第九章


「たっかーしちゃん!」

 背後からかけられた暢気な声に、崇は顔をしかめてそちらに身体を向けた。

 案の定、と言うべきか……。

 ニコニコと笑いながら、めぐみが崇に駆け寄ってくる。

 何時ものルートとは違い、少しばかり遠回りにはなるのだが、あちこちに雑草と緑が豊かに育つ雑木林の中、ゆっくりとした歩調で家路をたどっている崇は、同じようにこちらの道を選んだめぐみの姿に大仰な溜息を吐き出した。

 その姿に、めぐみは軽く首を傾げてみせる。

「どしたの?」

「……お前、その呼び方辞めろって言ってんだろうが」

「でも、崇ちゃんは崇ちゃんじゃん。今までそう呼んでたのに、急にそれを辞めろって言われても無理だから」

 崇の言葉をバッサリと切り捨て、めぐみはけろりとした表情でそう告げた。

 あいも変わらずの返答を聞いてしまい、苦虫を数百匹程まとめて噛み潰したような表情を浮かべた崇は、溜息を飲み込んで眉間に皺を寄せるだけにとどめた。

 この幼なじみに向かって、それこそ耳にタコができるほどにこの件を言っとしても、まさしく馬耳東風と言う風体で右の耳から左の耳へと通り抜けてしまう事を、今更のように崇は思い返したのだ。

 鈍痛が崇を襲うが、それを払いのけるように崇は首を横に振る。

 それにして、もだ。

 人気のなさではここらでも有名な場所を、まだ幼さを残す顔立ちのめぐみが一人で歩くのは危険をはらんだ行為といえるだろう。

 もっとも、そんな物好きがいたとしても、めぐみは自分の力でそんな暴漢を叩きのめすだろうが。

 そんな崇の思考を呼んだのか。めぐみはきょとんと眼を瞬かせた後、朗らかな調子で崇の心配事を打ち消すような発言を口にした。

「大丈夫だよ。この道で何かあったなんて聞かないもん」

「女一人で歩く事の危険性を考えないのか。お前は」

「もしそんな事があっても、返り討ちにするよ。

 崇ちゃんもよく知ってるでしょ。あたしの腕前」

「……あぁ、そうだな。お前を襲う物好きもいないだろうからな」

「何それ。なんか馬鹿にされた気がするんだけど」

 むっとしたように唇を突き出し、めぐみはそう反論する。

 それを軽くあしらった崇だが、ふと今更のように何時もと変わらぬ会話に安堵を覚えている事に気付き、小さく苦笑を口元に刻んだ。

 近頃、自分の中で何かが引っかかったような感覚が心の中で渦巻いている。それだけではなく、不意に思考が沈殿する事が多くなってしまっているのだ。

 先程もそうだ。めぐみに呼びかけられまで、崇は何かを探すように思考を自分の中へと入り込ませていた。

 いったい何なのだと思うのだが、その答えが明確に見つからずに苛立ちすらも覚えてしまう。

 こんな苛立ちは、いったい何時からだったろうかという疑問は、すぐに答えが出てきてしまう。

 あの試合以降だ。

 そう思い返し、崇は小さく吐息をこぼした。

 高橋勇一。彼と相対した時、自分の力を最大限に引き出せると瞬時に感じ取り、その思いの通りに始めて崇は自分の力を全て引き出したのだ。

 今まで押さえつける事が当たり前だったのに、あの時だけは自分の力を解放できると、どこかで嬉しさが生まれてしまった。

 今までにない高揚感と、開放感。

 それに身を任せた結果として、崇は自分の中に生まれた小さな『何か』がトゲのように心を刺し貫き、苛立ちすらをも生まれさせる事になったのだが……。

 とはいえ、あの時の試合で引き出した力に対しては、それほど後悔はしていない。むしろ、それを引き出してくれた勇一に対して感謝すらしている。

 あの試合は、自分が初めて力を押さえつけることなく相手できたのだ。恨むのはむしろ筋違いだという事は、崇自身がよく分かっている事柄なのだから。

「崇ちゃん?」

 不思議そうな声に、崇は慌てて意識を現実に押し上げる。

 覗き込むようにして首を傾げながら見上げているめぐみが、崇の様子に胡乱な視線を隠そうともせずに向けてきた。

「どうしたの?なんかあった?」

「あ?」

「注意力散漫だよ」

「お前……そんな小難しい単語を知ってたのか」

「何それ!地味に酷いよ、それ!」

 わざとはぐらかした答えを口にすれば、案の定めぐみはそう噛み付いてくる。

 とはいえ、それはめぐみ自身も崇の真意を分かっていての事だが。

 近頃の崇の行動のおかしさは、めぐみもよく分かっている。だからこそ、何事もないように振る舞っている崇の事を、誰よりもめぐみは心配しているのだ。それが、この間の試合以降だという事も、めぐみは看破している。

 崇が初めて実力を出せた事を知り、それ故に何かが崇の中で変わってきている事も分かっているめぐみとしては、心配ぐらいはさせろ、と言いたいのだろうが、そんな事を口にするような性格でもないため、あえていつも通りにめぐみも振る舞うしか答えを見いだせずにいるのだ。それが良い事なのか、それとも悪い事なのか、二人にはよく分かってはいないのだが。

 すぐに途切れてしまった会話に居心地の悪さを感じ、めぐみは僅かに張っていた肩の力を抜くように息を吸い込み、それからぽつりとした調子で崇に声をかけた。

「……あんま、無茶しないでよね」

「……あぁ」

 そう答えた崇が、不意に歩みを止める。

 周囲を見回し、崇は何かを探るように眼を細めた。

 感じたのは、肌を刺すようなピリピリとした鋭い空気。

 それが『敵意』ともう一つ、強い感情が渦巻いた気配に、崇は舌打ちを漏らしそうになった。

 いったい何だという考えと同時に、この空気は何時だったか感じ取ったものだと、どこかで警鐘と共に頭の中が点滅を放つ。

「崇ちゃん?」

 急に立ち止まった崇の様子が尋常ではない事に気付き、めぐみは心配そうに崇を見やりながら声をかけた。

 周囲は特に変わった様子はない。だが、そこに流れる空気は、何時もと違って緊迫感を孕んでいるように感じられた。

 ―何だ?

 そう自身に問いかけるが、明確な答えが得られない。

「めぐみ……」

「なに?」

「おかしくないか?」

「崇ちゃんの頭が?」

「あのなぁ!」

 茶化すようにそう言っためぐみだが、真剣な崇の様子にすぐに表情を改めた顔で周囲を見回した。

 確かに、崇が感じたような異常な空気を察知し、めぐみは難しそうな表情を浮かべた。

「なんか、変だけど、別に気にする事ないんじゃないかな……」

 肌を刺すような『何か』をめぐみも感じ取ってしまうが、崇の心配を打ち消すために何時もと変わらぬ口調でそう告げる。

 だが、その『何か』は、崇の頭の中でどんどん大きな音となっていく警告が身体を硬直させるのに十分すぎた。

 と同時に、崇の身体の内側で、小さな、けれども、無視できない力が渦を巻く。

 ―なんだ?

