第八章
放課後まで無事に終わり、勇一と那美は人気が全くないと言って良い第四東屋に向かっていた。
矢沢学園の敷地は広大であり、幾つかの東屋がそれぞれの校舎に続く道に作り出されてる。
その中でも、大学や中等部に通じるのに一番遠い第三、第四東屋は人通りどころか人気の全くない場所でもあり、聞かれたくない話しをするには格好の場所と言える。
どちらをとっても同じ事ではあろうが、あえて第四東屋を選んだのは、第三東屋は忍にとっては酷な場所だと分かっているからだ。
やや早足でそこへと向かえば、すでに忍がその場に来ており、二人の姿を見つけると安心したように肩を下ろした。
「わりぃ、待たせたか?」
「そんなことないですよ」
何時もと違ってどこか力のない笑みを浮かべ、忍はそう答える。
それを見つめつつも、勇一は一瞬躊躇いを覚えてしまう。
もしもこのことを告げたならば、忍の中にある感情は堰を切ったようにあふれ出すだろう。あの一件を考え、それを思い出してしまえば、忍の中には殺意という純粋な感情を曝け出すだけだ。
そんな事を考えつつも、勇一は意を決したようにして話しを切り出した。
「須田」
「はい?」
「摩利支天は、生きている」
「え」
勇一の言葉を半瞬ほど判断できなかったらしく、忍は瞬きを何度か繰り返した後その身体から抑えきれない殺気があふれ出した。
「仕留め損なったって事ですか」
「あぁ」
「……なら、今度こそあいつを倒さないといけないですよね」
自分自身に言い聞かせる響きを持つ忍の言葉に、勇一は僅かに顔を曇らせる。
分かっていた事とは言え、忍を止める事など出来ないのは一目瞭然だ。
忍を見つめる那美の視線も、気遣わしげな色を帯びており、どう声をかけたものかと思案にくれたように眉根を寄せる。
「深手を負った事で、奴の自尊心は著しく傷つけられているだろうからな。
我々の首を本気になって取りに来る事は眼に見えてはいるが」
「阿修羅」
二人の助け船、と言うわけではないだろう。近づいてきた阿修羅が、忍に向かってそう話しかける。
ほっとしたように、那美が阿修羅を迎える。勇一もまた僅かに安堵したように阿修羅を見やった。
そんな二人の様子に、阿修羅は小さな溜息を吐き出す。
「天王、そう先走るな。待っていれば、あやつの方から姿を見せるだろうからな」
「そう、ですね……。
それはそうと、阿修羅王……僕の事は、忍、でいいですよ」
「確かに、な……ならば、私の事も阿修羅でいいぞ」
「はい」
郷に入りては郷に従え。そんな言葉が阿修羅の頭の中を過る。
人界にいる以上は、前世の名で呼べない場面も出てくるだろう。今の所その様な状況に陥ってはいないが、ぼろが出る前に今の名を呼ぶべきだという事は勇一の件でも分かっていた事だ。とはいえ、阿修羅がなかなかそれに慣れないのは、仕方のない事と言えてしまうのだろうが。
それにしても、だ。
あれだけ強い殺気を放った以上、今仕留めるべき相手に動きはあるであろう事は予測の範囲内と断じてしまうことは簡単なことだ。
―さて、どう動く?
