Chap.8-2
人生の転機となったその日。僕がタカさんと初めて会ったのも、土砂降りの雨の日だった。その頃、僕はまだゲイである自分をいさぎよく受け入れられず、人生にくすぶっていた。同性が好きであることを自覚しているのに、一歩先に踏み出せない。本音を話せる友達もいない。会社の同期や学生時代の友人にカミングアウトをする勇気もない。拒絶されたらどうしようという思いでいっぱいだった。
仕事をしていても、家でひとりレンタルビデオを見ていても、夜寝る前のふとした時間、風呂で頭を洗っている時、トイレの便座に座っている時、気づくとため息ばかりが出て、冴えない曇り空のような毎日だった。
「あの時、一平は二丁目で何をしてたんだい?」
「えっと、説明するのはムズカシイというか……チャレンジですかね」
「チャレンジ?」
何とか絞り出した言葉だったが、タカさんから頓狂な声が返って来てしまう。
仕事が上手くいかない日や、周囲に結婚はまだかと急かされたり、休日出勤に疲れて帰ってきた夜。自分の人生の底に横たわっている漠然とした不安に呑まれてしまいそうに感じることがあった。この先、好きになった
夜には世界最大のゲイタウンとなる新宿二丁目も、昼の時間は一般的なビジネス街とそう印象は変わらない。今考えると、ゲイバーも開店していない昼間の二丁目をおそるおそる歩きまわって、何がしたかったのか。ときおりテナントビルから出てくる人たちにビクビクとしながら、何に出くわすと思っていたのか。意味不明な行動だったけれど、二丁目を歩くという行為は、ゲイとして自覚しながら一歩を踏み出せないでいた僕にとって、何とか自分を変えたいという気持ちの現れだったと思う。
その日も得意先の納品をミスして、お客さんは笑って許してくれたが、上司にこっぴどく怒られて、そもそも悪いのは自分だし、愚痴をこぼせるような親しい友人もいなくて、きっとこの先もひとりで生きていくのだし……とふて腐れ、二丁目にふらっとやって来たのだった。
夕方、突然の雨に見舞われ、僕は目にとまった雑居ビルのエントランスに走りこんだ。今ならそのビルがゲイバーのひしめきあう建物だとテナント看板から一目瞭然なのだが、当時はそんなこともわからず、止みそうもない雨と空に目を向けて、すっかり冷えきってしまった身体を抱えて震えていた。
雷鳴とともに「すごい雨だねえ」とその吹きさらしのエントランスへ、僕と同じように駆けこんで来た人がいた。見知らぬ僕に気安く話しかけ、まごまごと黙ってしまった僕に構わず、その人はビルの奥へと消えていった。地元で近所の人に挨拶されたような気安さだった。東京で通りすがりの人と挨拶を交わすなんてほとんどなかったので、新鮮な驚きもあった。二度と会うこともないのだろうが、東京にもそんな人がいるのだと感動していると、しばらくして、後ろから「はい」とタオルを差し出されていた。
「拭いた方がいい。そんなずぶ濡れじゃ風邪をひいてしまうよ」
それが、ゲイバー『ちむどんどん』に出勤して来たタカさんだった。
タカさんは初めから僕のことをゲイだとわかっていたらしい。というか、二丁目のそんなビルの下にいたら、だいたいゲイに決まっている。僕は悟られていることすら気付かずに、誘われるまま「本当はまだ開店時間の前なんだ」と言うタカさんのお店に入れてもらった。
対面式のバーカウンターやずらりと棚に並んだ酒瓶を目にして、この人は店員さんなのだとピンと来た。ただ、そこがゲイバーだとは思わなかった。『ちむどんどん』が想像していたゲイバーと印象が違かったせいもあるし、二丁目と言えど、そういうのはもっとどこか奥まったところに隠れて存在しているように思いこんでいた。
沖縄の古民具をインテリアにした質素で素朴な印象店内で、シーサーの形をしたアカベコが泡盛の酒瓶に並んで頭を揺らしていた。カウンターの端においてある雑誌に。視線が行き着き、ハッとした。半裸の男性が白い歯を見せて、青い海をバックに笑っている。
『この夏、イケメンをゲットするための十八手!』
と見出しの書かれた表紙で、ゲイ雑誌としてネットで見かけたことのあるものだった。
「適当に座っててよ」と言うタカさんに、急に緊張が増し、身体が強張ってしまった。
その日、僕は自分がゲイバーにいるという不思議な感覚に、ずっと身体がふわふわとしていて、地に足がついていない気分だった。
「雨の日はお客さんがあまり来なくてね」とタカさんは言った。でも実はその日、お店は休みの日だったので客が来なくて当然だった。店の棚卸しで出勤して来たタカさんに、偶然が重なって出会ったのだった。ひとつでも何かがすれ違って、そのときタカさんに出会えていなかったら、僕はいまだに人生にくすぶっていたかもしれない。
「またおいで」と言ってくれた次の日には、再び『ちむどんどん』に足が向いていた。タカさんと話をすることで、ひとりで抱えていたものが少しずつ解放されていくように感じた。今まで誰にも言えずにわだかまっていたことを自然と口にできて、僕にのしかかっていた得体の知れない大きな重りがなくなっていった。
タカさんや店に来るお客さん達も親身になって、時には笑い飛ばして僕の話を聞いてくれた。僕も他のお客さんの話を聞く側にまわることもあった。そうやって店に通い始め、お店の常連さんともだんだんと顔なじみになって行き、気がつくと僕はゲイデビューをしていたのだった。ユウキやリリコさんに誘われて、たまには他のゲイバーに行くようになっても、やっぱり『ちむどんどん』は僕にとって特別な店だった。
タカさんから「五人でルームシェア出来る人を探しているんだ。全員ゲイだから気兼ねないと思うんだが。どうだろう?」と言われたのは、お店に通いはじめて三ヶ月ほど経った頃だった。
そのとき住んでいたマンションの更新期限が近づいていて、敷金とか礼金とか東京の煩わしい賃貸制度について愚痴をこぼしていた時だった。まだ出会って間もない僕をよく誘う気になったものだと思う。僕は僕で、開き始めた新しい世界で、何でもやってみようという気になっていた。とにかく二つ返事で、僕はあのマンションへ引っ越した。
「ふーん、その子がタカに目をつけられちゃった新しい被害者ってワケね」
初対面早々にそんなことを言うリリコさんや、イマドキなゲイを全身全霊で生きているユウキ、何を話しかけてもうわの空でゲームを続けるチャビに、雲行きの怪しさはマックス。新入りの僕がヒトクセもフタクセもありそうな同居人たちとなじめるのか、そもそも引っ越してしまった前の人はなんで出て行ったのか……まさか苛められたわけじゃないよね? などと今更で手遅れな心配ばかりしていた。
引っ越したのは、昨年の暮れのことだ。ついこの間のような気もするし、ずいぶん昔のようにも感じる。大人になればなるほど、一年を早く感じるようになるのは、はじめて経験することが少なくなるからだと誰かが言っていた。子供の頃、夏休みを長くキラキラと特別な時間に感じたのは、新しく目にするもの、経験することに溢れていたからだ。
デビューをしてからの僕はいろんな経験を通して、もしかしたら夏休みと同じような時間感覚になっているのかもしれない。もしそうだとしたら、今感じているこの気持ちもしだいに色褪せ、当たり前の景色になっていってしまうのかもしれない。
Chap.8-3へ続く
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