終
風が、優しく室内へと吹き込んでくる。
それほど大きく窓を開けているわけではないが、温かく心地よい風はそっと部屋に忍び入るようにして部屋の空気を動かしていた。
照明を落としても明るく中へと入る光りは、煌々と夜空を照らしてしている満月のものだ。
その光りを元に照らし出される室内は、部屋の主の性格を表すように美しく整えられており、ひどく人目を引いてさいまう。
精緻を極めた数々の家具。密やかに薫る香の匂い。
どれもがこの部屋の主のために置かれた品だという事は、一目瞭然だ。
そんな中を、一人の女は窓辺の側に置かれた椅子に座って、吹かれる風に身を委ねていた。
傍らに設えられた小卓の上には、密やかな香りを放つ琥珀色の酒を入れた瀟洒な造りのガラス瓶が置かれ、その隣には切り子細工のグラスが鎮座している。
外の景色を見つめて酒を楽しむでもなく、ましてや何かをするわけでもないらしく、ただそこに沈黙を身に纏って女は座って目を閉じていた。
不意に、女が瞳を開く。
深紅の珊瑚を砕いて染め上げたかのような朱い瞳が、一瞬ではあるがチラリと部屋の奥へと向けられる。それに呼応したように、部屋の奥、幾重にも重ねられた布の向こう側でまだうら若い女の声が上がった。
「戻りましてございます、
「ご苦労だったな、
硬質な美貌を誇るその顔が、ふわりと柔らかな色を浮かべる。
この城に使える者には決して見る事の出来ぬ微笑みは、誰もが一瞬眼を奪われるには十分な笑みだ。
本来の彼女の姿は、限られた者にしか見せる事がない事は、慧光と呼ばれた女もよく知っている。だからこそ、この敬愛する主に今回の顛末を報告する事を躊躇わせてしまう。
慧光の気配を敏感に読み取り、安全明王は鋭すぎる表情を作り上げ、黙り込んでしまった眷属に先を促した。
「愛染明王様……」
そう言葉を発するが、言葉が喉の奥で絡まってしまった慧光は、その先をどう切り出すべきかと思案にくれる。
そんな慧光の様子に、愛染明王は静かな声で語りかけた。
「人間界で、意外な事が起きたようだな」
「それが……」
「お前らしくもない。躊躇わず、全てを話せ」
「はっ」
そう促してはみても、慧光は躊躇いを隠しきれない雰囲気に、愛染明王は形の良い眉をひそめた。
普段は誰よりも冷静に、そして客観的に物事を判断する慧光だ。
それ故に、愛染明王は彼女を密偵とし、自分の影として側に置いて人界の様子を探らせているのだが、何時もよりも口の重い彼女の態度に不吉な思いを抱いた。
「愛染明王様……」
躊躇いは、数瞬の事。
慧光は意を決したように、淡々と事実を話した。
「人界にて、我等明王一族の王、不動明王様が」
「兄上が!」
「はっ」
「ならば、兄上はもしや」
「ご明察の通りでございます。
人界にて転生なさっておりました」
愛染明王の身体が凍り付く。
驚きと、嬉しさ。そして何よりも絶望を瞳に強く瞬かせ、愛染明王はきつく唇を噛みしめた。
最悪の予測が、愛染妙の頭の中でガンガンと鳴り響く。
それを肯定するかのように、慧光は感情を押し殺して言を紡いだ。
「そして……沙羯羅龍王らと行動を共にし、摩利支天様を殺した由にございます」
「なっ……」
がたり、と愛染明王の座る椅子が悲鳴を上げる。
思わず立ち上がり、愛染明王は事実を頭の中で反芻して噛みしめていた唇を開いた。
「まこと、か……まこと兄上が……」
顔を青ざめ、身を小刻みに揺らしながら、愛染明王は呻くような声を上げる。
否定してほしい、との僅かな願いは、けれども慧光の重い沈黙の前に儚く蹴散らされ、愛染明王の身体は力が抜けたようにふらりと傾いだ。
「愛染明王様!」