周囲に鋭い一瞥を向けた阿修羅は、その事に全く気がついていない三人に思わず内心で苦笑を浮かべてしまう。
ここにいるといっているような忍の行動を、あえて止めるべきではないと判断を阿修羅が下したことに勇一達が気付くのは、後数分もすれば分かってしまうだろう。
もっとも、後手に回る前に全てを終えたいという阿修羅の行動は、勇一達も不承不承だが判断はするだろう。
いや、理解してもらわなければならない。
なるべく早い内に摩利支天を倒さなければならないのは、阿修羅の脳裏で引っかかる人物がいるためだ。
日野崇。
彼が敵か味方か分からない以上、摩利支天という厄介者と相対した際に崇が目覚めてしまい、更には自分達を対すべき者と認識してしまうのではないかと危惧するのは、阿修羅としては当然の事といえるだろう。
「さて……」
「阿修羅?」
呟きを聞き咎め、那美が不思議そうに阿修羅の顔を見つめる。
いつ何時仕掛けられてもいいように結界は張ってあるが、それは壊される事を前提にした結界だ。
結界の破壊は、摩利支天がこちらに向かっている事を指し示す。
何時までも待つ事はないな、と考えつつも、不安そうな視線を向ける那美に向けて阿修羅は何でもないと言いたげに首を緩く横に振った。
「阿修羅」
「何だ?」
「あの時、あいつは、摩利支天は成瀬さんの身体で闘いましたよね」
「あぁ」
「なら、今度あいつが本体で闘う事は、確実ですよね」
どこかすがるような響きが、忍の言葉の端々に込められる。
それはそうだろう。あの時成瀬真由美の行動が摩利支天への動きを阻み、そしてその際に受けたダメージと、真由美の身体から離れた際に忍が放った攻撃は、相手を殺す事も出来るほどの力だったのだから。
そんな忍の態度に、阿修羅は小さく口の端を引き上げた。
「余り急くな。奴ならばすぐにでも現れるだろうよ」
先程の忍の行動を止めなかった理由を口にする事に躊躇いなど無い阿修羅は、軽く肩を竦めて何でもない事のようにそう断言する。
思わず忍は動きを止め、間の抜けたように唇を開いた。
「え?」
「お前の殺気を察知し、この場に我々がいる事を知ったのだ。
仕掛けるには絶好の機会と捉えるだろうからな」
「おい。まさか……」
勇一が、阿修羅の言葉に苦々しい声を放つ。
餌はまかれた。そんな意味を感じ取り、勇一と那美は阿修羅の行動に溜息をつきたい衝動に駆られる。とはいえ、そんな事をした所ですでに事態は動き始めているのだから、それ以上強くは阿修羅を咎める事は出来ず、勇一は渋面を浮かべて溜息を一つ落とすだけにとどめる。
だが、そんな勇一とは対照的に、忍は強く拳を握りしめ、阿修羅の策に乗ったようにその顔に視線を合わせた。
「待つのも、苦痛ですね」
どこか苦笑じみた口調でそう断じた忍は、チラリと周囲を見やる。
現れるならば、さっさとその姿をさらせ。そう語る忍の瞳は、どこか昏い復讐心に燃えていることを見咎めるが、勇一達にはそれを止める手段など無いためにただ沈黙を持って忍の行動を見届けるしかない。
摩利支天は、一人の少女の命と身体をまるでゴミのように扱った。それは、摩利支天に相応の報いを与えなければ、成瀬真由美も、そして忍自身にとっても報われる事がないだけではなく、清算できる事態ではないということは、勇一達にもよく分かっている事態だからだ。
僅かな吐息を勇一が吐き出した瞬間。
パリン、と誰の耳にも届くほど澄んだ音色が上がった。
「……来たな」
阿修羅の言葉に、勇一と忍の顔が引き締まる。
互いの武器を出現させ、勇一達はチリチリと背中をなでる殺意の波動を感じ取ると、舌を軽く打ち付けた。
気配が、全く感じられない。
殺気から相手の位置を測ろうとしても、何かが邪魔をするようにそれは霞んで消えてしまう。
これでは、どの位置に摩利支天がいるかが全く分からないだけではなく、何時仕掛けられるかすらもが分からない。
苛立ちを込め、勇一は阿修羅に声をかけた。
「阿修羅」
「奴の十八番だ。
奴の力を感じ取ろうにも、陽炎を媒介にしているためにこちらに位置を悟らせん」
「おい……」
「厄介ですね」
