第六章
一
白金の長い髪が、歩みと共に揺れ動く。
どこか気難しげな表情は、今の現状を憂いているからだ。戦況は、甘くない。そんな事は重々承知しているが、それでもまだ前線に立つ大半の者が嘆くような言葉を吐き出してはいない。その事を思い返し、そして、先日の案件を思い返す。
「阿修羅王」
その声に、
十七、八の外見。阿修羅とは対照的に、闇のような黒髪と血のような深紅の瞳を持つ少女は、足早に阿修羅との距離を縮めた。
頭一つ分高い阿修羅の顔を見つめ、少女は小さく眉根を寄せる。
「顔色が悪いけれど……疲れているんでしょ。きちんと寝ているの?」
「大丈夫だ、まだな」
心配そうな少女の疑問を綺麗に交わし、阿修羅は安心させるために微笑を浮かべた。
だが、そんな事で少女の疑いが晴れたわけではない。
何とも言えない顔をした少女だが、阿修羅の態度にこれ以上の追求は無理だという事を知っているため、溜息を一つついただけでそれ以上の追求は止めてしまう。
そんな少女の前髪を優しくかきあげ、阿修羅は逆に少女に問いかけを放つ。
「そういうお主こそ、平気なのか?」
「当たり前の事言わないで。これくらいで倒れていては、王を冠する者としてはまだまだという事でしょう?
それに、あなたの妻と名乗る資格もなくなってしまうわ」
そう言って、未来の妻たる少女ははんなりとした微笑みを浮かべる。
その笑みを受け止めつつ、阿修羅はふと少女の陰りを帯びた瞳に気付くと、表情を改めて疑問を放つ。
「どうしてここに?」
「北の、戦況報告に」
どこか押し殺した少女の声に、阿修羅は微かに顔を曇らせた。
そんな少女の肩を優しく叩くと、己の考えに埋没していた少女ははっとしたように眼を見開く。そんな少女を伴い、阿修羅は少女の歩調に合わせながら歩き出す。
重厚な扉がやがて見えると、二人は一瞬足を止めるが、意を決したようにその扉を押し開いた。
「よく来たな、二人とも」
深みのある、穏やかな声が二人を出迎える。
すっと頭を下げて最上級の敬意を示し、二人は壇上に座る男へとゆっくりとした歩調で近づいた。
公式の謁見の間ではない。だが、彼ら八部衆やこの世界に住む神族達が集まる略式的な場所だ。小さいとはいえ、ゆうに百人程度入ろうかという広さを誇るそこは、質素ではあるが、それでも堅固な作りをしていた。
「ご苦労だったな、二人とも」
「いえ、難陀龍王」
「報告を聞こうか。夜叉王」
「はっ」
小さく呼吸を整え、夜叉王と呼ばれた少女は、極力感情のこもらぬ声で話し出した。
「北の砦は、まもなく落ちるは必定。今のうちに北の女、子供等を移動させねば、被害は大きくなりましょう。奴ら、女、子供、年寄り、力なく戦う術を持たぬ者も見境なく殺してまわり、まるでこちらの動きを嘲笑うかのように村々を襲っている現状。すでに、北の村五つが全滅の報告を受けております。
奴ら、数に物を言わせ、我等の間隙を縫いては村々を焼いているとの事」
「むごい事を……」
「東、西、南もこれと同じような状況という事。北に次いで被害の大きな東も、かなりの勢いで村々が滅びているとの報告を受けております。
とてもではありませんが……」
守り切れない、守る事すら出来ない、と口の中で呟き、夜叉王は唇を噛みしめる。
すでに彼女の一族は、大半の者が殺されている。その中でも残った者達は、全て戦う事の出来る者達のみだ。
他の八部衆の面々とて、彼女の部族と似たようなものだ。
圧倒的な数で攻め入られ、有無を言わさずに殺し回る。
鮮血と激しい焔が辺りを支配し、日を追うごとに死者の数は増えていく。疲れ果て、絶望に心を染め上げ、全てを諦めた者達の中には、自らの手で生命を絶つ者もいる。それを止めきれずいるだけではなく、そんな行動を横目で見ながらも兵士達は剣を取り戦わねばならないというのが現実だ。
「……難陀龍王」
しばし躊躇った後、夜叉王が口を開く。
「申し上げにくい事ですが……奴らの動きを考えますと、近いうちに総攻撃をかけてくる可能性が高うございます。
こちらの人数を考えますと……今度こそ、覚悟を決めておかねばならないかと」
それは、確定事項といえることだろう。この世界に残されている者は、大半の者が戦う事が出来る者達だ。僅かに残っている子供や老人、女達を避難させようにも、安住の場所がない。この世界に残った時から、彼らもある程度の覚悟は出来ていたであろうが、自分達が彼らを守り抜けるかと問われれば、答えを躊躇わざる得ない。
重苦しい沈黙が、空気を占める。
「
独白めいた難陀龍王の呟きに、阿修羅王と夜叉王はもの問いたげな視線で彼らの主を見つめる。
この界の王であり、八大龍王、ひいては龍族の長であるこの人物は、この世界の誰よりも長く生きている。それ故なのだろうか。慈悲深く、暖かな雰囲気を身に纏うのが常であった人物なのだ。その彼が、今やその瞳に深すぎる苦悩が浮かび上がっている。
「難陀龍王」
何故、阿修羅が声を放ったのか分からない。
それ程までに、憔悴と憂いとが難陀龍王の身体からあふれ出していたのだ。
だが、それを振り払うように緩く頭を振った難陀龍王は、二人に視線を固定させる。
心配そうな阿修羅王と夜叉王を見つつ、難陀龍王は驚くべき事を静かな口調で話し出した。
「阿修羅王、夜叉王。私は、輪廻の輪を開こうと思っている」
「輪廻の輪?
