第9話 竜宮の井戸

九、竜宮の井戸


清美は海から上がろうとする太陽を見ていた。

同じ様に横で見つめている琴代の表情からは、昨日の懊悩が嘘の様に消えていた。

巫女舞を見終えたあと、琴代はその場に固まって瞬きもせずに巫女のいた場所を見ていた。そして「竜宮の井戸・・」と呟いたのを清美は聞いた。それ以降、懊悩が琴代の表情から消えた。

それは清美も同じだった。 昨夜、御食媛神社で神秘の巫女舞を見てから、祖母達の事情のことは、もうあまり苦痛にならないほど癒やされていたのだ。


 一点のまばゆい光が海の彼方から差した。輝かしい朝の光だ。その光は瞬く間に力を増して顔を温めて、一日の始まりを教えてくれる。周囲も朝のエネルギーに満ちた光りが広がってゆく。

琴代が振り返り、背後の山を見た。

清美も振り返って黄金に輝く御食媛神社がある山肌を見た。夜露に濡れた木々から蒸発した霧が立ち上がっている。

「朝日の家か・・」と、清美は思わず米子お婆ちゃんのいる保養施設の事を思った。


「・・米子お婆ちゃんもこの朝日を見ているのかしら・」

「きっと見ているわ。京都でも良く見ていたもの」

「そう言えば、お婆ちゃんたちが作った会社も太陽がつくわね」

「そうね。きっとこの朝日の事ね」


 もはや間違いは無い。あの事件で清美たちのお婆ちゃんたちが、この地を離れて京都に移ったのだ。そして、リタイヤした後にこの地に戻る事を夢見て、必死に働いた。故郷に上がる見事な朝日の事を忘れられなかったのだ。この朝日が希望そのものだったのかも知れない。

「この朝日が、お婆ちゃん達の故郷への想い、その象徴なのかもね」

「きっとそうだよ。間違いない」


その日の少し後のことである。

琴代と清美は、白い海女装束を着て海に入っていた。

 そこからは、岬の白い灯台が近くに見えていた。麦崎岬の灯台で、二人のいるのはは竜宮の井戸と言われているあたりだ。

その傍に舟が漂っている。船の上には、真智子さん夫婦が乗っていて彼らは心配そうに、二人を見ている。


 真智子さんが民宿浜屋を尋ねて来たのは、朝食前だった。

「早速だけど、竜宮の井戸に行ってみるかい?」

と、二人の顔を見た真智子さんが言った。

「えっ、良いのですか。本当に?」

「本当ですよ。だからわざわざ誘いに来たのよ。行くのなら亭主の船で送迎するわよ」

 琴代は清美と顔を見合わせた。


まさか、真智子さん夫妻が竜宮の井戸に連れて行ってくれるとは思ってなかったのだ。真智子さん夫妻だけでなく、誰もそんな所に連れて行ってくれるとは思っていなくて、最初のテーマの竜宮の井戸の探索はほぼあきらめかけていたのだ。


 二人は顔を合わせて同時に頷いた。

「それでは是非お願いします!」

「じゃあ、九時頃に湊においで。いっとくけれど私は、船の上から手助けはするけれど潜らないよ。あなたたちだけで潜って見て来るのよ」


「解りました。それで結構です。宜しくお願いします」

 泳げない琴代も昨日一日の経験で、深い所に潜ることがさほど怖くなくなっていた。それに伝説の竜宮の井戸が見られるのだ。何よりも好奇心が勝っていた。

琴代と清美は真智子さん夫妻の案内で、竜宮の井戸のある所まで船で送って貰うと、二人同時に竜宮の井戸に向かって潜水しようとしていた。


 琴代は清美の顔を見た。

清美も真剣な顔で琴代を見た。

二人は顔を見合って頷くと、調子を合わせて同時に潜った。体を大きくグラインドさせて分銅と一緒に一直線に深みを目指した。

体が軽い。まるで海底に向かって海水が流れて行くが如く、グングンと深度が増した。巨大な岩礁が、すぐ傍に見えて来た。その大きな岩の下を潜る。流れが二人を誘導してくれるかのようだった。


(あった!)

