Chap.8-3

 気がつくと土砂降りだった雨の勢いが弱まっていた。

 柳通りの路地に傘を持つ人々がちらほら現れ、灰色に沈んだ町の景色に色彩が戻りはじめていた。予報通り雨は止んでくれそうだ。

「おい、こら。それは君のエサじゃない」

 しゃがんだタカさんが急にそんなことを言ったので、見ると、一匹のトラ猫が足下に置いたスーパーのレジ袋に顔を突っ込んでいた。タカさんが引き離すようにそのトラ猫を持ち上げた。

「魚の匂いでもかぎつけたかな? 今日は鍋にしようと色々買って来たんだ」

「鍋かあ、いいですねえ。雨ですっかり身体が冷えちゃったし、ベストタイミングですよ」

 みんなでワイワイと鍋を囲む姿を想像した。鍋から立ち上る湯気に眼鏡を曇らせてしまうタカさん。チャビはきっと人一倍おかわりをするだろうから、みんなの分がなくならないように注意をしないと。

 タカさんの膝の上に乗ったトラ猫の頭をツンツンと指先で触れてみる。

「新宿は昔から野良猫が多いんだよ。三丁目のこっちの方ではあまり見かけないんだがな」

 触られてもブスとした顔でふてぶてしく、嫌がる様子はない。そもそもそのずうずうしさがないと、スーパーのビニール袋に頭をつっこんだりしないだろうな。

「首輪もしていないから、飼い猫ではなさそうですけど、ずいぶん人に慣れてますね」

「ここからだと花園神社の向こうにゴールデン街があるだろ。あの辺から出張してきたのかもしれないね。ゴールデン街の店の人たちがエサをやったりして、住み着いている猫も多いんだよ」

 上野動物園でチャビが言っていた、猫の通り道や縄張りについて思い出した。町に住む猫の行動範囲からすると、大きな車道を渡って来るのは珍しいと思うが、この雨でビックリしてしまったのかもしれない。

 軒先の雨宿りに訪れた珍客。タカさんは膝からトラ猫を下ろすと、スーパーのビニール袋からリリコさん用に買ったと思われるつまみのさきイカを一欠片取り出し、トラ猫の前に差し出した。濡れた鼻をひくひくさせ「ナア」とひと声鳴いて、前足で器用に押さえながら食らいつく。タカさんはその背をそっと撫でた。

「タカさんはいちいち面倒見がいいんですね」

 何となくため息が出る。

「はは、こればっかりは性分かもなあ」

「今朝だって、リリコさんが脱ぎ散らかした服を片付けてたでしょ? 面倒見がいいのと甘やかすのは違いますからね」

 イカを食べ終わると、前足で顔を洗うようにしてから、トラ猫はビルとビルの間へぷいっと姿を消してしまった。人が入っていけないようにトタン壁で覆われていたが、立て付けが悪く、そのわずかな隙間をすり抜けて行った。エアコンの室外機や換気扇の排気ダクト、そんなものしか見えない狭いビルの狭間が、迷路のように新宿の町で猫たちの通り道になっているのかもしれない。

「ああ、もしかしたら、俺が甘やかすからリリコは男っ気がないのかね? まあ、そもそもルームシェアだと男も呼べないか。一平もそうだが、リリコもユウキも、チャビだって男のいる気配が全くないだろう。困ったもんだ」

 顎髭に手を当てて、タカさんは真剣に唸っている。

「そっくりそのままお返しします。男っ気がないのは、タカさんも一緒ですからね」

「ははは、確かにそうだ」

 遠くで雷鳴が聞こえた。もう近くに落ちる心配はないだろう。雨が止むのが先か、日が暮れるのが先か。

「あの……もし、言いにくいことを聞いてしまったらすみません」

「ん?」

「マサヤさんて、タカさんの昔の恋人ですか?」

 思い切って聞いたみた。それは周年パーティーで源一郎さんが口にした名前だった。その名を聞いた途端、タカさんはグラスを取り落とし、指をケガしてしまった。そのまましばらく店の裏から戻ってこなかった。火事の件でバタバタしていたが、ずっと頭の隅で気になっていた。

 タカさんの様子をうかがう。

 タカさんは動揺した様子もなく、かと言って他の感情も表情からは読み取れない。ただ移りゆく空模様に目を向けていた。

「死んでしまってからもう五年になるな」

 タカさんがぽつりと言った。

「周年のときに源一郎さんや、リリコさんの様子がおかしかったので気になりました。話したくなかったら無理に話さなくていいです」

「周年のときはリリコやゲンちゃんにも、気を使わせてしまったよ。マサヤを知っている友人の口からその名を聞くと、やはり堪えるものがあるんだ」

 ため息まじりにそう言う。

「マサヤとは大学時代に知り合って、十年付き合った。もうそのまま一生隣にいてくれるものだと思いこんでいたね」

 止みかけていた雨がふいに強まったように感じた。それなのに、周囲の雨音は遠ざかって、すーとタカさんの声に吸い寄せられる。

「同じ東京の大学だったんだ。俺は沖縄で、あいつは埼玉出身。奇妙な取り合わせだったな。同じ大学の同じ学科に通わなければきっと知り合うタイプではない。生真面目というか、優等生ヅラというか。正直、イケ好かないヤツだと思っていたよ。向こうもそう思っていたかもしれない。同じクラスにいるのに滅多に口もきかない気になる同級生。その頃はまだ出会いアプリのようなものはなかったからね。大学三回生になっていたかな……俺がバイトをしていた二丁目の店に、ゲンちゃんが連れてきた時にはビックリした。お互いの顔に指を差し合って『あー!』て具合さ。ゲンちゃんも同じ大学の社会学科でね。まあどうやってマサヤを引っかけて来たのかは、いまだによくわからないが。ゲンちゃんは俺が横取りしたようなことを言うが、マサヤの方から告白をして来たんだ。ずっとゲンちゃんのことが好きなのだろうと勝手に思っていたからビックリしたよ」

