第一章
少年は、目の前に立つ男を見上げた。
彫りの深い、落ち着きと暖かみにあふれた容貌をもち、黒絹のような漆黒の髪と紅色の瞳。そして、額に同色の色を持つ第三の眼。屈強な体躯を黒鉄色の鎧に包み、腰に一振りの太刀を佩いている姿は、そこに立っているだけでも貫禄が溢れ、外見よりも雰囲気は長い年月を生きている事を知らせる空気と重さを持ち合わせ、誰もが長に相応しいと思うにたる人物だ。
彼は、人ではない。
この世界、修羅界と呼ばれるこの世界を治める王。八代龍王の長にして、修羅界に住む神々の一人。
それが、彼の名前だ。
『何が善で、何が悪かなど、我々にはよく分からぬ』
耳へと低いながらも心地よく良く響く声が、難陀龍王の唇を割った。
『だが、滅びの道を歩み始めた世界を見捨て、我らだけ生き延びようとする事は許されざる事のはず。
この三千大世界は、全てが一つであり、一つが全てだ。ただの一つも欠ける事があってはならぬだろう』
「それが、
問いかけに、難陀龍王は微笑む。
包み込むようなその笑みを見、いつの間にか緊張していた身体から力が自然と抜けていった。
『それを宿命と受け取るか否かは、己の心が決める事だ。
己の心を偽る事なく進み、己の心で掴む事こそ大切なのではないか。
諭すわけではなく、ただ難陀龍王自身の考えを述べただけだというのに、たったそれだけの事で不安が軽くなる。
―あぁ、そうか……。
父親だから、ではない。
自分も父の考えに賛同したからこそ、戦う事を選んだのだ。
そう納得した途端、ブツリと映像が途切れてしまったように眼の前が暗くなる。
そうだ、これは、以前自分が体験した出来事だ。
現在の自分が、これに対応することはしていないのだから、記憶のシャットダウンは仕方が無いとは分かっているが、どこか焦燥感に苛まれるのも仕方の無いことだろう。
前世の記憶は、まるでシャボン玉のようにふわふわと浮かび、そして無秩序に思い出されていく。
今も、まさにそれに相当する。
眠気に負けてうとうとと意識を現実と無意識の狭間を揺らいでいた時、ぷかりと心の奥底からそれは浮かんできた。
まるでパズルの欠片だ。少しずつ、今の自分が以前の自分を思い出すたびに、何かが書き換わるような感覚はあるが、それは決して悪い感触だけではない。
もっと、何かを思い出さなければ。
そんな感覚に身をゆだねかけていたが、がくんと身体を揺さぶられ意識が現実へと引き戻された。
「おい!勇一!」
荒っぽい起こされ方に、高橋勇一は座っていた椅子から半ばずり落ちてしまいながら目を覚ます。
呆れを隠す事もなく表す自分を見下ろす友人、遠野秀樹に、勇一は不機嫌な口調と態度と肩に置かれていた手を離すように眼で促した。
「ったく、人が気持ちよく寝てるのを起こすか?普通?」
「お前なぁ、試合相手が来てるのに起こさねぇ、って選択があると思ってるのか?」
「なんだ。ようやく来たのか」
「おう」
剣道着に身を包んだ遠野同様に、勇一もまた紺色の剣道着を身につけている。
一気に室内がざわめきが増したのは、様々な武道系の部活が使用する巨大な武道場内に人が集まったからだ。
色とりどりの制服姿の少年少女達は、割り当てられた更衣室へと足を向けながら、ちらりちらりと互いに対戦する生徒達に視線を送りつけている。むろん、矢沢学園側も、相手校である聖山高校や藤花学園の生徒達の行動を見ては、今日こそは、との意気込みを持ち合わせているのは当然の事と言えよう。
「ったく、めんどくせぇ」
「お、高橋、反抗期か?」
背後から突如首に手を回され、勇一は一瞬息を止める。嫌々ながらその腕の持ち主へと視線を向ければ、食えない笑みを浮かべた剣道部の部長である斉藤の顔が視界に映し出された。
不機嫌全開の勇一は、険のある口調で斉藤に話しかける。
