第三章

 眼の前に立つ崇の姿に、勇一は眉間に皺を寄せる。

 阿修羅はなんとかすると言ったが、早々に本気を出すことに躊躇いを覚えるのは仕方のないことだろう。

 溜息を吐き出したいのを押さえつけ、勇一は呼吸を整えるべく深く息を吸い込んだ。

「始め!」

 審判の声と共に、勇一は体中に気を巡らせて崇を見据えた。

 それに気付いたのだろう。半瞬ほど驚嘆したように崇は目を見張る。

 だが、ニヤリと面白そうな表情を面の奥で浮かべ、崇の気が鋭く、まるで獲物を見つけた肉食獣のような空気を纏った。

 ―なんだよ、この気は……。

 叩きつけるような凄まじい闘気と共に、崇は不敵な笑みを浮かべている。

 どうやら、崇もまた本気を出していい相手として、勇一のことを認めたらしい。

 本気を出さなければ、やられる。

 その事を肌で感じ取り、勇一もまた崇と同様に先程までとは比べものにならないほどの気を放った。

 二人の気が空中でぶつかり合い、相手の出方を見極めるためにむやみに突き進むまず、慎重な足取りで隙をつくために息を詰め、じっとその互いの出方を見極めるために竹刀の先をぶつけ合った。

