第五章


 漆黒の闇が、辺りを覆う。

 何も見えず、何も聞こえず。無明無音の暗黒は、人の気配どころか、生きているものの気配すらもがない。まるで、墓場のような雰囲気が、じっとりと流れているだけだ。

 だが、不意に柔らかな光がその中に灯る。

 光の中心には、一人の女がいた。

 年の頃は二十代前半、といったところだろうか。深い橙色の長髪と藍色がかかった瞳を持つ女は、自分をで守るように自分の髪を取り巻かせていた。

 目鼻立ちのすっきりとした女は、誰もが振り向くような美貌を誇っているが、今は石像のように眼を閉ざしている。が、細く息を吐き出しながら女は眼を開き、肌に張り付いた着物の上半分をゆるりとした動きで脱ぎ捨て、その肌を露わにする。

 と、同時に、女は側に置いてある甲冑に手を伸ばしかけるが、胸の中央付近に出来たひび割れと切り裂かれた左肩を認め、ギリギリと奥歯を噛みしめた。

「おのれ……沙羯羅龍王と天王め……」

 藍色の瞳の中には、憎悪と怒りが渦巻いている。

 それが女の美貌を一層際立たせ、その姿すらもが美しいと思う者が大半だろう。けれども、自分の容姿に絶対の自信を持っている女にとって、そんな感情など役に立たないどうでも良い事柄でしかない。

 今の女の中を支配しているものは、負の感情だけ。

 それだけに身を焦がしながら、女はガツリと甲冑を叩きつけた。

「見ておるが良い。必ずや貴様らの首を跳ね、帝釈天様の御前に届けてくれる」

 怨嗟の声は闇に溶け込むと、女の周囲がゆらりと歪む。

 ズキリ、と左肩に走った痛みに、女は小さく舌を打ち付ける。

「邪神共が……必ずや殺してくれるわ」

 左肩から胸にかけてぱっくりと裂けた傷口は、どす黒く固まった血が凝固しているが、それを撫で付ければ血は瞬く間に消え去り、醜い疵痕となって女の白い肌を穢しているかのように残っていた。

 その痕を見た瞬間、女は眦をつり上げて般若のごとき表情を浮かべる。

「おのれ……よもやあの小僧が、天王であったとは……しかし、このままですむと思うなよ、邪神共」

 痛みよりも、屈辱が勝るのだろう。女は赤い紅唇から呪詛を紡ぐようにそう呟き、その疵痕に指を這わせた。

 こんなはずではなかった。

 自分の取った行動は間違いなく沙羯羅龍王達を圧倒していた。だというのに、土壇場で借り物の身体が自分に反発し、あろうことか自分を押さえつけて己の命ごと絶とうなどとは、女にとっては計算違いも甚だしい出来事が起きたのだ。

 たかが人間ごときが、神である自分の力を追い払うなど、本来ならば有り得ない事だというのに。見くびっていた、という事になるのであろう。だが、それを認める事など出来ず、女は綺麗に整えられた指先を軽く噛みしめ、これから先の事を考える。

 沙羯羅龍王と阿修羅王の首を引っ提げ、それを自身の主である天帝帝釈天に献上する。そして、それを機に、認めてもらいたかった人物へと、自分は堂々と胸を張って報告に行くはずであったのに……。