 岩の間に直径二メートルほどのコバルトブルーの丸い穴が開いている。黒々とした岩を背景に、それはまさに海中にポッカリと浮かんでいた。


(竜宮の井戸は、本当にあったのだ・・・)

琴代はしばらくそれを見つめていた。隣では驚いた顔の清美が同じように見ている。


どのくらいの時間が経ったのだろう?

不思議な事に、そろそろ切れる呼吸の兆候が無い。陸にいる時みたいに自然で楽なのだ。

その丸い空間の中に小さな人影のようなものが浮かんだ。それは、急速に近付いて来た。


(トモカズキ・・)

白装束、白手拭いの海女の姿のそのものは、海女の不思議な話で聞いていたトモカズキに間違い無かった。だが海の魔物や亡くなった海女の亡霊と言われるそのものは、不思議と怖くなかった。


(・・わ・わたし?)

そのものは、琴代の顔をしていた。もう二人に触れそうなところまで来て、止まって二人を見つめていた。それから、二人の手を取ると頷いた。


それが琴代には案内してあげると言う意味に思えた。それで琴代もつい、頷いた。

するとそのものは、二人の手を取ったままゆっくりと竜宮の井戸に戻ってゆく。


泳ぐ早さは、始めはゆっくりだったが、次第に早さを増した。そして猛烈な水圧が体を締め付け、体が回転して渦巻いてゆく。

琴代は気を失うまいと歯を噛みしめて必死に耐えて、目を見開いていた。だが廻りは暗く、何も見えなかった。


やがて、渦が無くなって上昇している自分を感じた。手を繋いでいるのは、いつの間にか清美に変わっていた。二人の廻りにトモカズキはいなくなっていた。


上方にポッカリとした丸く明るい空間が見えた。二人は、その丸い空間を目指して真っ直ぐに上がって行った。

顔が水面から出た。

そこは石垣に囲まれた池のような丸い空間だった。苔むした石垣がぐるりと廻りを囲んでいた。石垣の上には緑の草が生い茂っていた。

(ここは、どこなの・・・)


「階段があるわー」

 隣から、ふいに清美の声が聞こえた。好奇心旺盛な清美の顔を確認すると、少しホッとした。

清美が示す方向をみると、石垣の一角がくびれて細くなっている。その奥には、確かにこちらに降りてくる石段が見えた。その石段の先は水の中に沈んでいた。


 二人はそちらに泳いだ。すぐに足先に石段が触れた。体を起こして足に体重を掛ける。石段は少しヌルヌルしているが、しっかりと体重を支えてくれた。

 石段を上がって行くにつれて、廻りの風景が広がって行く。清美と手を繋いだままだ。


そこは美しい緑の草原と森に包まれた空間だった。草原には、様々な木々が葉を付け、色とりどりの花を咲かしていた。ドーム状の空は、コバルトブルーにぼんやりと光り、柔らかい明るさで空間を満たしていた。二人は回りを見渡してその夢の様な空間を眺めた。


階段を上がった所の両脇には、白衣の娘たちが立っていた。その白い着物は、二人が身につけている海女装束とほとんど同じ物だった。娘達は井戸から上がった二人に、白い手拭いを渡した。


「ありがとう」

と言って受け取った二人は、手拭いで顔を拭った。その手拭いは夢の様な触り心地でいつまでも触れていたい感触だった。

 だが、既に顔は水に濡れていなかった。それどころか、海に潜った髪も着物さえも乾いていた。


「!」

 二人は同時にそれに気付いて、目を丸くして見合った。そして顔を戻した二人に娘達微笑みを返した。


二人の居る場所から、緑の草原の上に平行した二本の花の列が伸びていた。それが道を表わしているのだろう。道は井戸を一周してあちらこちらへと花の列を延ばしていた。その美しさは、まさに夢幻の世界だった。