まさか……大冥道、でございますか?」
あまりの発言に、かすれた声を夜叉王が漏らす。
その中にあるのは、信じられない、という思いと、余りにも大きな驚愕だ。
そんな夜叉王の態度を咎める事なく、難陀龍王はゆっくりと、静かな頷きを見せた。
「そうだ。
それを通り、主ら七人を、人界へと転生させる」
「七人、ですか?」
「そうだ。阿修羅王、お主を一人除いた者達だ」
「なっ!」
阿修羅が息を飲み込み、引きつった悲鳴のような声を夜叉王が漏らす。
この世界を見捨てろ、と同義の内容は、二人共に簡単に了承出来るものではない。
だが、その二人の行動は予測済みだったのだろう。難陀龍王は凪いだ静かな瞳で、阿修羅と夜叉王を見つめていた。
「何故にございます!」
悲痛な叫びを上げ、夜叉王は難陀龍王を見上げる。
その様子に、難陀龍王は柔らかな微笑を浮かべ、幼子に言い聞かせるように静かな声で語りかけた。
「お主の気持ちはよく分かる。いや、分かるつもりだ。
しかし、お主も知っていよう。我々が人界へ、いや人間として転生した神は、『
故に、阿修羅王を残す。三千大世界最強の闘神として名高い神を、だ」
「お待ちください!では、この世界で戦っている者達はどうなるのです!彼らを見捨て、我等だけ逃げろというのですか!」
「彼らには、すでに私の意を伝えてある。大半以上の者は、私の意に頷いてくれた」
「そんな……ですが……」
言葉が見つからないのか。夜叉王は意味のない言葉を発して、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
そんな夜叉王を横目で確認しながら、阿修羅は渦巻く疑問を難陀龍王にぶつけた。
「難陀龍王。
輪廻の輪を、大冥道を開くという事は……あなたの神力を、宝珠の神力を全て使ってしまうという事。それは、つまり……」
「そうだな。私の死を意味しているな」
「ならば!」
「それが、宿命であるとするならば?」
淡々とした口調でそう返され、阿修羅と夜叉王は言葉を発する事も出来ずにその場に立ち尽くす。
それに気を止める事なく、難陀龍王は優美な動きで右手を胸の位置まであげた。
と、それにつられるようにして、右手の掌から温かく柔らかな光を放つ珠が出現した。
龍王を冠する神が所持する宝珠。自分の生命、神力、それらが具現した物こそが、
それを眺める難陀龍王へと、絶叫にもにた言葉を夜叉王が放った。
「納得出来ませぬ!」
「夜叉王」
「その様な事、納得など出来ませぬ!私達の生命よりも、難陀龍王のお生命の方が、何倍も大切なのです!私達は、戦場に生き、そしてその死を宿命として、この世界に生きている神です!