 まるで戦場にいるかのような試合だ。

 試合会場にいる全員が、二人の気に押されたように息を飲み込む。

「おい、これ、ほんとにたんなる試合なのか?」

 誰かが、そう呟く。

 だが、誰もその答えを言う者はいない。

 殺気と捉えられても仕方のない空気に、那美もまた小さく息を飲み込んで、思わず、といったように言葉を放った。

「すご……」

「気のよみあいだな」

 感心したような阿修羅の感想に、那美も同意の頷きを見せる。

 一瞬たりとも眼の離せない試合だ。勝敗は、どちらかの隙が出来た時に決着がつくだろうことは、誰もが十分に分かってしまう。

 それほどまでに、両者の気は高校生どころか社会人でさえも出来ないであろうほど、圧倒されるほどの気だったのだ。

 ―仕掛けるつもりは、ないのか……。

 舌を打ち付けたくなるが、勇一の冷静な部分はそう判断を下す。

 勝負は、一瞬で決まる。

 それは、崇も同じ考えだったのだろう。

 どこか苦々しさを浮かべた崇の表情を見とがめて、勇一は一気に間合いをつめた。

 裂帛した気合いと共に、勇一は大上段に構えた竹刀を振り下ろす。

 スピードも、力も、完全に乗せた一撃。

 だが、それを崇は眼前で見事に受け止める。

 驚愕が、勇一の中で走り抜ける。

「くっ……」

 勇一の竹刀を受け止めた崇が、小さな呻き声を上げた。

 ぎり、と歯を食いしばり、勇一は押し返されそうになる竹刀の柄に力を込める。

 受け止められたことにも驚きもあるが、それ以上に、崇が自分の力を押し返そうとすることに勇一は焦りを覚える。

 これを返されれば、自分は殺られる。

 何故か、そう思ったのだ。

 それは直感的なものだが、それでもそう感じ取った勇一は、思わず剣を握ったかのように神力を解放しかけた。

 直後、甲高い音が空気を割る。

 辺りにざわめきが走った。

 それはそうだろう。まさか、二人の持つ竹刀が見事に砕け散るとは思っていなかったのだから。

「や、止めー!」

 慌てて、審判がそう叫ぶ。

 試合の中断に、ほっとした空気が流れる。

 審判は慌てて副審を呼び寄せ、早速この案件について協議を始めるのを見、誰もが勇一と崇の姿を眺めつつ、小声で話し始める。

「お、おい……普通、竹刀ってあんな風に壊れるか?」

「知るかよ!俺だって聞きてぇいぐらいだ」

 安堵すれば、この試合の内容についての疑問に、互いの顔を見合わせつつ誰もがそう話す。

 その全てが、不信と疑惑。そして、驚きに染まっている。

 その声を聞きつつ、勇一と崇は開始ラインまで歩き、審判達の下す結果を待った。

 やがて、審判が苦い顔で二人の間に立った。

「失格!」

 竹刀が壊れたのだ。整備されていないと見なしたのだろうし、そう取られても仕方のないことだと勇一と崇は納得する。

 だが、それに異を唱えたのは、両校の部長達だ。不服申し立てを審判に詰め寄るが、これ以上の試合は勇一としては御免被る事柄だ。

 軽く頭を下げ、勇一と崇は自分達の陣地へと戻る。面を外した勇一が、苦々しげな顔でざわつく剣道部の仲間達へと何事かを話し、そのまま那美達の元へと足を踏み出した。

 近づいた勇一に向け、阿修羅が真顔で話しかける。

「竹刀が、耐えられなかったようだな」

「あぁ」

 冷たい汗が、先程から勇一の背を流れていた。

 これが戦場ならば、骨を切らせてでも生命を取っていただろう。

 それ程までに、崇の強さは自分と同等だったのだ。

 試合が再開されないことに安堵し、勇一はチラリと聖山高校の方へと視線を送る。

 聖山高校の剣道部員と何事かを話し合っている崇の姿に、先程感じ取った殺気はもう見えない。

 そう、あれは殺気だったのだ。

 純粋な闘気の中に込められた、一撃で相手を殺そうとする意思。

 崇がそう考えていたとは思わないが、それでも奥底に隠れてしまったそれを感じ取り、勇一もまた同じように殺意混じりの気を放ってしまった。

 どうかしている。そう考えながらも、勇一は小さく息を吸い込む。

 その姿を見た阿修羅が、口調に笑みを混ぜて問いかけた。

「もう一度やり合う気はないのか?」

「冗談だろ。あの試合だけで手一杯だ」

 渋面になった勇一はそう答え、短く息を吐き出した。



 自分に向けられた視線を感じ取り、崇はそちらに眼を向ける。

 剣道部の部員ではなく、見学者と何やら話し込んでいる勇一の姿を見とがめ、崇は僅かに片眉を上に上げた。

 ―高橋……あいつは……。

 尋常な気ではなかった。

 自分が初めて本気になれるほどの気を持った者を相手にしたのだ。崇としては内心で笑みを漏らしてしまう程、嬉しさを感じられずにはいられない。

「面白しれぇな」

「何が?」

 突如かけられた声に、崇はまずったと言わんばかりの表情を浮かべる。

 それに頓着することなく、崇の背後に現れためぐみは身体を折り曲げてその顔を覗き込んできた。

「ねぇねぇ、何が?」

 ニコニコと笑っているのだが、その瞳と好奇心を顔一杯に貼り付けている。めぐみの性格がひねくれているのは分かってはいるが、これはたちが悪いとしか言い様がない行動でしかない。

 溜息をつきたくなったが、そんな事をすれば答えを聞き出すためにめぐみが手段を選んでこなくなるのは、崇は実体験で分かりきっている。そのため、素っ気ない声音で崇はめぐみの疑問を切り捨てた。

「うるせぇ。お前には関係ねぇよ」

「あー、ひっどーい。

 何で崇ちゃんはそう酷いこと言えるのかな」

 傷ついた、という表情だが、それが演技だと分かっている崇は、ぱしん、とめぐみの頭を叩きつけた。

 そんな崇の行動に、ぶぅ、と膨れっ面になっためぐみの腕を引っ張りながら、崇は人気の少ない場所へと移動する。

 いくら幼なじみとはいえども、公衆の面前で臆面も無く『崇ちゃん』と呼ばれてしまうのは、はっきり言わずとも恥ずかしい。

 それを何度も言い聞かせてはいるのだが、めぐみはそんな崇の言葉に耳を貸す事など全く無いどころか、一向に呼び方を変えることなどない。それどころか、あっけらかんとした顔でめぐみは自分のことを『崇ちゃん』と平気で人前で呼ぶのだから、崇にとってはこの事は頭痛の種にしかならない事柄と断言できる事態だ。

