。
「フランセーン卿のことは良い奴だと、気に入っていたのに……まさか、パルムクランツ嬢の、花嫁の死を利用したのか?」
王太子の言葉に血が上っていく。
落ち着けと、理性をと思っても、自分の中の感覚で、はっきりと頭に血が上っていく。
今日、騎士服を着ていなかった事が幸いだ。帯刀していないことが悔やまれる。
「殿下! それはあんまりです!」
ドニが俺を後ろから押さえつけていた。
俺は何をしようとしていた? 王太子は怯えた顔をして、周囲も仕事の手を止めてこちらを見ている。あの構えはいつでも、立ち向かえる構えだ。
藻掻いてもドニの拘束は外れない。
「この二人の仲は誰もが知るものだったじゃないですか。家族を、これからの未来を奪われた者の気持ちを考えた事ありますか?」
「そんな事……」
「それに、政略結婚は、そういうものではありませんか」
「だが、」
「殿下だって、未だに許嫁の顔を知らないではないですか」
「それは……」
「人の私生活にあれこれ、口を出すものではありませんよ」
王太子は顔を伏せたまま、謝罪の言葉を小さな声で述べ、俺の顔を見ることもない。
王太子の姿が遠のくまでドニは俺を離さなかった。
当たり前だ。強張った俺の手に握られていたのはペンだ。今さっきまで、目の前で隊長が使っていたペンを俺は……
誰も俺を咎めよとしなかった。牢に繋がれてもおかしくない事をしたはずだっていうのに、肩を、背を叩き、無言で俺を労っていく。
その無言が寧ろ俺を責める……いや、哀れまれているようで、惨めだ。
俺を心配してドニは屋敷まで着いてきた。俺を心配してなのか、王太子への警護のためなのか、聞く間でもないだろう。
あれだけ頭に血が上れば仕方がない。
「そのさ、殿下の事は子供の戯言だ。誰もお前を責めないし……責められるのは殿下の方だ」
「俺は、フラヴィの事忘れられない。彼女が死んだって、もう居ないって、信じたくない」
動かなくなった彼女から流れる真っ赤な血が衣装の白を染めていた。
竜人に襲われて、立ち向かう武器を花嫁が持っているはずもなく、恐かっただろうな。俺のこと待って、いつまでも来なくて、失望しただろう。
俺があの日……って後悔は幾らしても足りない。もしもがあるならさ、俺は幾らでもやり直す。彼女を死なせたりはしないよ。
ドニはそれから何も言わなかった。いつもなら、たわいのない話でうるさい奴なのに。
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