それを……私達のような
血を吐くような思いと共に、夜叉王の眦から透明な雫が流れ落ちる。
ほろほろと流れる涙に、難陀龍王は困り切ったような物を口の端に浮かべた。
「聞き分けのない事を言う出ない」
娘を窘めるような口調で難陀龍王はそう言うと、ゆったりと玉座から立ち上がった。
カツン、カツン、と硬質な音とは対照的に、難陀龍王は柔らかな笑みを浮かべて二人の前へと歩み寄った。
「希望なのだ。お主達は。
この地を愛し、そして守っているお主らこそが、修羅界全ての希望なのだ。私はこの世界の王として、この界と命運と共にするつもりだ。それこそが、私の意であり、王としての責務というもの。
私のように長く生きた者よりも、お主達若い者を生かしたい。これが、私の意思だ。分かってくれるな」
「……はい」
納得などはまだ出来ないのだろうが、それでも難陀龍王の意志の強いその声に圧されたように、顔を伏せた夜叉王の唇から消え入りそうな答えが放たれる。
その姿に、幼子をあやすように難陀龍王は夜叉王の髪を撫で付けた。
きゅっと、夜叉王の口元が引き結ばれる。
もはや、これは確定事項なのだ。難陀龍王だけではなく、部族の者達もそれに賛同したとなれば、自分達八部衆の王はそれに応えなくてはならない。
眦についた涙を拭い、夜叉王は顔を上げる。
まだ顔色は悪いが、先程まで激情に身を委ねていたとは思えぬほど、夜叉王はしっかりとした雰囲気を放っている。それは、これ以上は難陀龍王の言葉に異を唱える事などはないと、それを受け入れると物語った空気だ。
「……酷であり、すまぬ事だと思っている。お主達には、重い責務を残す事になることも重々承知しているつもりだ」
「難陀龍王……」
「このような事は、恨まれて当然の事だな」
少しだけ寂しそうに、難陀龍王は微笑みを浮かべる。
その笑みに、夜叉王は酷くしっかりとした声で難陀龍王へと語りかけた。
「その様な事を、おっしゃらないでください。私は、難陀龍王のお言葉を受け止め、それを己の意思で従う事を決めたのです。
それに……出会える未来を、与えてくださったのでしょう?」
その言葉に、難陀龍王は僅かに目を見張る。
「……すまぬ」
心の底からの声に、阿修羅王と夜叉王は慌てて首を横に振る。
謝罪されるべき事ではない。これは、自分達が自分達の意思で決めた事なのだから。
「阿修羅王、この命、聞き届けてくれるか?」
「御意」
深々と頭下げ、阿修羅王は肯定の返事を返した。
どこか安堵したように、難陀龍王は二人を見つめる。
「このこと、他の八部衆にも伝えておきましょう」
「駄々をこねる者もおりましょうが、難陀龍王の意を受け止めるように私達が説得いたします」
「駄々をこねる、か……それは
「あの娘は、我等の中でも若輩ゆえ、納得がいかぬと騒ぎ立てるでしょうから」
「確かに、な」
今だに子供っぽさが抜けない乾闥婆王の行動は、予測済みだ。
その様子を思い浮かべたのか。難陀龍王は先程とは違い、苦笑めいた笑みを浮かべて言葉をかけた。
「頼めるか?」
「少々骨が折れるでしょうが、あの者も王としての責務を理解しているはず。
最後は、難陀龍王の遺志を受け継ぐ事は確かな事でしょう」
「だといいのだがな」
「そこまで子供ではないはずですし、乾闥婆王も分かりきってくれるでしょう」
難陀龍王と同じ状況を思い描いたのか、阿修羅も夜叉王も微苦笑をその顔に浮かべる。
その様に、難陀龍王は満足げな表情で二人を見やった。
「おい、阿修羅」
追憶に浸っていたのは、それほどの時ではなかったはずだ。
それでもかけられた声に、阿修羅は瞬時に我に返り、そしてすぐさま顔を上げた。
「どうかしたのか?」
心配そうに阿修羅を見つめる勇一の姿に、阿修羅は緩く頭を横に振って何でもない事をしめそうとした。
だがそれを完全に鵜呑みにしたわけではない勇一は、阿修羅の態度に不満そうな空気を放つ。
明確な答えを欲する勇一の態度に、阿修羅は小さく息を吐き出して答えを口にした。
「なに、考え事をしていただけだ」
「考え事?」
「あぁ」
勇一の疑問に、阿修羅は小さく頷いてみせる。
間違いではない。
もはや戻らない昔。懐かしすぎる人々。
いつかは出会えるのだ。仲間達全てに。そして、愛おしい彼女に。
「阿修羅、お前本当に大丈夫か?」
「決まっているだろう」