 危機感に煽られるように、何時もは蓋をしていた力が体中をみなぎる。それが良いのか悪いのかの判断が下せず、崇は奥歯を噛みしめながら周辺を見回した。

「崇ちゃん?」

 心配そうに自分を見上げるめぐみの表情が眼に入り、崇はようやく我に返り緩く首を振った。

「大丈夫?」

「あぁ」

「お願いだから、ボケないでね」

「……ぶち殺すぞ、終いには」

 気にかけてくれるのは非常にありがたいのだが、余計な一言さえなければめぐみの行動は崇にとってはありがたいという言葉が浮かび上がるだろう。

 お隣同士。それこそ物心ついた時から、側にいて崇の後をくっついて回る二つ年下の少女の口の悪さは、崇としては骨身にしみて知っているはずなのだが、こんな場合に口に出されると腹も立つのだ。

 めぐみの外見は、黙って立っていればと断定がつくが、美少女の部類に入るだろう。けれども、口を開けば余りにも素晴らしい毒舌と、敵対する他人の神経を逆なですることを得意とする性格は、共に時間を過ごしてきた崇であっても時としてめぐみのその口を塞いでしまいたいと思う事がある。

「あれ?怒った?」

「怒らん人間がいたら、是非ともお目にかかりたいもんだがな」

「やっだなー、人間できてないよ、崇ちゃん。もっと大きな器と広い心を持たなきゃ。

 えっと、大器晩成、だっけ?」

「……お前、意味分かってねぇだろ」

「そんな事ありませんよーだ」

 ニコニコと無邪気に笑っていためぐみだが、ふと瞬きを繰り返して何もない空間を見つめた。

 同じように崇もそちらに視線を向けるが、これと言って不審な様子もなく雑木林の木々の間を気持ちの良い日差しが降り注いでいるだけだ。

「どうした?」

「んー。何かいたような気がしたんだけど、気のせいかな?」

 自分を納得させるようにそう言を綴っためぐみではあるが、それでも何かが気になるのか眉間に皺を寄せてキョロキョロと落ち着き無く辺りを見回した。

 その様子に、崇もまた緊張感を持ちながら周囲に視線を走らせる。

 おかしな所で聡いめぐみだ。その直感が外れた事はあまりなく、むしろ悪い方向での感が外れた試しはない。

 そのためだろうか。林の奥で何かが揺らめいた気配を感じ取り、崇はその正体を探るように硬い表情でそちらを見つめる。

「めぐみ」

「なぁに?」

「お前は後から来い」

「へ?」

 間の抜けた声を上げためぐみをその場に残し、崇は足早に先程感じた正体を確かめるべく早い歩調でその場を後にした。

 残されためぐみはきょとんとその場に佇んでいたが、慌てたように小走りに近い早さで崇の背中を追いかけはじめた。



 木々に止まる鳥たちは林の中を長閑で楽しげな囀りを繰り返す。だが、不穏な空気を感じ取り、鳥達はその場からすぐさま逃げるように羽ばたきその姿を消してしまう。

 何もいなくなった空間が、突如歪みを生じる。

「っと」

 つんのめるようにしながらも、何とかその場に踏みとどまる事ができた勇一だが、同じように空間を跳躍したというのに、自分と違いしっかりと大地に降り立った忍と阿修羅の姿に、むっとしたような表情を浮かべる。

 阿修羅に伴われるようにしてその場に現れた那美といえば、些か茫然としたようではあったが、すぐに自分に何が起きたのかを理解したらしく、小さな吐息を吐き出していた。

 その様子に、勇一は安堵のために一瞬肩の力を抜く。

 それでも心配は拭えず、勇一は確認するように言葉を放った。

「大丈夫か?」

「うん」

「須田は?」

「平気です」

 そう告げた忍が、忌ま忌ましさを隠そうともせずに吐き捨てた。

「不意打ち、でしたね」

「奴らしいといえば奴らしいがな」

 同じように、阿修羅も嫌悪を隠そうともせずにそう口にする。

 阿修羅と忍の言葉に、勇一もまた同意するように唇を引き結んだ。

 本来の姿を現し、その神力を使って自分達を攪乱しようとしたのだろう。確かに、摩利支天の陽炎は厄介としかいえない。己の姿や殺気を周囲に溶け込ませて襲いかかってくるのだから、現れた瞬間に切りつけなければ、すぐさまその姿を隠すだろう。

「厄介だな」

「だが、奴の神力を過大評価する必要もなかろう」

「どういうことです?」

「本来の神力とはいえ、この世界ではある程度の制約は受ける事になる。

 もっとも、奴はそれを考えてはいないだろうがな」

「自分の実力を、過信してるって事か?」

「そういうことだ」

 確かに、摩利支天の神力は脅威とはいえ、この人間界でそれを十全に発揮できているかと言えば疑問を浮かべざる得ないだろう。

 だが、摩利支天が自分の神力を出し切っているのだと勘違いしているのならば、勝機はこちらにあるといっても良い。

 とはいえ、陽炎を使って姿を消されているとなれば、まだまだこちらから手出しする事は難しいのだが。

 苦々しさを込めた吐息をついた時だ。

「そこにいるのは、高橋か?」

 突如降って湧いたような声に、勇一達は慌ててそちらへと顔を向けた。

 低い木々を搔き分けて現れた崇の姿に、勇一は言葉に詰まりながらチラリと阿修羅の顔を見やる。

 きつい目線で崇を出迎えた阿修羅に頓着せず、崇は勇一と忍が手にする太刀の姿に目を見張る。日の光を弾く刀身は、それが真剣だという事をはっきりと示しており、何故そんな物騒な代物を手にしているのだ、と、崇の目線は如実に語っていた。

 四人の視線に晒されながらも、崇は驚きを隠しもせずにその場に立ち尽くす。

 勇一達としては、何故ここに崇がいるのかが分からない。むしろ、人気のないはずの場所に移動したはずなのだが、まさかここで崇に出会うとは全く思っていなかった事だ。

 それは崇も同じ事と言える。何故勇一達がここにいるのかという疑問はつきない事でもあるし、手にしている刃の鋭さに射すくめられたかのように、崇はその場に佇んでしまっていた。

「ねぇ、崇ちゃん!どこにいるの!」

 聞こえてきためぐみの声に、崇ははっと数度眼を瞬かせ、呪縛から解き放たれたかのように、軽く息を吐き出して仕方なさそうにめぐみを呼んだ。

「こっちだ」

「どしたの?いったい」

 崇の後を追いかけてきためぐみが、ひょっこりと崇の背後から現れて驚いたように眼を見開いた。

 何故ここに勇一達がいるのか分からないのは崇と同様だ。そのために、めぐみは疑問を詰め込んだ声を放った。

「どうして先輩達がここにいるんですか?