布の奥から、慌てて慧光が姿を現す。
短く切り揃えられた黒髪と、黒曜石のような瞳。この世界の女性には珍しく、肩口と膝丈までしかない短い黒い衣に太股までしかない黒い袴を着用しているだけではなく、むき出しの腕と膝から足首にはしっかりと肌を守るように黒い布が巻き付けられており、隠密行動のためだけに動くことを重点に置かれた衣装を纏った女は、そっと主の身体を抱きとめた。
愛染明王よりも二つ、三つ年上にも見える整った造作は、どこか冷たい印象を人に抱かせるが、今はその顔に主の様子を心配する色合いが浮かび上がり、血の気の失った愛染明王の様子を見守る。
「愛染明王様……」
「大丈夫……大丈夫だから……」
己に言い聞かせるかのように呟くが、愛染明王は慧光の腕を強く握りしめる。
滅多に見せない愛染明王の行動は、慧光だからこそ見せる仕草といえる。それは、年が近いということもあり、慧光は彼女の遊び相手に抜擢されていただけではなく、姉のように世話を焼き、時には愛染明王の行動を諫めていた彼女の前だからこその行動といえるだろう。
兄よりも近い位置で、兄にも話せないことを語り、一緒に考えてくれた慧光の存在は、愛染明王にとっては今ではなくてはならない人物だ。
本来は兄、不動明王の眷属である八大童子の一人ではあるが、慧光は自然と愛染明王を主として認めている節があり、兄は苦笑を、他の八大童子からは眉をひそめて慧光の行動を見つめられていた。
「愛染明王様」
「平気、だといったでしょう……」
口調が昔の愛染明王戻っていることに気がつくが、慧光は彼女が落ち着くまでそっとその背中をなで続ける。
やがて、小さく、けれども堅さのとれない笑みを浮かべ、愛染明王は軽く頭を横に振った。
自分自身を落ち着かせるための動作だと分かってはいても、慧光は心配を隠せせずに愛染明王に話しかける。
「お顔の色が悪いです。このままではお倒れになってしまいます。
どうか横になり」
「いいえ」
慧光の言葉を遮り、愛染明王は毅然とした態度に戻ると、そっと慧光の腕から離れて先程まで座っていた椅子へと腰を下ろした。
そっと深く息を吸い込み、愛染明王は慧光の顔をしっかりと見つめて言を紡いだ。
「その様な場合でないでしょう。
兄上が人界において沙羯羅龍王と行動を共にしているとなれば、帝釈天様はすぐにも私をお呼びになるはず。その様な時に伏せっていると知れば、私が人界を偵察していることをすぐにお察しになるでしょう。そうなれば」
「ならば!……ならばすぐにもこの
我等明王一族のため、愛染明王様お一人が犠牲なるなど……せめて我等も共に」
「慧光童子!」
鋭い叱責が、空気を切り裂く。
息を飲み込み、慧光は口をつぐむ。
毅然とした、何者にも染まることのない強い愛染明王の眼光が、慧光を打ち貫いた。
「……申し訳ありません。出すぎた発言でした」
「よい」
幾分か柔らかな口調で慧光の失言を許し、愛染明王はふっと苦笑をこぼした。
それは、この善見城に住まう愛染明王の姿に変わるための動作でもあった。
「ここで、その様なことを言うものではない。いつ何時、誰が聞いているかも分からぬのでな」
「はっ」
「慧光。急ぎ城に戻り、五大明王にその事を告げよ。そして、私の意思もな」
「愛染明王様の意思……」
「そうだ。兄上は死んでいる。故に、人界に現れた不動明王は我等一族の者ではない」
「それは……」
明王一族が生きながらえるためには、それしか道はない。
幾ら闘神が多い一族とはいえ、圧倒的な数を誇る天界軍を前にしては、修羅界同様に滅ぼされるのは確実な事実だ。