「いったーいなー。崇ちゃん乱暴だよ」

「おーまーえーなぁー、人前で崇ちゃんは止めろって言ってるだろうが!」

「何で?崇ちゃんは崇ちゃんでしょ」

「恥ずかしいんだよ!そう言われるのは!」

「えっ!崇ちゃんがそんなもの感じるの!」

 初めて知ったとばかりにのけぞっためぐみの様子に、崇の口の端が引きつったように動く。

 この幼なじみの口の悪さと性格の悪さは知っているつもりだったが、どうやら再度認識を改める必要がある。

 年を重ねていくごとに、めぐみの中のそれら全ては磨きがかかっているとしか言い様がない。

 無論、崇も同じ事を言えるのだが、それらは今は棚に置いておいて、崇は幾分かきつい口調でめぐみの名を呼んだ。

「めーぐーみー」

「だって、何時も傍若無人、唯我独尊のような崇ちゃんが、そんなみみっちいこと言うとは思わなかったもん」

「……お前、意味分かって言ってんのか?」

「たぶん!」

 ふんぞり返ってそう答えためぐみを見てしまうと、崇は疲れたように肩から力が抜けていくのを感じざるえない。

 大きく息を吐き出し、崇はじとりとした目線をめぐみに向けた。

「どっちが傍若無人で、唯我独尊だよ」

「ん?なんか言った?」

「いいや……」

 どうせ何を言ったところで、自分の説教など右から左に聞き流すのは眼に見えている。

 自分と対等に皮肉の舌戦が出来るのはめぐみだけだったと思い返し、崇は再度特大級の溜息を吐き出した。

「それより、何が面白いの?」

 好奇心を押さえつけるどころか、めぐみは眼を煌めかせながらそう問いかける。

 事を濁せば、後々まで尾を引くのを知っている崇は、呆れたように肩をすくめて一応は注意をするように言葉をかけた。

「何でもかんでも首っつこむなよ」

「だって、崇ちゃんが面白い、なんて言うの久しぶりだもん。

 ここの所、崇ちゃんに喧嘩ふっかけるバカもいないし、退屈で退屈で」

「あのなぁ……」

「そういえば、さっきの試合、かなり本気だったでしょ。

 珍しいと言おうか、初めてと言おうか」

「気付いたのか?」

「もっちろん!」

 上機嫌で肯定し、めぐみは指先を形の良い唇に当て、うーん、と考え込むこと数秒。

 それから、答えを見つけたように、崇に疑問の形で確認の言葉をかけた。

「面白いって、高橋先輩のこと?」

「……あぁ。マジでやり合って、互角に戦えるかどうか、だな」

「へぇー、すごいんだー」

 崇の口から感嘆に近い感想を聞くのは、これが初めてではなかろうか。

 それを言わせた高橋勇一という存在に、めぐみは悪戯を思いついたように無邪気なことを口にした。

「今度は、真剣かなんかでやり合ってみれば?面白いことになるかもよ」

「お前なぁ、んな恐ろしいこと口にするんじゃねぇよ」

「そうかなー?だって、崇ちゃん、どこか楽しそうなんだもん」

 言われて、崇は二、三度瞬きを繰り返す。

 確かに勇一との試合は、崇にとって初めての高揚感を感じた。

 もしも次.があるのならば、今度こそは勇一の実力の全てをひきだしたい。そう思ったのは、崇にとって初めてのことかもしれない。

 めぐみに指摘されるのは悔しいが、本音を言えばその通りなのだから、この場合はわざと苦虫を噛み潰したような表情を崇は作る。

「戻るぞ」

「はーい」

 足早に歩く崇の後をめぐみは小走りにその隣にやって来ると、当然のように並んでその歩調に合わせた。

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