少しばかりほっとしたような吐息をつき、勇一はふと自分の腕に巻かれている時計に目を落とした。
試合が終わってからさほどの時間はたっていない。それでも、なぜだか時間の感覚が異常に長く感じられたのは、先程自分が膨れ上がった気を放ったせいだろう。
日野崇。
彼が一体何者なのかは分からないが、それでも危険因子が抜けない以上はどこかで警戒心を持たなければならないのだろう。
そこまで考え、ふと勇一が思い出した事を阿修羅に尋ねた。
「阿修羅」
「ん?」
「須田の件で思い出したんだけどよ、摩利支天、あいつは近いうちに俺達の前に出てくると思うか?」
「そうだな。我等の首を献上しようとして失敗したのだ。おめおめと天界には帰れんだろうよ」
忍が覚醒した時、それなりの傷を負わせた摩利支天の事を思い返し、勇一は渋面を浮かべて阿修羅の言葉を受け止めた。
深手ではあろうが、それでも神の一員だ。傷の治りは早いであろうし、何よりも自分達に対しての憎悪は膨れ上がっているのは確実だ。
僅かに苦さを含んだ吐息を吐き出し、ふと勇一は気になった事を口にする。
「あの時摩利支天は、成瀬の身体に、人間の肉体に入っていたんだよな。
ってことは、完全な神力が使えなかったって事か?」
「あぁ」
「なら、奴の神力は……」
思い出そうとしても、なかなか記憶の中からそれを引き出す事が出来ずにいる勇一に、阿修羅は皮肉と侮蔑を込めた口調で切り捨てた。
「奴は日天の子だ。それも、両性具有という身体を持ったな」
「りょうせいぐゆう?」
聞き慣れぬ言葉に、旨く漢字変換が出来ず、片言で勇一は阿修羅の言葉を反復する。
その様に、あぁ、と言いたげに、阿修羅は頷いて言葉を続けた。
「男であって男ではなく、女であって女ではない。中途半端な性を持った神だ。神力は日天の子だけあって、主に炎を使う。それに加えて、陽炎を使い、その存在をかき消しては襲いかかってくる厄介な相手だ」
「げっ」
呻くような声を圧しだし、勇一はくしゃりと前髪を掴みあげた。
そんな相手を逃がしたのだ。しくじったと思うのは仕方がないが、それでもあの時はそんな事を思う余裕はなかったのも確かな事だ。
「まいったな……」
「考えた所で、仕方あるまいよ」
「まぁ、そうなんだけどな……」
溜息をついた勇一だが、次に相対した時には決着を付けなくてはならない相手であるのは間違いない。
今度は人間を器として使う事はなく、その正体をさらけ出して襲いかかってくる事だろう事は、間違いないと言えるだろう。
気難しげに眉間に皺を寄せていた勇一が、耳に馴染んだ声に意識を切り替えた。
「どうしたの、勇一?」
いつの間にか、バス停付近に近づいていたのだろう。
道の端で待っていた那美の姿に、勇一は慌てて今までの表情を消し去る。
「那美……忘れ物は取ってきたのか?」
明らかに無理矢理話題をそらせたのが気になったのか。那美はじっと勇一の顔を見つめて何かを察しようと眼を細めていたが、勇一とてそれを那美の前では見せないために繕った笑みを浮かべた。
「……何か心配事でもあるし、話せない事もあるんだろうけど、それでも少しぐらいなら心配させてよね」
「あ、あぁ」
少しだけ拗ねたような那美の口調に、勇一はぎこちなく頷いてみせる。
それを確認し、那美はゆったりとした歩調で歩き出した。
その後に続いてバス停に向かえば、すでに生徒達でごった返したそこにたどり着く。
その有様に、阿修羅は苦々しげに勇一に話しかけた。
「このようなものに乗らんでも、空間を移動した方が早かろうに」
「あのな、俺はまだそこまで神力を使えねぇよ」
「たるんでる証拠だろうが。少しは使えるように訓練しろ」
「そうは言うけどな、那美はどうするんだよ。移動っつったて、那美を抱えての移動なんて俺は出来ねぇんだぞ」
「その点ならば大丈夫だ。
人一人分ならば、私は十分に移動出来るだけの神力はあるのでな」
ぐっと言葉に詰まり、勇一は自分の不利を察して阿修羅から視線をそらす。
二人の会話を聞いていなかったのか。那美は不思議そうに勇一達を交互に見やり、小首を傾げつつも疑問を口にする事なく、乗車のための列の後ろに向かって歩き出すのを眺めながら、勇一達もまたそれに続いて那美の後ろに佇んだ。
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