 先輩達の家って、こっち方面じゃないですよね?」

 当然のそれに、勇一達は答えを返す事が出来ずに視線を交わす。

 人気のない場所を選んだはずが、まさか崇達がここにいるとは思わなかったというのが正直な感想と共に、何故彼らがこの場に現れたのかが分からない。

「えっと……」

 困ったように那美がどうすべきか迷いながら宙に視線を向けた後、明らかに無理矢理それを反らす意思が見え見えの態度でめぐみへと声をかけた。

「瀬尾野さん達の家って、この辺なの?」

「この辺って言えばこの辺ですね。

 まぁ、この道通った方が少し早いんで、何時も通ってるんですけど」

 自分の質問に答えを返していないにも関わらず、あっさりと那美の言葉を切り返し、めぐみは首を傾ける事をやめずにじっと勇一達を見つめている。

 手にしている真剣には目もくれず、めぐみはただただひたすら不思議そうな視線を送りつけており、勇一達はたじろぎながらもどうしたものかと思案にくれた。

 だがやがて、考える事を放棄したように、崇が勇一に話しかける。

「高橋、この間の試合、面白かったぜ」

「あ?」

「そういえば、崇ちゃん、珍しく本気になってたもんね」

 屈託なくそういっためぐみにつられたように、崇は僅かに苦笑を口の端に刻みつけた。

 ふと、勇一はここに現れた崇達の事を思い返す。

 ―こいつら、気配がなかったな。

 あれほど近づかれたというのに、勇一だけではなく阿修羅や忍もその気配を感じ取れなかったのだ。

 敵なのか、味方なのか……。

 疑問が膨れ上がり、勇一は固い声で言葉を紡ぐ。

「あのよ、日野」

「崇でいいぜ。こいつみたいに『ちゃん』付けはなしでな」

 軽く頭を小突かれ、めぐみはぷっと頬を膨らませて崇を見上げた。

「だって、崇ちゃんは崇ちゃんじゃん。なんでぶたれなきゃならないかな?」

「軽く触れただけだろうが」

「そうやって、すーぐ何でもないみたいに言うんだから」

「わぁったわぁった」

 ほとんど掛け合い漫才に近い会話に、那美はあっけにとられたように二人を見つめてしまう。同様に、勇一の好敵手と見なしてもかまわない崇の言動に、驚きを隠しもせずに忍も崇達を眺めてしまう。

 だが、阿修羅だけは二人の姿を、射るような鋭い目線を向け、チラリと勇一に視線を送りつけた。

 この二人をこの場から離れさせなければ、と言う意味を読み取り、勇一は難しげに小さく息を吸い込む。

 早々にこの場から離さなければならないのはよく分かっている。だが、どうやってこの二人をこの場から退場させるべきか、その方法が見つからない。

 どうしたものか、と考えていた勇一の背に、瞬間的に冷たいものが押しつけられた。

「来た……」

 忍の呟きが、嫌に大きく聞こえる。

 逃げられた事が、よほど神経を逆なでしたのだろう。殺気を隠そうともせず、この場に近づく気配に勇一はチラリと阿修羅と忍を見やった。

「どうします?」

 この場合、忍の疑問は、当然の事と言える。

 この場にいる崇やめぐみは、明らかな部外者であり、たとえ何らかの力を持っていたとしても、身を守る術はないと言っても良いだろう。それに加え、二人を巻き込むのは勇一達としては本意ではない。だからこそ、対処の仕方に困り、視線を見合わせてしまう。

 どうやってここから退場してもらうべきか。そう考える勇一達の耳に、あっさりとした答えを阿修羅は口にした。

「この際だ。そこの二人にも付き合ってもらうしかなかろうよ」

「おい阿修羅……」

「いいんですか?」

 勇一と忍が揃って抗議の声を上げる。だが、それを綺麗に無視し、阿修羅はチラリと崇とめぐみの姿を見やった。

 二人の無言の抗議に頓着せず、阿修羅は那美の背中を軽く押す。

 それだけで阿修羅の意思を察したのだろう。那美は幾分か困ったように眉間に皺を寄せた後、チラリとめぐみに視線を向ける。

 阿修羅が警戒していたのは、崇だけだ。阿修羅にとっては、めぐみはあくまでも崇のおまけ程度にしか考えていないのは、勇一達の抱いた共通の感想だが、それはどうやら確定事項に近い事のはず。

 小さな溜息を吐き出し、那美はめぐみ近づいてその手を取り、安全な場所を探すように視線を巡らせた後、少しばかり木々が開けた場を見つけてそちらに向かって足早に歩き出した。

 少々強引だが、何かがあってからでは遅すぎるのだ。説明をしようにも、上手い言い逃れが出来ずにいる那美に向かって、めぐみは問いかけを話そうとするが、ぴくりと何かの気配を感じ取ったらしく、不安げに崇達に視線を向けた。

 二人の背中を守るように、阿修羅もその後に続く。

 低い灌木の影に隠れ、阿修羅は手慣れた動作で印を結ぶ。その姿を不思議そうに眺めるめぐみだが、淡い光が自分達を包み込んでいる事に気づくと、さらなる驚きに見舞われて自分の周囲を見回した。

 何が何だか分からない、という表情をみせつけ、阿修羅と那美に説明を求めるように口ぶるを開きかけためぐみだが、近づく憎悪の気配にぶるりと身体を震わせて崇達に視線を向けた。

 その姿をチラリと眺め、勇一は崇に警告の言葉を書ける。

「日野、お前も逃げた方がいいぞ」

「は?」

 間の抜けた声を漏らした後のことだ。崇は無意識のうちにその場から逃げるように、背後に向かって飛んでいた。

 瞬間、今まで崇がいた位置に火柱が上がる。

「なっ!」

 驚きと同時に、崇の顔に驚愕が張り付いた。

 何が起きたのか、それすらもが崇の理解の範疇を超えた事柄だった。

 現れた炎は、瞬く間に人体を死へと誘う威力を秘めているという事は、見た瞬間に理解させられてしまう。それ故に、崇の頭はパニックに陥りかけるが、それを押しのけるようにして、冷静な部分がすぐさまこの炎に対しての有効な方策を探しだしはじめた。