 ぎちり、と女の前歯が指先を噛みちぎる。プツリと浮き出た血の雫にすら気にも留めることなく、女は自分自身を落ち着かせるように息を吸い込んだ。

 そんな時だ。女の瞳が訝しげに細められ、光へと引き寄せられるようにその視線を誘導される。

 周囲を僅かに照らすだけで会った光の球が、突如激しい光芒を放ち一人の青年の姿を映し出した。

「……これはこれは。北方将軍毘沙門天殿が自らお出ましになるとは」

 揶揄も露わな口調ではあるが、女のその瞳の奥には僅かな恐怖と苦々しさとが明滅している。

 今最も会いたくはない存在、毘沙門天の姿は、女にとっては邪険に扱っても仕方がないほどの事だが、それを無視する事など出来ないほどの圧迫感を放っていた。

「このような所にまで来るとは、何用だ?」

『用件、と言うほどのものではない。

 ただ、貴様が何をしているのか気になったのでな』

 何の感慨もなく、平淡な口調で毘沙門天はそう言い放ち、毘沙門天は冷ややかに女の姿を眺める。

 左肩から腹にかけての疵痕を認めながらも、毘沙門天は事務的なまでの口調で女に疑問を投げつけた。

『本気で沙羯羅龍王を殺すつもりか。摩利支天』

「そのつもりだが」

『無理な事は止めておく事だな。貴様を人界に送り込んだのは、今だ覚醒しておらぬ者が側にいなかったからだ』

 はっきりとした断言に、女、摩利支天の柳眉が逆立つ。

 言われたくもない事を口にされれば、摩利支天のプライドが著しく傷つけられるのは眼に見えている。だと言うのに、毘沙門天はそんなものを紙切れのごとく踏みつけ、傷口に塩を塗るように言葉を重ねた。

『沙羯羅龍王を殺すどころか、八部衆の一人、天王を目覚めさせたのだ。これ以上奴らの覚醒につながる事は控え、その責を背負い、早く天界に戻る事だな』

「黙れ!私はまだ負けたわけではない!」

『ならば、その傷はどう説明する気だ?』

 痛烈な皮肉に、摩利支天は顔を朱に染めて毘沙門天を睨み付ける。

 射殺しそうなほどの視線だというのに、毘沙門天はそんなものに気を留める事なく冷徹な口調で再度の忠告を与えた。

『無理な事は止めておく事だな。龍牙刀が今だ完全に元の形に戻っていないとはいえ、沙羯羅龍王だけではなく、阿修羅王に天王。そして、残りの八部衆がそろうのは時間の問題だろう。

 それ故に、貴様一人ではこの件をどうにかする事は無理な事柄だ』

「黙れ!それをお主に言われる筋合いはない!毘沙門天、私は帝釈天様へと奴らの首を献上すると言ったはずだぞ。

 今だそれが果たされておらぬ以上、おめおめと天界に帰ると思うのか!」

『なるほど、戻るつもりは毛頭ない。そう言いたいのだな』

「そうだ」

 きっぱりとした摩利支天の口調に、一瞬だが毘沙門天の顔に冷笑が浮かぶ。

 だが、それに気付く事なく、摩利支天は忌々しげに脱ぎ捨ててあった上着を取ると、これ以上は疵口を見せまいとするようにさっさとそれを着てしまう。

 感情の起伏が少なく、冷徹な判断を下す毘沙門天は、帝釈天の右腕としてその辣腕を振るっている。四天王の長であると同時に、帝釈天の考えをいち早く読み取る事の出来る存在は、摩利支天が知る中でも毘沙門天を入れて二人しか存在しない。

 とはいえ、帝釈天の命を直接的に指示する事が出来るのは毘沙門天だけであり、他の四天王も毘沙門天に強く意見を言えたとしても、その考えを諾として頷かない限りは兵を一人たりとも動かす事は出来ない。それ程の実力者であるからこそ、摩利支天は反発の声と荒々しい動きで毘沙門天に視線を固定させた。