険しい表情を見せた勇一だが、不意にぞわりと感じた寒気に襲われ、条件反射のようにその場を蹴りつける。
一瞬をおいて、その場に火炎が柱のように現れる。判断を誤れば、勇一の身体はその炎に焼き尽くされていただろうことは、その威力からも察する事は簡単な程の神力。
傲然と吹き上がる炎は、勇一を一点に絞って攻撃されたものだと瞬時に判断出来、凄まじい憎悪と怨嗟が肌の表面からまっすぐ心臓へと突き刺さる。
「勇一!」
「先輩!」
那美と忍が、同時に叫ぶ。
その頭上から、小馬鹿に仕切った声が降り注いだ。
「さすが、と言うべきかな。
今の攻撃、よけきれるとは思わなかったが」
そちらに視線を走らせれば、冷笑をその表面にちりばめながらも、憎々しさを隠そうともせずにそう吐き捨てた若い女の姿が現れていた。
その姿を視るのは今生では初めてだが、声には嫌になるほど聞き覚えがある。
「あいつが……」
「摩利支天!」
橙色の長い髪。美しすぎる容貌は、男とも女とも見分けがつかぬが、誰もがその美貌に視線を集中させる事は間違いない。そして、その細い身体には不釣り合いな鎧を纏っているが、その鎧の中央に走るひび割れを認めて忍はぎりっと奥歯を噛みしめた。
「よもやこの姿を晒す事になろうとはな。だが、十全に神力を発揮でき、貴様らを殺す事が出来るのならば、それはそれで楽しみと言うべきだろうよ」
「てめぇ……」
嘯くような摩利支天の言葉に、勇一はきつい視線で摩利支天を睨み付ける。
その視線を受け止め、摩利支天は侮蔑も露わな声をあげた。
「先の件ではさんざ世話になったからな。貴様らの首を落とす前に、この身に浴びた屈辱を晴らさねば、こちらの気が済まぬ」
「抜かせっ!」
そう叫び、勇一は龍牙刀を握りしめて摩利支天に斬りかかる。
と、同時に、忍もまた摩利支天との距離を一気に縮め、
だが、一瞬早く、摩利支天の身体はその場から消え失せる。
勇一と忍が思わず剣の柄を握りしめる程、鮮やかな消失の仕方だ。
その場から気配を殺す摩利支天の声が、勇一達の頭上から降り注ぐ。
「愚か者が。先の戦いの時と同じと思うなよ。本来の姿に戻った以上、この神力で貴様らを殺すのだ。
我が炎により、殺される事を光栄に思え!」
高らかに摩利支天がそう告げると同時に、阿修羅の瞳が黄金に変化する。
那美の腕を取り、阿修羅がその身体を引き寄せつつ勇一と忍に鋭い眼光を向けると、それを察して短く忍は頷いた。
摩利支天と同様に、阿修羅もまた己の姿形をそのままにこの世界の存在するのだ。その事を、復讐に燃え上がる摩利支天は忘れていたのだろう。
「死ね!」
そう叫ぶと同時に、広範囲に真っ赤な炎が吹き上がる。
骨すらも残さないほどの高熱の炎。
だが、それを眺める摩利支天は小さく舌を打ち付け、忌々しげに言葉を吐き捨てた。
「逃げたか……」
阿修羅の神力に引き寄せられるように、勇一と忍はその場から空間を跳躍したのだ。
刹那の差ではあった。だが、勇一達を殺し損ねた摩利支天はギリリと奥歯を噛みしめるが、すぐにそれを追うべくその神力を追いかけ始めた。
「まぁ、よい。すぐにどこに逃げたか分かる事だ」
己に言い聞かせるようにそう呟きながら、摩利支天は眼を細めて注意深く勇一達がいた周囲を探索する。
そこから感じ取ろうとしていたのは、今にも消えそうな勇一達の神力だ。
人間には有り得ない片鱗をその場から嗅ぎ取り、勝利と己の神力に絶対の自信を得ている摩利支天が口の端をつり上げる。残忍な笑みのはずが、その美貌に彩られて醜悪ながらも、今の摩利支天にふさわしい美を描き出す。
「邪神共が……」
様々な感情に彩られた言葉を放ち、摩利支天は思念を集中させた。
勇一達の出現場所を追いかけるのは、摩利支天にとって造作も無い事だ。無論、勇一達がそれを隠そうとしていない事にも一因はあるが、自分に恐れたのだと確信している今の摩利支天にはそこまでの考えには至る事はない。
難なく勇一達の姿を見つけ出した摩利支天の姿がその場から消え失せる。
絶対的な勝利を信じる摩利支天を窘める者などいないその場から。
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