「我が炎を避けるとは」

 苛立ちと、ただの人間が自分の神力から逃れた事に対しての怒りが混じり合い、摩利支天から怨嗟に満ちた声が漏れ出る。

 まさか自分の神力を避ける人間がいるとは。いや、この人間界にその様な特殊な者は存在しない。いるとなれば……。

 脳裏で弾けた答えに、摩利支天は断じるような声を放った。

「貴様も邪神の一人か!」

「何訳の分からねぇ事ぬがしやがる!」

 聞こえた声に、崇は反論のために大きな声を張り上げる。

 明確な殺意を感じ取った崇は辺りを見回すが、その姿と気配が全く掴む事が出来ずに苛立たしげに舌を打ち付けた。

 それは、勇一達も同じ事だ。

 明確な位置の特定が出来ず、防御に徹するしかないというのは、少々どころの騒ぎではないほどの苦戦でしかない。なんとか姿を引きずり出さねばという考えはあるのだが、良策が見つからずに防戦一方にまわらざる得ない状況に、舌打ちの一つどころか百は打ち付けたい衝動に駆られる。

 そんな三人の姿と今までの状況が上手く把握できずにいためぐみが、何時もの闊達さを控えめにして、恐る恐るといった調子で自分を守るような形で立つ那美に声をかけた。

「あの、先輩……」

「ん?」

「これって、いったい何なんですか?」

 阿修羅と那美が、一瞬だが視線を交わす。

 どちらが説明したとしても、めぐみが納得できるだけの答えを提示できるとは思えないため、那美は困ったように眉尻を下げてめぐみに視線を向けはするが、唇を数度小さく動かし言葉を濁すように話しかけた。

「話せば、きっとすごく長くなると思うんだけど」

「なら、説明は後でいいです」

 那美の答えに、あっさりとめぐみは白旗を揚げる。

 常人には理解しがたい光景が広がっているのだ。それを説明されたとしても、自分の中で消化できるかどうかをさっさとと見極め、めぐみは自分の中にある疑問だけを素直に提示した。

「特撮の撮影とか、スタントとかじゃなくて……現実、ですよね、これ?」

「そう、なるわね……」

 少々言葉に詰まりながら、那美はめぐみの言葉を肯定する。何とも突飛なめぐみの思考ではあるのだが、そう想像されてもおかしくはないな、と那美は小さく息を吐き出し、表面的には大騒ぎをする風情を見せないめぐみの姿に僅かばかりの安堵すを抱く。

 そんな二人のやり取りを聞きながら、阿修羅は僅かにめぐみの思考に笑みをこぼしてしまった。

 確かに、普通の人間ならばそう結論を下しておもおかしくはない。だが、めぐみはそうではない事を看破しているだけではなく、なおかつ自分が納得できるだけの答えを探そうとしているのだ。

 無論、パニックを起こしたり、ヒステリーを起こしたりという状態におかれてもおかしくはないというのに、この少女は自分の中での落としどころを見つけようとしているのだから、その胆力は普通とは違うという事を示している。

 呻り声を上げかねないめぐみの姿に、ふと阿修羅の中で誰かの姿がかぶるのだが、それは一瞬の事だ。すぐに、阿修羅の意識は勇一達の戦闘行動へと移り去った。

「これが終わったら、ゆっくり説明するわね」

「お願いします」

 那美の言葉に、めぐみは真剣な面持ちで頷く。

 そして、めぐみは心配そうに那美達から崇へと視線を動かした。



 いつの間にか、勇一達三人は背中合わせの陣形を取り、何時でも攻撃に対処できるように全身の神経を研ぎ澄ます。

 そんな三人を嘲笑うように、摩利支天の声が周囲から響き渡った。

「そんな事で、我が攻撃をかわせると思っているのか!」

 圧倒的優位にいるのだと言わんばかりに、摩利支天は傲然とでそう言い放つ。

 そんな中で、何かにいち早く気付いた忍が柄を握りしめて一点を睨み付けた。

「いた……」

 そう呟くと同時に、忍は大地を蹴りつける。

「須田!やめろ!」

 勇一の制止の声すらもが聞こえなかったのか。

 強すぎる殺意の籠もった一撃を、忍は何かを見つけた場所に振るう。が、それは摩利支天の巧妙な陽炎を捕らえただけで、本体である摩利支天には届く事がなかった。

 強く奥歯を噛みしめ、忍はその場から素早く横へと移動する。

 それを見届け、勇一は一瞬だがほっと安堵の息をついた。

 その瞬間、背筋に冷水をかけられたような殺意を感じ取り、勇一は無意識に崇を突き飛ばすのと同時に龍牙刀を頭上に掲げた。

 空間が、歪む。

 それを感じ取り、忍と崇が揃って勇一に視線を向けた。

 空間を切り裂いて現れた摩利支天は、大上段に振りかぶった太刀をまっすぐに勇一の頭上に振り下ろす。

「死ねっ!」

 がきん、と金属同士がぶつかり合う音が響く。と同時に、摩利支天の太刀から炎が吹き上がった。

 熱気が、崇の頬を叩く。

 何が起きたのかは理解できない。だが、その炎の熱さを直に感じ取り、崇の背筋に冷たい死の感触を押しつける。

 もしも突き飛ばされていなければ、あの炎は余波で自分も焼いていたかもしれない。

 その事実に、崇は知らぬ間に喉大きく上下させた。

 助けられたのだという理解は、遅れてやって来るのと同時に、冷たい死の感触が崇の身体に巻き付いた。

「っ……」

 勇一の唇から、小さな呻き声が上がる。

 拮抗した神力が異様な音となって周囲に広がり、それに負けたように木々の枝を軋ませる。

「先輩!」

 忍の声が、引き金となった。

「んのぉっ!」

 身に纏わり付いている全てを振り払うかのよう、裂帛した気合いと共に崇が摩利支天めがけて拳を突き入れる。

 ただの人間と見なし、崇の存在には全く気に留めていなかった摩利支天が、突然の攻撃に半瞬だけ反応が遅らせ、崇の拳をギリギリで交わすだけではなく勇一への攻撃をいったん中止する。

 勇一から距離を取らざる得なかった摩利支天は、思い通りにならない展開に苛立ちを覚え、忌ま忌ましさを隠す事の出来ない呟きを漏らした。

「たかが人間風情が、私を殴ろうとするなど……」

 下等な存在と見下していたものが、高貴な存在である神に向かって襲いかかってくるなどとは、摩利支天の誇りを著しく傷つけるのは十分すぎる。

 憎悪は、憤怒をさらに燃え上がらせるには十分すぎるもの。それ故に、摩利支天は自分に不当な行動を示した崇を、射殺さんばかりに睨み付けた。

 摩利支天が欲しいのは、勇一達の首だ。その邪魔をするなど、たとえどのような者であろうとも、許されるはずはない。

 その思考が、摩利支天の攻撃の対象を一時だけ変えさせた。

「人間風情がー!」

 激情を隠す事もなく叫んだ摩利支天は、その手に握る太刀の先を崇に向けると、己の分身とも言える炎を走らせる。

 だが、それは始めから読まれでいたかのように、崇は軽やかな足取りでその場から離れて悠々と炎から距離を取る。空しくも、まっすぐに立ち上る炎の柱は、崇に傷を負わす事も出来ずに、ただ燃えさかるだけに終わってしまう。