「先輩、俺、退部届出したんですけどね」
「な、なんと!」
「聞いてたんでしょ、その話しは」
「冗談だと思ったぞ、それは」
仰け反るように斉藤はそう返してはいるが、その腕はがっちりと勇一の首を絞めているだけではなく、離そうという気配は微塵も感じられない。
どうやら、退部の件は教師からお達しがあったらしいが、それを冗談、の一言で済ます辺り、斉藤の性格の悪さがにじみ出ているといってもよかろう。
「部長、俺は出るつもりなんか無かったんですけどね」
「出るつもりがなくても大丈夫だ!試合になれば、嫌でもお前の実力を発揮できるぞ!こんな楽しい事はないだろ!」
「ぶぅちょぉー」
地を這うような声が、勇一の唇をついて出る。
だが、そんな事をしたところで、斉藤や遠野が勇一の心情を考えることはないであろう事は、それなりの付き合いの長さから分かってしまう。
小さく舌を打ち付け、勇一は眼の前に突きつけられた竹刀をひったくる。
その行動に、斉藤達は、当然のように何度も頷きを交わしていた。
「やる気はなさそうだが、大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。あぁは言っても、負けることはないんだから」
「お、秋山に天野。お前らも来てたのか」
三人の行動に呆れを含んだような口調がかけられると、そちらを見た斉藤がよっ、とばかりに片手をあげた。
苦笑でそれを受け止めた秋山修こと阿修羅王と、軽く頭を下げた天野那美の姿に、勇一は憮然とした表情を浮かべて二人を睨むようにして見つめる。
「ヒマこいてるんだろ?見物してけよ」
「斉藤先輩、勇一の機嫌が悪くなるようなこと言わないでください」
「そうか?俺は面白そうだから見物に来たと思ったんだがな」
「まぁ、否定は出来ませんけど」
「だろ」
苦笑を帯びた那美の言葉に、うんうんと斉藤は大きく頭を上下に振った。
その様子に、勇一は大仰な溜息を吐き出すと、頭痛を堪えるように額を押さえ込んだ。
那美だけならば、見物に来た、と言われても納得は出来る。記憶を思い出してからの勇一の行動は、一つ間違えば相手を傷つけてしまうだけの神力を発揮してしまうのだから、それを心配してこの場に来たのだと分かっている。
が、阿修羅は別だ。
勇一の
「あぁ、そういや高橋、今日の団体戦の副将は、変更になったからな」
「団体戦の?」
「あぁ。須田の奴、用事が出来たとかで、俺の方に連絡が来た」
ピクリ、と勇一と那美は身体が小さく固まった。
試合などにかまっていられない心情の須田忍の理由は、勇一も那美も嫌になるほど分かっている。
かける言葉が見つからないまま、勇一達はそれでも普段通りに振る舞おうとしている忍の姿を見ていることしか出来ずにいるため、無理をすることはないと言いたくなってしまう。もっともそれは、勇一達が理由を知っているからこそ仕方のないことなのだが。
まだ心の整理がつかない中で試合に出ることを拒否したのは、忍も力加減できずに相手に怪我をさせる確率が高いからだろう。
「まぁ、須田のことだから、どうしようもない用件なんだろうがな」
「そう、ですね……」
慎重にそう答え、勇一は心の中で忍の思いを考える。
もしも自分が同じ立場だったら……。
荒れるどころではなく、自分を責め続けるだろう。
忍も、同じかもしれない。
淡い思いを抱いた忍は、同様の感情を持つ少女の心を受け止めていた。そんな忍の眼の前で、恋した少女が亡くなったのだ。
時間がたてば、少しずつではあるが立ち直るだろう。いや、そうならざる得ないのが現状なのだ。
そう考えながら、勇一は何とも言えない表情を浮かべつつ、現れた相手校の選手を眺めていた。
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