第3話『幸福なハンス』
ハンスは売れない画家だ。
一月に売れる絵も精々一枚か二枚目なのだから食べていくのが
やっとの稼ぎしかない。
だがこの男は別に食うに困るわけでもない。
なぜなら彼はそれなりの端正な容姿に加え、
女性たちに甘える術を知っているからだ。
元々家族もいない男寡婦であるから「お金がない」といえば
誰かが小遣いを持たせるし、「腹が減った」といえば
また誰かが飯を食べさせてやるのだ。
ハンスは代わりに女性たちの似顔絵を描いてやる。
人によってはベッドで念入りに奉仕する事もある。
酒も博打もやらないからなんとかなるのであるし、
女性の容姿や年齢などは気にならない質である上に色欲は強い方だから、
毎晩違う女性と床を供にしたりする。
今日も朝から何も食べ物がないからと、街頭で
スケッチブックを手に座り込んでいれば、
興味ありげなマダムたちからお声がかかる。
「あらあらこの子痩せ干そって食べてないの?私が何かご馳走してあげる」
如何にも貧民救済の精神で近づいてくるマダムの善意にすがりながら、
ハンスは悪びれる事はない。
もちろんいつか画家として食べていきたいという大志は持っているのであるが、
彼の絵はなかなか大成はしなかった。
「俺は絵を描く事でマダムたちに夢を見させているのだ」彼はその頃の境遇を
このように解釈している。もちろん彼に近づく者たちの中には、
画家の思いなど一切わからぬ癖に巧言令色をもってすり寄り、
ハンスの身体を弄ぶ輩もいる。
だがそれは女性に限っての事ではないから、
人間とはそのようなものなのであろうと、ハンスは思っている。
先日は金持ちの商人がハンスを屋敷に連れ込み、手足を縛り上げられ責めを受けた。
どうやら彼の夫人がハンスをいたくお気に入りで、
嫉妬に駆られた亭主が異種返しにハンスの身体を慰みものにしたのであろう。
だがハンスは別段変わらず今日も街頭のベンチに座る。
もはやそんな事で自分の行いを変えるつもりはないからだ。
彼は自分を楽しむ事が出来るように心がけていたからだ。
例えば街頭のパン屋の娘に声をかけ、パンをひとつ買うとする。
すると娘はハンスに顔をぐっと近づけ小声で「オマケしておきました」と
多めにパンをくれたりする。
これににっこり笑って手を握り、「ありがとう」と答えるのが彼なりの
感謝の方法であった。至極当然の行為ではあるが、
よく考えるとこのやり取りはとてもよくできたやり方である。
若い娘はハンスの容姿に惹かれたのか、それとも憐れに思ったかはわからない。
単にマダム達ほど色欲に忠実でないだけかもしれぬ。
しかしオマケしてあげた事で彼女はハンスに感謝され、
彼女も憐れな画家に施しをしてあげたというほのかな幸福を得られる。
つまりお互いが相手に功徳を与えているのだ。
ハンスは文盲なので、聖書のありがたい言葉の意味もよくわからないが、
彼は多くの女性に功徳をもらい、それが彼からの功徳であったのである。
ハンスの友人がある時、「お前はいいな、絵が描けるから女にモテる」と
やっかみを言った。普通なら怒るか、逆に自慢したりして良さそうなものだが、
ハンスは妙に納得して「なるほど、主イエスは多く持てるものは少なき者へ
分け与えよと言ったが、私は他人に幸せを分けているのかもしれない。」と言った。
ハンスが描く絵はどれも明るい色彩で、
どんなモデルでさえも笑顔が素敵な女性に描かれる。
若い娘も少し大人びて見え、シワだらけの老婆も美しい貴婦人になってしまう。
最初は周囲も「多少は若く美人に描いてやらないと女どもは五月蝿いからな」と
納得していたが、どうやらハンスにはモデルの顔がそう見えているのでは
あるまいか?友人たちは密かにそう囁きあった。
彼は老婆であろうと見目が悪い下女であろうと、
腹が醜く垂れた年増であろうと、最愛の恋人であるかのように扱った。
どんな身分の者であれ、ハンスに好意を与えようとするならば、
一言「私を描いてほしい」と言えば良かった。
人々にとって絵はハンスとの接点であり、
その門戸は誰にでも開かれていたのだから、
「絵が描ける自分は幸せ者」という気持ちが芽生えるのは当然であろう。
ハンスはある日裁判にかけられた。
罪状は『たくさんの女性に不義密通を扇動した魔女』である。
男の魔女とは滑稽であるが、ハンスへの異端審問は厳しいものであった。
容赦のない拷問が加えられたが、街の男たちは皆いい気味だと笑った。
長い拷問の末、街の広場でハンスは火炙りにされたが、
表だって誰も悲しむ者はいなかった。しかし彼の描いた絵は
婦人たちによって秘蔵され、後世まで伝えられたという。
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