 この光景に瞠目したのは、摩利支天だけではない。

 勇一も、忍も、そして阿修羅でさえも、この事態は、全く予想すら出来なかったのだ。誰も予想できなかったその光景に、眼を見開く以外の術を見いだす事が出来ない。

 余りと言えば余りの現実に、一瞬だが戦場の空気が凍り付く。

「っ……」

 一撃で殺せるはずの人間が、今だ生きている。

 その事実に、摩利支天は後頭部をしたたか殴られたように動きを止め、血が滲むほどの力で唇を噛みしめた。

 こんな事になろうとは、予想だにしなかった。

 人間として産まれた邪神など、赤子の首を捻るほど簡単にその首を落とせるものという慢心が、ここに来て摩利支天の足下を掬ったと言うべきなのだろう。

 それを何とか受け入れると、摩利支天は場を仕切り直すために神力をその身体に纏わせる。

 またしても姿も気配もなくした摩利支天に、勇一達は慎重に周囲を伺った。

 この場から引いたわけではない。むしろ、先程よりも殺意の波動が強まり、この場を圧迫するような気配が漂っている。

 それは、結界内にいる那美達にも伝わってきた。

「阿修羅……」

 不安を隠しきれず、思わず那美は阿修羅の名を呼んでその顔を見つめる。

 厳しさの満ちた阿修羅の瞳に、那美は僅かに息を飲み込み勇一達へと視線を戻した。

 緊張の糸が、勇一達を支配する。

 その様子を眺めているめぐみが、ふと何かに感づいたように眼を細めた。

「あれ?」

 気のせい、というわけではないだろう。めぐみの眼には、確かにそれが映し出されたのだから。

 空気が、ゆらりと揺らめく。その中に、剣を振り上げた人影がめぐみにははっきりと見えた。

 それと認めた瞬間、めぐみは崇に向けて大声を放っていた。

「崇ちゃん!後ろ!」

 切り裂くような声に反応し、崇は瞬時にそちらに振り向く。

 現れた摩利支天は、舌打ちせんばかりの表情を浮かべて実体化するや、頭上に掲げた剣を止めて改めて間合いを取るように後ろに下がった。

「お前……」

 驚いたように、阿修羅と那美は振り返ってめぐみを見つめる。

 自分達といつの間にか行動を共にしている那美ならば、阿修羅としてもまだ納得するだけの理由は見つけられるのだ。

 だが、めぐみは違う。

 少なくとも、めぐみは普通の人間として暮らしてきた存在なのだから、摩利支天の出現地点を正確に見極める事は出来ないはずだ。にもかかわらず、めぐみはその地点を見極めて、崇に警告の声を発した。

 阿修羅の眼が、探るようにしてめぐみを見つめる。

 崇がただ者ではない事は、この林に現れてから確定した。ならばめぐみもまた、普通とは違う存在ではないだろうか。

 そんな阿修羅の心境を知らず、めぐみは不安げに拳を握りしめてた。

「崇ちゃん……」

 小さな呟きが、めぐみの唇から転がり出る。

 人間相手ならば、崇が後れを取る事はない。だが、この異常な事態では、崇の本来の力を発揮できるかどうか分からない。

 何も出来ない自分の歯がゆさに、めぐみは唇を引き結んだ。

 同じように、唇を引き結んだ者もいる。だが、こちらは憎しみと、怒りに燃えさかった感情を押し出すためだ。

「たかが羽虫にも劣る存在が……」

 食いしばった口唇から、呻くような声が漏れ出る。

 太刀の柄を握る掌が、いつの間にか真っ白になっている事にも気付かず、摩利支天は激情を抑えきれずに崇へと躍りかかった。

「この私と戦おうなど、片腹痛い!せいぜい後悔しながら死ぬが良い!」

「なっ!」

 言葉と同時に、摩利支天の膨れ上がった殺意が崇へと襲いかかる。

 一瞬、崇の動きが止まる。そしてそれは、摩利支天にとっては絶好の好機となり、殺戮のための刃を振るうのには十分な時間となった。

「崇ちゃん!」

 めぐみの叫びと同時に、崇の足下から炎が吹き上がる。

 骨すらも残さぬような熱風が、結界内にいるめぐみにも吹き付けられる。その瞬間、弾かれたようにめぐみは走り出すために爪先に力を入れた。

 だが、それをいち早く止めたのは、那美の手だ。

「離して!」

 しっかりと腕を握りしめられためぐみは血走った瞳で那美を見上げると、凄まじく乱暴な動作でそれを振り払い、そのままの勢いで走り出そうとする。

 だが、その行動はすぐに阿修羅の結界に阻まれてしまう。見えない壁を造ったのが誰かすぐに分かったのか、めぐみはまっすぐに阿修羅に眼を向けると、焦りと怒りの混じり合った怒鳴り声を上げた。

「出して!」

「出た所でどうなる!殺されるつもりか!」

「それでも、ここにいるよりはいい!」

 恐れ気もなくそう言い切り、めぐみは阿修羅の険しすぎる眼光に怖じる事なくそれを見返す。

 そんな阿修羅とめぐみの会話が聞こえたのだろう。揶揄の溶け合った声を摩利支天は上げた。

「愚か者が」

 その言葉と、口の端に嘲笑を浮かべた摩利支天を、その場にいた者達は睨み付ける。

「人間ごときが神にたてついたのだ。この結果は当然の事だ。

 見てみるが良い。奴の身体、骨も残らず焼き尽くされたわ」

 残忍な笑みを浮かべ、摩利支天は今だ炎が吹き上がる場所に視線を向けた。

 その様に、めぐみが拳を握りしめて摩利支天へと吠えるような勢いで声を張り上げた。

「ふざけないで!何が神様よ!こんな……こんな事しておいて、神様なんてほざかないでよ!」

 握りしめた拳が白くなり、めぐみは恐れ気もなくそう断じる。

 その言葉に、摩利支天は忌々しげにめぐみの顔を見やり、小さく舌を打ち付けた。

 阿修羅の結界がなければ、摩利支天はそんな暴言を吐いためぐみを殺していたのは明白な事柄だ。

 だが、強固な結界に攻撃はきかないと知っているため、摩利支天は睨み付けるような視線を向けるが、怒りに満ちためぐみの視線と交差する。

「小娘、その言葉に後で後悔する事になるぞ」

「おい……」

 摩利支天の吐き捨てるような口調に、勇一は押し出すような殺気を放つ。

 そんな勇一の姿に、残忍な笑みを浮かべて摩利支天は勇一に剣先を向けた。

「その前に、貴様を排除しなければな」

「てめぇ……」

「沙羯羅龍王、貴様達を殺せば、私は天界に堂々と帰れる。

 さぁ、我が炎で死ぬが良い!」

 龍牙刀を握りしめ、勇一は摩利支天との間合いを測るが、摩利支天が操る炎の前ではそれは無意味な行動だ。

 挑発的な摩利支天の表情を認め、勇一は歯を食いしばる。

 どうすれば、摩利支天の攻撃を避けられるのか。予測すら立てられない攻撃に向け、勇一はきつく摩利支天を見つめるしかない自身の様子に、何時でもそれを避けれように握る龍牙刀に神力をため込んだ。

