合唱コンクール事件 後編

 詰まる所、僕に残された手段はたった一つ『楽譜を読む』ということだった。

 右手、左手、それぞれ下から「ド、レ、ミ、ファ、ソ……」と数え、一音一音カタカナで楽譜にメモしていく。

 ♯(シャープ)や♭(フラット)と言った記号に悩まされながら地道に音を拾っていくその作業は、まさに苦行である。

 このまま仙人にでもなってしまいそうな気分だった。


 結局、この作業を終わらせるのに、貴重な土曜日を丸々使うことになってしまい、せっかく買ったメタルギアソリッドを全く進められなかったのをよく覚えている。


 何はともあれ、楽譜をカタカナに起こすという、十年近くピアノをやっている人間とは到底思えない恥ずかしい所業を何とかこなした僕は、早速ピアノの前に座り、弾いてみる。

 が、しかし、僕の書いたカタカナ通りに弾くと、これが違和感だらけ。

 どう考えても間違っていると聞く者に痛感させる演奏が家中に響き渡った。

 年代的に元々この歌を知っていた親も、「違くね?」と首をかしげ、僕と同じくピアノを習っていた兄と姉も「絶対違うww」と笑いながら断言した。

 

 その言葉を聞いて、僕は


「そうか、やっぱり違うんだな」


 と納得した数秒後、


「はてさて、どうしたものか」


 と、再び頭を悩ませることとなった。


 理由は簡単で、どこが間違っているのか分からないのである。

 耳で聞く限りでは、明らかにおかしいのは分かるのだが、僕の書いたカタカナのどこが間違っているのか、また正解はどの音なのか。

 それは僕だけでは、もうどうしようもない、完全にお手上げ状態だった。


 と言う訳で、普段お世話になっているピアノの先生のところに楽譜を持っていき、一度楽譜通りに弾いてもらう事に。

 そして抑える鍵盤と指の位置を確認すると、それはそれは間違いが腐るほどよく見つかる。

 僕はその日のうちに間違えている個所を全て書き直し、以降の練習は一人で行った。

 練習は問題なく進み、その内楽譜を見ずとも弾けるようになった。

 学校で行われる合唱との合わせも問題なく進行。

 僕がピアノを弾くことができると知らなかった友人たちに、『楽譜見ないなんてすげぇ』とちやほやされる気分は、それはそれは心地が良いものであった。

 そしてとんとん拍子で色々なことは進んでいき、遂に迎えた合唱コンクール当日。

 順番として、学年の低い順に歌っていく為、当時一年生だった僕たちはトップバッター。

 しかも、僕が伴奏を務める『学年合唱』はその中でもさらに一番最初であり、その年の合唱コンクールにおける正真正銘の初演奏が僕の伴奏によって成り立つのだと思うとかなり緊張した。


 しかし当然のことながらそんな緊張のことはいざ知らず、合唱コンクールは普通に進行し、あっという間に出番がやってきてしまった。

 一年生全員で舞台に並び、伴奏者である僕は前に立つ指揮者と目を合わせてギャラリーに向けて一礼。

 ピアノの椅子に座り、指揮者が四拍子を刻み始めるとそれに合わせて僕も伴奏をスタートさせる。

 非常にいい滑り出し。

 このまま指の動きに身を任せていれば、何とかこの伴奏を終わらせることができそうだ。

 そうやってしばらくの間、安定した指捌きを見せていた僕だったが、二番のBメロ付近で事件は起きる。

 

 指が鍵盤から滑り、一度だけ音がかすれてしまったのである。

 それだけのことなら誰も気には留めなかっただろうが、問題はその後だ。

 完全に指の動きだけでピアノを弾いていた僕にとって、『指が滑って音を外す』というのは全くの計算外。

 指の動きのパターンに当てはまらないのだ。

 故に、それ以降僕は鍵盤のどこを押していいのか分からなくなり、伴奏は完全に音を失い、体育館には突然のアカペラ合唱が響き渡った。

 その間およそ二小節。


 三小節目くらいからは僕も若干の冷静さを取り戻し、演奏に復帰することができた。

 それからはこれと言ったミスなく終わったが、あの空白の二小節は僕のプライドを大きく傷つけ、今でもトラウマとして脳裏に焼き付いている。

 皆に申し訳ないという気持ちでいっぱいになり、涙も流した。

 やたら励ましてくれる友人の言葉が余計に辛かったのをよく覚えている。

 アレ以降僕はピアノ伴奏の依頼を受けたことはほとんどない。

 僕みたいなプレイヤーはソロプレイで一人で楽しむのが性に合っているようだ。

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