 冷静すぎる表情の毘沙門天の姿は、今の摩利支天にとっては感情を逆なでするものでしかない。

『ならば、好きにするのだな。

 我々四天王、そしてその配下は、お主に手を貸すつもりなどない』

「……それだけを言うために、ここまで来たというのか?」

『そうなるな』

 今度こそ、隠す事のない冷たい笑みが毘沙門天の顔に張り付く。

 忌ま忌ましさを隠そうともしない摩利支天の様子を数瞬だけ眺めた毘沙門天が、用件は済んだとばかりに現れた時同様に眩しい光を放つ中へと消え去った。

 それを見届け、ギュッと握りしめた摩利支天の拳が、感情の発露をどこかに求めるように小刻みに揺れ動いていた。

 侮蔑と皮肉に溢れた毘沙門天の態度が、摩利支天の自尊心をズタズタに引き裂き、その怒りの矛先が全て目覚めた八部衆達に向けられる。

「おのれ……」

 もはや、殺すだけでは飽き足らない。

 生きたまま四肢を引きちぎり、その血と命をもってでしか、摩利支天は自分の感情を抑えつける事が出来ずにいる。

 もしも、おめおめと天界に戻ったとしても、人界に来る前に築いていた自分自身の地位が崩れるだけではなく、嘲笑と小馬鹿にした視線が待ち受けているだろう。

 なんとしても、沙羯羅龍王達の首をはねなければならない。

 僅かな焦りと、それ以上の憎悪に摩利支天は身を震わせた。



 暖かな日差しの中、勇一と那美、そして阿修羅はのんびりとした歩調で武道館に背を向けて、帰路につくため石畳にひかれた道を歩いていた。

 そんな中で大きく背筋を伸ばした勇一の姿に、那美は小さな笑みをこぼしてしまう。

 それを聞き咎め、勇一は不機嫌も露わな声を上げた。

「んだよ」

「運動不足、ってとこかな?」

「大きなお世話だ」

 ぶすりとした顔つきで、勇一はそう切り返す。

 その姿を眺めながら、那美はふと声のトーンを落として呟いた。

「須田君、大丈夫なのかな……」

「……今はまだ無理でも、立ち直らざる得ないからな。

 あいつの気持ち、分からないわけじゃねぇよ。俺だって、覚醒のきっかけがあんなシーンなら、自分自身を恨んで仕方がねぇだろうからな」

 まるで自分自身に言い聞かせるような勇一の言葉は、父親である健太郎の事を思い返しているのだと那美は気付く。

 健太郎の死因は、間違いなく勇一自身にある。天界からの刺客である羅刹天から勇一を守るべく、父親は羅刹天を巻き込んで自爆したのだ。

 それを知った時、勇一は自身の力のなさをどれほど悔やんだだろう。

 そして今、それは忍にも当てはまるかもしれない。

 勇一達の後輩であり、修羅界八部衆の一人、天王である須田忍の覚醒の切っ掛けは、一人の少女の死だ。

 自分の身を守るために取った行動が摩利支天に操られる原因となり、その呪縛から逃れるためだけに、少女は忍や勇一達の前で己の胸を刺し貫いて生命を絶ったのだ。

 忍も少女も、互いに淡い恋心を抱いていた。にもかかわらず、それは成就される事なく砕け散った。

 少女、成瀬真由美の最後の微笑は、余りにも透明で、透き通りすぎたものだった。

 忘れられないその笑みは、忍の心に突き刺さるだけではなく、自分を責めるのは十分なものといえた。

 それは、勇一達も同じだ。あの時、真由美の行動にもっと早くに気付き、それを止めていれば結果は違ったはずなのだから。

 それを混ざり合わせながら、勇一は小さな吐息を一つつくと、疑問の形を取った核心を口にした。

「あいつは、立ち直る。そうだろう?」

「あぁ」

 二人のやりとりを黙って聞いていた阿修羅に向けて、勇一は確認するかのようにそう切り出した。

 無論、阿修羅もそれには賛同する答えを返す。とはいえ、阿修羅にとっては、真由美の死が忍の覚醒の切っ掛けとなったのだから、勇一達とは違い成瀬真由美という存在の死に様に僅かばかりの感謝の念がないわけではない。

 ―感覚の違いなのだろうな。

 人間として転生し、その神力ちからを取り戻した勇一達と、転生する事なく人界へと赴いた阿修羅とでは、覚醒するまで人間として生きてきた者との隔たりが存在する。その違いを感じるてしまうのは、阿修羅としては多々感じ取ってはいる事だ。だが、それを口にした所で、それがなくなるとは思わない。