 だが、それは摩利支天の炎の中から力強い言葉が上聞こえたために、驚きの表情を浮かべて誰もがそちらを見つめる。

「愚か者は、お前の方だ!貴様程度の神力で俺を殺そうなど、数百年早いとしれ!摩利支天!」

 全ての視線が、そちらに集中する。

 紅蓮の炎が、いつの間にか純白の炎と変化する。その様に、摩利支天の瞳が大きく開かれた。

 自分の神力が打ち消されていく様子に、摩利支天の唇が小さく開閉される。まさか、という思いと、そんなはずはない、という自身の神力が否定される事実を受け入れる事が出来ず、摩利支天は炎の中心を凝視する。

「あ……」

 驚きと安堵、そして嬉しさの籠もった声が、めぐみの口をつく。と同時に、へなへなと足下から力が抜け落ち、めぐみはその場に座り込んだ。

「崇ちゃん……」

 その言葉と同時に、ボロボロとめぐみの瞳から涙が流れ落ちていく。

 崇の無事な姿を認め、勇一達は事実を受け止めるだけで精一杯の心情を押しのけ、小さく息を吸い込んで吐き出した。

「まさか……」

「いったい誰に牙をむいたか、分かっているのか、摩利支天」

 冷ややかな口調で、炎の中から現れた崇はそう問いかける。

 声と同世の色合いを摩利支天に向ける瞳の色は、炎のような紅蓮を集めた緋色だ。

 摩利支天の額から一筋の汗が伝い落ち、伝わる神力がいったい誰あったかを思い起こさせ、無意識のうちに言葉を紡ぎ出していた。

「そんなまさか……貴様、いや、あなた様は」

「貴様ごときが、刃を向ける相手を間違えたな。この程度の炎で、我を殺せるとでも思ったか」

「そんなはずはない!あなたは死んだはずだ!」

「あいにくと、生きているんだがな」

 引きつるような摩利支天の言葉を、崇は一刀両断で切り捨てる。

 同時に、崇の右手に摩利支天の炎とは桁違いの火炎が集い始める。それを握りしめた瞬間、崇の掌に一振りの太刀が顕現された。

「マジかよ……」

 その正体を知った勇一の唇から、呆けたような声が漏れ出る。

 放たれる神力。握りしめられた太刀。そして瞳の色。それがいったい何者であるのか、勇一達は一瞬にして理解させられたのだ。

 あの太刀を握る神は……。

「死ぬのは、貴様の方だったな」

「待て!私を殺せば、あなたの一族は」

おれは死んだ事になっているのだろう?

 そんな事は些末事項としか言い様がない」

 慌てふためき、摩利支天の顔は真っ青に変わる。

 そんなはずはない。そう雄弁に語る摩利支天の表情を嘲笑を浮かべ崇は見つめながら、太刀を大上段に構えて一切の迷いもなくそれを振り下ろした。

 摩利支天とは桁違いの神力と共に、燃えさかる炎が摩利支天の身体を包み込む。

 大きく眼を見開いた摩利支天の頭には、一人の男性の姿が描き出される。

 あの人に、認めてもらいたかった。だからこそ、自分は人界へと降り立って、沙羯羅龍王を殺そうとしたのに、それすらも叶わないだけではなく、目覚めさせてはいけない者を覚醒させてしまった。

 こんなはずではなかった。その色が、摩利支天の瞳の中に灯るが、すぐに自分以上の神力を持った炎の中に溶けてしまう。

 悲鳴も上げる事もなく、摩利支天の身体は紅蓮の炎の中でのたうち回る事すらも出来ずに、ゆっくりとした時間の中で形を無くしてしまう。

 その様子と崇の放つ気に、正体が誰であったのか勇一達の記憶の底から名前が浮かび上がった。

「……不動明王、だったのかよ」

 押し出すように、勇一が呟いた。

 天界にいながらも帝釈天の考えに賛同する事に逡巡した一族、明王一族の長の名。

 それが不動明王だ。

 何故ここに、という疑問が湧くが、先程の崇の言動を考えれば、不動明王は天界の何者かの命によって殺されたという事になる。

 だが、崇がこちらの味方であるという保証はない。むしろ、摩利支天のように自分達の首を帝釈天に差し出す可能性もあるのだ。

 僅かな動きすらも見逃さず、勇一は崇の姿を見つめる。

「馬鹿が……」

 言葉通りに、崇の表情は小馬鹿にしたような笑みが浮かんでいる。風に流されていく灰を見送り、崇は茫然と立ち尽くす勇一達に身体を向けた。

 少しばかり困ったような笑みを口の端に刻み、崇はどう説明したものかというように首を傾けた。

 だがそれは、聞こえてきた声にそちらに視線を転じる行動へと変わった。

「崇ちゃん!」

 阿修羅の結界がほどけたのを確認し、めぐみは崇に駆け寄ると心配そうにその身体を隅々まで見つめた。

「ねぇ、大丈夫?ほんとに平気?」

「当たり前だろ」

「どこにも怪我ないよね?無事、なんだよね」

「あぁ」

 涙のあとを隠す事も出来ず、ほっとしたように肩の力を抜いためぐみの頭を、崇はクシャリと撫で付け不敵な笑みを浮かべてみせる。

 それをくすっぐったように受け止め、めぐみは何かに気付いたように崇の顔を見つめると、恐る恐るといった口調で崇に疑問を投げつけた。

「崇ちゃん」

「何だ?」

「眼、どうしたの?高橋先輩達の眼の色も違ってるけど」

 その言葉に、崇だけではなく勇一達もどう説明したものかと考え込む。

 じっと視線を固定させためぐみの姿に、崇は言葉を探しながら逆に問いかけた。

「……怖いか?」

 きょとんと、めぐみは眼を瞬かせるが、すぐに崇に向けて屈託のない笑顔を見せた。

「綺麗だもん。なんで怖がんなきゃいけないの?」

 あっさりとそう断言し、めぐみは崇の背後に立つ勇一達の姿にも視線を送る。

 瞳の色が変わり、自在に太刀を顕現させ、そして異様な神力を振るっている。にも関わらず、めぐみは崇達を恐れる事なく自然なまでに受け入れているのだ。

 めぐみの行動に、勇一達は何とも言いがたい表情を浮かべてしまう。恐怖で自分達を受けいれないと考えていたが、どうやらめぐみはこの異常事態をあっさりと自分の中で納得した答えを持ったのだろう。何ともありがたい事なのだが、それでも平然と現実を受け入れるその胆力に、どうにもやりにくさを覚えてしまうのは仕方のない事だろう。