だからこその、愛染明王の発言だ。そもそも、愛染明王がこの善見城に帝釈天の愛妾として登城しているのは、明王一族に反意はないという証でもある。
ただ一人で明王一族を守っている立場は、一族に属する者であれば誰でも分かりきったことだろう。
「……それで、よろしいのですね」
静かに頭を垂れてそう告げた慧光の姿を見つめながら、愛染明王は一言一言を区切るようにしてしゃべり出した。
「よいか、兄、不動明王は、我等が王は、あの対戦の折に行方不明になり、亡骸が見つかることはなかったが死亡してしまった。故に、人界に現れた不動明王を名乗る者は語りもの。
よって、その者を立て、戦をすることなど、不動明王の意に反し、我が意にもかなうものではない。現明王一族の長としての意は、戦を是とはせぬ。
故に、くれぐれも早まったことを起こすことのなきよう命ず。
これは歴代当主並びに、不動明王の意思でもある」
「お言葉、確かに承りました」
「無用の流血を、内でも外でも起こすではない。
その様なことになれば、我等明王一族は、修羅界の神族達と同じ道を歩むことになる」
微かながらも、言葉に苦渋が混じっていることを敏感に察知し、慧光は奥歯を噛みしめる。
今の愛染明王、そして、自分がなすべき事は、一族を守り抜くこと。
不動明王の代わりとして。そして、これから先のために。
「行け」
「御意」
ゆっくりと愛染明王の側から離れ、慧光はすっとその場から消え失せる。
それを確認し、愛染明王は耐えるようにクシャリと顔を歪ませた。
「兄上……」
掠れた呟きが、唇を割って出てくる。
次の瞬間、愛染明王はやり場のない感情を迸らせるかのように、小卓を叩きつけた。
ガチャリ、と、ガラス同士が激しくぶつかり合う音が、静かな室内を走り抜ける。
「兄上……何故……」
やり場のない怒りと悲しみ。
兄が生きていたという嬉しさは、完全に潰えていた。
愛染明王の中で渦巻いているのは、負の感情ばかり。
「何故、何故覚醒されたのですか……」
押し出される言葉は、全て呪詛めいた響きを持つものだった。
せめて、普通の人間として生きてくれれば良かったのだ。
そうすれば、少なくとも、明王一族の存続が危ぶまれる因子は少なくてすむものだったのに。
今の明王一族の境遇に不満を抱いている神もいるのだ。それを押さえつけるために、自分はこの善見城に愛妾として帝釈天の側にいることを選び、そして明王一族に叛意がないことを示して、確固たる地盤を気付いてきた。
だが、もしも自分の言葉を聞かず、戦うことを選ぶ神が出てきたらどうなるか。
今まで築き上げてきたことが、全て瓦解する。
「何故……」
愛染明王の瞳から、知らず知らずのうちに光るものが流れ落ちていく。
それを押さえつけるように、愛染明王は顔を覆って奥歯を噛みしめた。
そんな疑問が、愛染明王の中に走り抜ける。
だが、それは何に対しての宿命なのだろう。
全てを巻き込み、その流れに沿わせ、何もかもを破壊しようというのだろうか。
「兄上……」
血の繋がった人物を、自分は今ここで敵と見なす決意をしたのだ。
その事実が、愛染明王の心に血を流させる。
低い嗚咽の音に混ざり合わせるように、愛染明王は兄への思いをそこに溶け込ませる。
それを聞いていたのは、部屋の中へと静かに入り込む風の音と、煌々と光り輝く月の光りだけ。
それを知っているからこそ、愛染明王は噎び泣く。
涙を流すことが出来るのは、今だけだと知っているから。
龍王奇譚 第三章 火炎破邪 10月猫っこ @touko10439
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