 懐かしそうにタカさんが目を細めた。

「付き合ってはみたものの、はじめのうちはケンカばかりしてたなあ。リリコともその頃に知り合った。今でこそ、少しは大人しくなったが、あの頃二丁目でリリコのことを知らない者はいないくらい派手に遊んでいたよ。バリバリのドラァグクイーン、まさに夜の蝶だった。どこかの店でイベントがあれば必ず呼ばれていた。そんな具合で俺がバイトしていた店にも、リリコが来て知り合ったんだと思う。昔のリリコとの思い出は、あまりに同じような夜の記憶ばかりで、もう忘れてしまったがね」

 今だって十分派手に遊んでると思うのに、二十代前半のリリコさんはどれだけのバイタリティで二丁目を蹂躙していたのだろうか。

「大学を卒業して、俺も一度は会社勤めをしたんだ。マサヤも都内で働き出した。その頃から同棲をはじめたんだったな。よくある、ありきたりのゲイカップルだったよ。俺の浮気がバレて大喧嘩になったときには、もうダメかと思った」

「タカさんも浮気なんかするんですか?」

 思わず声にならない音を漏らしてしまう。

「若気の至りだな。何でも若さのせいにしちゃいけないか……マサヤの剣幕にもう二度とするまいと思ったけどね」

 タカさんが苦笑いする。

「自分が脱サラをして二丁目で店をはじめたいと言った時もマサヤは支えてくれた。一生、こいつと暮らしていくのだろうとその頃から思いはじめたかな」

 次の言葉を口にするのを躊躇うように一端息をつく。

「……事故死だった」

「事故死?」

「そう、マサヤは持病を持っていて……飲んでいる薬の種類を変えたばかりだった。副作用のせん妄状態で倒れて、頭の打ち所がたまたま悪かった。椅子に乗って壁時計の電池を替えようとしていたんだろう。後で思えば様子がおかしかったんだ。ぼうとすることが増えていた。早く気づいてやればよかったのに。薬のことは俺が気付けたはずなんだ。ひとりっきりで死なせてしまった。気付いてやれなかった俺が悪かった」

 タカさんの目が暗く沈んでいく。ただ昔の記憶だけを反芻する壊れたフィルムカメラを思った。

「マサヤはね、俺たちが住んでいる、あのマンションの部屋で死んだんだ」

「もしかしたらそうだろうって思いました。事故物件って噂もあったし。マサヤさんの名前を聞いてから、いろいろ考えました」

 僕の言葉に、タカさんは長い息をついた。

「一度は引っ越したんだ。でも、あの部屋が事故物件との噂が広がってしまってね。なかなか借り手が現れなくなってしまった。もともと知り合いから借りていた部屋だったので、申し訳ない思いもあったし、何よりマサヤが寂しがるだろうと思ったよ。おかしな考えかもしれないが、あのマンションの部屋には、まだマサヤが住んでいるような気がするんだ」

 タカさんの言葉に、底知れない感覚が襲った。

 ユウキの言っていた事故物件の噂は本当だったのだ。霊現象については眉唾だが、そんなものよりもっと暗いものを感じた。タカさんが抱いているマサヤさんへの後悔が、僕らのルームシェア生活をつなぎ止めている。当然事情を知っているだろうリリコさんが、どういうつもりで一緒に暮らしているのかはわからない。

 沈黙が重く、雨の景色が滲んだ。

「気持ち悪いだろう? 一平があの部屋を出て行くなら、それも仕方がない。言い出せないでいた俺が悪いんだ」

「出て行きません」

 タカさんの手を取り、ぎゅっと握り締めていた。他にどうすることもできなかった。濡れた自分の身体が火照ってている。

 延々と降りそそぐ細く白い軌跡。足元を静かに波立たせる雨粒。町を行き交い始めた人々の雑踏。タカさんが、僕の手を握り返すのを感じた。

 その手のぬくもり。濡れて、冷えた身体は真夏の雨を受けたようにじっとりと体温を高めていく。タカさんのお店の名前と同じだった。ちむどんどん。一年前、あの雨の日に高鳴った胸は、ずっと収まることはなかった。もしタカさんが恋人の死を受け入れられずに、現実を見ることを止めてしまっているのだとしたら、僕も同じように、タカさん以外、見ることを止めてしまっていた。

 このまま雨が止まなければいいのに……。つないだ手を離したくなかった。こうして握り返してくれている手の意味を必死になって考え、甘い妄想にすがりついた。

 もう少しだけ、雨が止みませんように。

 はじめて会ったあの雨の日から、僕はずっとタカさんに恋をしている。


第8話 完

第9話「虹を見にいこう」へ続く(来週月曜、18:00頃公開)

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虹を見にいこう 第8話「雨宿りの時間」 なか @nakaba995

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