 勇一達とめぐみの態度に、不意に崇はおかしそうに笑い出した。

「ありがとよ」

 コトリ、と、めぐみは首を傾ける。

 本人としては、極々当然の事を言ったという意識しかないのだろう。感謝される覚えはないと表情が語っているが、そんなめぐみの頭を崇は再び軽く撫で付けた。

「しっかし、せっかく人間を楽しんで暮らしてたっつぅのに、沙羯羅龍王達のおかげで覚醒しちまったな」

 どこか苦笑を滲ませた声音に、勇一達はきつい目線で崇を見つめる。

 臨戦態勢の気配を漂わせ、勇一はきつい口調で崇へと声を放った。

「何でお前がここにいるんだ。あの時の戦には無関係だったお前が」

「あのなぁ、どうして俺が帝釈天の犬にならなきゃならねぇんだよ。阿呆らしい」

「お前……」

 本心からの言葉だというのは、崇の雰囲気からも察する事が出来る。だが、天界の住人である明王一族の長が、余りにもあっけらかんとそう発言したとしても、そう簡単に信じる事は出来ない。

 勇一達の臨戦態勢を眺めながら、崇は当然のように言を綴る。

「ここにいる理由を言ってなかったな。

 簡単な事だ。どこぞの刺客に襲われた時、たまたま大冥道に通じる穴を見つけてな。そいつらから逃げ延びるために、俺はその穴をくぐり抜けた」

 種明かしとしては、信じるに足る話しというわけではない。だが、明王一族が天界にとっては脅威となる存在ということは、勇一達もよく知っている事柄だ。

 言葉に詰まった勇一達に代わり、感情をそぎ落とした静かな声が崇に向けて放たれた。

「それでお主はどうするつもりだ?」

 勇一と忍が、冷ややかで突き刺すような眼をで崇を見やる阿修羅へと視線を転じる。

 二人にしても、崇の言葉を簡単に信じる事が出来ず、どう対処していいのかがまるで分かっていない。だからこそ、阿修羅の問いかけにどう答えるのか崇の顔を見つめた。

「たとえ防衛のためとはいえ、摩利支天は天界の神だ。その神を斬った。そうなれば、我等に関わったとみられても仕方のない事になる。

 もはや、今までのように高みの見物とはいえないぞ」

「そうか、そうなるな。

 さて、どうしようか」

 おかしさを隠しきれない崇の声に、めぐみは心配そうに崇と阿修羅の顔を交互に転じていたが、くいっと崇の袖を引っ張って意識を自分へ持ってくるように仕向けた。

 どうするのか、とめぐみの瞳は雄弁に語っている。

 答えによっては、崇が勇一達と戦う事は分かりきっている。そんな事になれば、三対一だ。崇が不利になってしまうだろし、この場では自分が足を引っ張るだけの存在でしかないのは、嫌になるほど理解できてしまう。

 きゅっと、めぐみは唇を引き締めながら、強い意志を込めた瞳で阿修羅や勇一達を睨み付けた。

 めぐみとしては、足手まといでしかないが、喧嘩慣れしてるのだから多少の力にはなれるだろう。

 それを読み取ったらしく、崇はめぐみの頭を軽く叩きつけた。

「崇ちゃん?」

 心配するな。

 崇はそう表情で語るが、めぐみの心配をはらすだけの力にはなる事は出来ず、めぐみの戦闘態勢を解く事は出来なかった。

 そんな空気に、崇は人を食ったような笑みを浮かべてみせる。

「そうだなぁ……」

 暢気な口調が、その場の空気をかき乱すように放たれる。その声を発した崇は、何かを見つめるように頭上に視線を向けた後、苦笑を口の端に浮かべて勇一達に視線を戻した。

 勇一達の硬い顔に、崇は小さな吐息をついた。

「お前らは、邪神と呼ばれる最強の闘神。天界ではお尋ね者。いてはまずい存在なんだろうな。

 その首を帝釈天に持って行けば、今までの事はチャラ。それどころか、英雄扱いは間違いない」

 ざっと勇一と忍が大地を蹴りつけて、剣先を崇に向けつつ何時でもそれを震える体勢を取る。

 だが、それを制するように、阿修羅は二人に視線を走らせた。

 そんな三人の態度に、めぐみは硬く拳を握りしめる。

 どちらかと言えば、崇よりもめぐみの方が警戒心を強く発しており、勇一はその態度にやりにくそうに眉をひそめた。

 そんなめぐみの様子に、崇は諫めるべきか否かを考え込んだらしいが、すぐにそれを消し去り勇一達に意識を戻して軽く肩をすくめて見せる。

「だが、な……」

「だが、何だ?」

 阿修羅の鋭い視線をはねつけるように、崇は不敵な笑顔を浮かべて阿修羅の言葉を鼻先で蹴飛ばした。

「以前は人間などどうでもよかったが、この世界に来て考えを変えた」

「それほど簡単に変わるものか?」

「まぁ、人間として産まれてきたからな。人間もこの世界も、えらく気に入っちまった」

 そう答え、くつりと崇は喉の奥で音をたてる。

「この世界、滅ぼすには惜しい。

 それに、お前らについた方が面白そうだ。戦力不足だろ、お前ら?」

 突飛な発言に、勇一達は崇が何を言いたいのかが分からず、目線を交わしてしまう。

 その様子を眺め、崇は気軽な口調で口を開いた。

「俺が混ざれば、ちょうど良くなるんじゃねぇか」

「は?」

 間の抜けた声は、いったい誰が出したものか。

 崇の発言は、それほどに呆気にとられてしまうものだったのだから。

「あのなぁ……」

「ん?」

「遊びじゃ、ないんだぜ。

 それに、天界にいるお前の一族はどうするんだよ」

「どうせ、俺は死んだ事になってるだろうからな。

 現在長になっている神は、俺を殺せと命じるはずだし、そこら辺の問題はクリアされるだろうよ」

 だから、一族は関係ない、と崇は暗に示す。

 ポンポンと進む話しについて行けず、それでも何かを感じ取ったらしく、めぐみは憮然とした表情でぼそりと呟いた。

「……崇ちゃんの場合、売られた喧嘩買ってるだけのような気がするんだけど」

「なんか言ったか?」

 耳聡く聞き取った崇が、頭一つ分以上背の低いめぐみをじろりと見下ろす。

 その視線を真っ向から受け止め、めぐみはにこりと挑発的な笑顔を浮かべた。

「うん!何がどうなってるか、ぜんっぜん分かんないの。

 説明、してくれるよね?」

「説明、ねぇ」

 苦々しくそう呟いた崇の姿に、おかしそうに阿修羅が目元を緩めた。

 同じように、勇一も思わず吹き出してしまう。

 忍や那美にしても、年下の少女相手にたじろぐような崇の姿に苦笑を受ける以外の態度しかとれない。

 四人四様の対応に、崇は小さく舌を打ち付ける。

 嫌な所を見られたと言いたい所だが、この幼なじみは崇の長所も短所もよく分かっているだけではなく、崇の機微を少しも見逃さずに言い当てるのだ。その点は、さすがは幼い時からの腐れ縁だとしか言い様がないだろう。