 何とも言えない沈黙がその場に落ちる。

 それを打ち払うように、那美が少々態とらしかったが、明るい声で話題を変えた。

「それにしても、今日は惜しかったわね」

「お前は見てるだけだったろ。こっちは大変だったんだ」

「見てただけだから、そんな事言えるのよ」

 少しだけ笑みを含ませ、那美は茶目っ気を込めた表情で勇一を見上げる。

 その顔に、むっとしたように勇一は眉を寄せた。

「……日野、崇、か」

 難しげな阿修羅の声に、勇一と那美は揃ってそちらへと顔を向ける。

 思慮深げな光を瞳の奥に灯らせる阿修羅の様子に、勇一と那美は顔を見合わせて阿修羅の次の言葉を促すような視線を送りつけた。

「何者かは知らんが、奴は厄介だな」

「どうして?」

 不思議さを隠しきれず、那美は小首を傾げてそう尋ねた。

「あやつも、神力の片鱗を見せた。敵か、味方か、それが分からん。

 あれだけの神力からを持つ者だ。覚醒すれば、私やお前に匹敵する神力を発揮するだろうな」

 苦々しげにそう口を開き、阿修羅は口調同様の顔つきで緩やかに首を横に振る。

 敵か味方かが分からない。そう断言できたのは、八部衆の神力の波長を阿修羅が痛いほど知っているからだ。

 だが、崇のあの神力は、そのどれとも違っていた。一体何者なのか、という疑問を抱くのは、仕方のない事だろう。

 そんな阿修羅に向け、勇一は気楽な口調で話しかけた。

「けどよ、何も思い出していないんだろ。なら、今のままでいいじゃねぇか。

 別に、現時点で俺達に敵対意識を持っているわけじゃねぇんだから」

「しかしな……」

「普通の生活送って、人間として生きてるなら、それでいいじゃねぇか。今の時点で、俺達に敵対意識を持ってるわけじゃねぇんだろ。それに、無理矢理覚醒させれば、俺達にとっても、あいつにとっても、悪い方向に行く可能性があるしな。

 覚醒させる必要は、現時点ではないだろ」

 そう言って、勇一は小さく笑みを浮かべる。

 その行動を見て取り、那美は心配そうに勇一を見やった。

 無理をしているな。そう感じて仕方のない笑顔。だが、どのような言葉をかけて良いのかが、那美には分からない。

 どれだけ望んでも、何も知らなかった時間に戻る事は出来ない。

 普通という単語からはかけ離れた神力を持ってしまい、それでも『普通』の人間として振る舞わざるえない今の状況。それが、どこかで壊れてしまってもおかしくはない事柄なのだ。

 せめて、自分の前で無茶や無理をしてほしくはないのだが、それは淡い期待なのかもしれない。自分を信用してくれているのは、分かっている。それでも、迷惑をかけないために勇一が神力を押さえつけている事が理解出来るからこそ、那美は何も言うことが出来ずにただその背中を見つめるしかない。

「あっと、あたし、部室に忘れ物してたんだった。取ってくるから、ちょっとだけ待っててもらってもいいかな」

「あぁ」

「ごめん。バス停に先行ってて」

「ゆっくりでいいぞ」

「ありがと」

 そう言って、那美が小走りに部活棟へと走り出す。

 阿修羅が何かを言おうとしている事を察したのだろう。相変わらず勘の鋭い少女だと思いながら、阿修羅は溜息交じりに声を発した。

「……それほど、良いものか?」

「あ?」

「人間として生きていく事が、だ」

「さぁ、な。

 俺だって、まだ十七年しか人間として生きてねぇんだ。善し悪し分からない、と言うべきだ。それに、そいつしか分かんらねぇんじゃねぇのか。良いか悪いかは。

 けど、な」

 少しばかり考え込みながらも、訥々と勇一は口を開く。

 途中で言葉を切り、勇一は頭上を見上げて眼を細め、広がる青空を眩しそうに見やる。

「けどな、怒ったり、笑ったり、泣いたり、喜んだり、それこそ修羅界の者達と変わらない。けど人間は、色々な思いを一日の中で詰め込んで、短い生命を一所懸命に生きて暮らしてる。そして、それを抱きながら生命いのちを終えるんだ。

 すげぇよな。前世はこんな風に考えた事なかったけど、こんな風に思えるようになったんだ。俺は、どこかで馬鹿にしてかのかもしれないな……人間って存在を。それが、ここまで来てそんな事思えなくなった。

 俺は、人間も、人界も、好きになってたんだ、いつの間にか」

 そう断じた後、勇一は自分の言葉を反芻しつつ、苦笑を浮かべてみせた。

 その様子に、阿修羅は眼を細める。どこか羨ましげな光を瞳の奥に灯しながら、ぽつりと無意識のうちに阿修羅は呟く。

「私も、『穴』を通り抜けたかったものだな」

「穴?」

「あぁ。『大冥道だいめいどう』と呼ばれる穴だ。地獄界から直結しつつも、全ての生命を来世へと送り届ける場所だ。

 お前達七人は、そこを通って人界へと転生した」

 阿修羅の言葉の外に、思い出せないのかという含みが感じられる。

 だが、しばらく考え込んでも、勇一の中ではその事を思い出す事は出来ない。小さく舌を打ち付け、勇一は軽く頭を横に振った。

「思い出せねぇよ」

「そのうち、嫌でも分かるだろうさ」

「けどよ、何で、お前はそこを通らなかったんだ?」

 勇一の問いかけに、阿修羅は曖昧な笑みを漏らし、遠い目で空を見上げた。

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