 深々と溜息を吐き出した崇に、阿修羅は面白そうに尋ねてきた。

「さて、どうするつもりだ?」

 説明するにしても、どう説明するのかが見物だと言いたげな阿修羅の言い様に、崇は嫌そうな顔で阿修羅を見据える。

 そんな崇の顔をめぐみはじっと見つめ、納得のいく言葉を聞くまでは許さないとばかりに真剣な光を瞳に浮かべていた。

「―仕方、ねぇか」

 吐息交じりにそう呟き、崇は前髪を乱雑に引っかき回す。

「めぐみ」

「なに?」

 真剣な崇の口調に、めぐみはぱっと顔を輝かせた。

 自分にも分かるように今までの事柄を話してくれるのだという期待の籠もっためぐみの眼に、崇は僅かばかりの罪悪感を抱いてしまった。

 今回ばかりは、めぐみを巻き込むわけにはいかないのだ。

 普通の人間であるめぐみを、危険に巻き込みたくはない。

 それが、偽る事ない崇の心境だ。

 だからこそ、とれる選択肢は一つだ。

 まっすぐに自分を見つめるめぐみにへと目線を合わせ、崇はその瞳の色を緋色に変えて静かな、けれども絶対的な神力を込めて囁くような声を放った。

「忘れろ」

「え?」

 呆けたように、めぐみは崇を見上げる。

 だが、すぐにその表情が虚ろなものへと変化を遂げ、じっと崇の命を待つように従順な態度へと変化を遂げた。

「ここで起こった事を、全て忘れるんだ。いいな」

 こくり、と小さくめぐみは頷く。

 それを崇が確かめた途端、めぐみの身体は糸の切れた人形のように、くたりと力を失って崇へと倒れ込んだ。

「おっと」

 その身体を抱きとめると、崇は極々僅かに唇を動かす。

 誰にも聞き取れはしなかったが、それが謝罪の意味を持っているのだということは、勇一達にも簡単に察する事は容易な事だった。

「こんなもんで、いいだろうな」

 苦笑じみた声で崇はそう言うが、ふと過った考えに、忍は恐る恐るの声を放った。

「でも、この娘の性格とか見ていたら、その、すごく怖い事してませんか?」

「うっ……」

「そう、よね。なんだか、瀬尾野さんって、自分の行動とかとやかく言われたくはないような性格みたいだし」

 じっと、忍と那美は崇とめぐみに視線を送る。

 それほど長い付き合いではないのだが、めぐみの竹を割ったような性格や好戦的な態度は、勇一達にしてみれば以前出会った時から感じていたものだし、それが本筋から離れていないだろう事は今回で確信できた事だ。

「お、思い出さなきゃすむ事だ」

 その空気を感じ取りつつも自分に言い聞かせるように、崇は何度か頷きながらそう告げる。

「だといいがな」

 だが、そんな崇に向かって、阿修羅はどこか笑みを含んでそう声をかける。

 むっとしたように、崇は阿修羅へと苦虫を噛み潰した表情を向けた。

「何が言いてぇんだよ」

「さぁな」

 鋭い光が、崇の瞳の中で瞬く。

 好戦的な雰囲気が場を満たしかけるが、ほとほと疲れたような顔つきを勇一は阿修羅へと向ける事でそれを壊した。

「あんまり険悪になるなよ。

 どうせ、これから長い付き合いになるんだろうからな」

 結果的とはいえ、崇、いや、不動明王は帝釈天に牙をむいた。

 それは、自分達八部衆に与したと見なされても仕方のない事柄だ。

 先程一族は関係ないと崇は言ってはいたが、天界での明王一族の立場は微妙なものへと変わるだろうことは明白な事実であり、彼らが崇が生きている事を知ればどう行動するか分からない。

 たとえ少数な部族であっても、明王一族は天界においては一騎当千の強者達の集う一族だ。その一族が反旗を翻せば、天界の内情は一気に変化する。

 とはいえ、天界の軍勢数を考えれば、その行動は慎重にならざるを得ないだろう。

 明王一族を存続させるためには、崇を殺さなければならない。そう結論づけられるであろう事は、先程も崇が言ったとおりになってしまう確率が高い。

 だが、事はそう簡単にいくのであろうか。

 イレギュラーではあるが、崇の参戦はこれからの戦いにどう響くかが分からないというのが、現状の勇一達の立場といえる。

 頭の痛い事ばかりが揃ってしまった現実に、勇一は大きく溜息をつく。

 そんな勇一に、気軽に崇は声をかけた。

「まぁ、なるようにしかならねぇよ」

「んな簡単に言えるのか?」

「簡単にしちまった方が、楽だろ?」

 軽い言葉ぶりに、勇一は肩を落とす。

 確かに、崇の言うとおりだ。先程の自分の発言を思い返し、勇一は息を深く吸い込む。

 長い付き合いになるのは、確定事項なのだ。

 先の事よりも、目先の事実を受け入れる事から始めなければどうしようもない。

「まっ、よろしくな」

「単純に決めるな、お前」

「深く考えて墓穴掘るよりも、割り切った方がいいだろ」

「まぁ、そりゃそうだな」

 勇一の呆れたような声に笑みを漏らし、崇はめぐみの身体を抱きかかえる。

 安らかな寝息を立てるめぐみの顔を眺め、忍は小さく首を傾けた。

「須田?」

「あ、いえ、何でもないです」

 一瞬だが、忍の中で誰かの姿がめぐみと重なったのだが……。

 いったい誰であったのかと思い出してみようとするのだが、上手くその姿が浮かび上がる事が出来ない。

 とはいえ、めぐみは普通の人間のはずだ。自分達の行動に恐れを感じ取っていない部分には、どうにも納得出来はしないが。

「大丈夫か、須田?」

「はい。きっと、気のせいです」

 緩く頭を振ってその思考を追い出す忍の姿に、勇一は僅かに眉根を寄せる。

 忍の視線を追ってみれば、その先にいるのは眠りについためぐみの姿であり、忍の言う気のせい、という単語は勇一にも引っかかる物があるのは否めない。

 だが、今はそれを気にするだけの余裕もないのは、確かな事といえる。問題点の方が多い人物を前にすれば、めぐみの存在は頭の隅にとどめるだけですむ事なのだから。

「なるようにしか、ならねぇか……」

「勇一?」

 呟きを聞き咎めた那美が、不安そうに声をかけてくる。

 それを笑ってやり過ごし、勇一は晴れ渡った空を見上げると、自分を落ち着けるように再び大きく息を吸い込んだ。

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