草原を囲むように、少し離れた所に白い壁が続いている。そこに開けられた扉が見え、花の列の一つは、緩やかに曲がってその扉に続いていた。


「ここが竜宮城ね」

と、思わず廻りの光景に見とれていた琴代は呟いた。

「いよいよ、琴代の世界に入ってきたわ・・」

琴代の呟きに清美が答えた。


しかし、彼女も夢幻の美しい光景に目を奪われていた。咲き誇る花々や草や木々は、今までに見たことの無い種類だった。音はしない。動くものは、色鮮やかに花々を飛びまわる蝶々だけしか見えなかった。

「行くよ」

と、どちらとなく言うと、二人は、門に向かって歩き始めた。

「トモカズキが、あたしだと分った時には驚いたわ」

 清美の目には、トモカズキが自分だと見えていたのだ。


「私には、自分に見えたよ」

「そう言う事か・・しっかし、ここ、現実離れしているね」

「竜宮城だもん」

「そうだよね。だとしたら、私たちが元の世界に帰れたとしても、何百年も過ぎているのかなあ・・」

「うん。九人の海女もそうなったのかもね。でもそれを今考えてもしかたがないわ」

 その言葉で、琴代が無敵の不思議ハンターになっている事を知って、清美は勇気が湧いた。

「だよね。こうなればなるようになれだね。さあ、鯛やヒラメの踊りを見に行きましょう」


 門の中には、四人の娘達が待っていた。

門と言ってもそれは空間がポッカリと空いたシャッターか大きなドアと表現出来るものだった。SF映画に見た宇宙船の大きな扉といえば、的を射ているだろう。空間を遮る壁は何か薄い物で出来ていて草原を大きく取り巻いていた。

二人は彼女達に囲まれて、門の中に入った。


そこは、街だった。草原を取り巻くように曲がって延びる道の両側には、商店が建ち並んでいた。その商店の間には路地が延びて、その小道沿いにも建物が建ち並んでいた。

だが、商店や路地にも渦高く埃が落ちていて、長い間人の往来がなかった事を示していた。おとぎ話の様に、魚たちが空中を泳ぎ回っているという事もなかった。


「誰もいないね・・」

「うん。こうなると逆に寂しいね・・」

「あのう、此所に人がいたのはどのくらい前ですか?」

と、琴代が横にいる案内の少女に聞いた。

 だが、少女は首を傾げて、口に手を当てた。


「話してはいけないのかな・・」と、清美が言うと、

「違うわ。彼女たちは、きっと知らないのよ」

 琴代の言葉に、少女は頷いた。


「それに多分、口が聞けない」

「えぇ、そうなの?」

 少女たちは、大きく頷いた。


「ちょっと、見て行きましょう」

と言って、琴代は商店の一つに入って行った。それを案内の少女は特に止めようとはしなかった。


 そこは「カゴ屋」だった。大小様々なカゴが陳列してあった。

「へえー、見たことが無い形の物もあるわね」

 カゴは基本・円形だったが、丸い物、細長い物、途中がくびれた物、その中には模様のような物が、複雑に組み合わされた見慣れぬ形の物もあった。


 清美は風化したそれが、壊れるかも知れない、と思いながらそっと触れてみた。ところが意に反してそれはしっかりとした手応えがあった。

「これ、今でも使えるよ」

「ほんとだ!」

 清美の声に、傍のカゴを手にした琴代が言った。

「材料は、蔦みたいな植物ね。これって、いったい放置されてどのくらい経っているのかしら?」

と、琴代が少女の方を見て言った。だが、少女は困ったように首を傾げるだけだった。


 路地を鋏んで隣の店は、すぐに解る瀬戸物屋だった。おなじみの皿やお椀が並んでいた。見ていて安心出来る光景だ。だが、店の奥に入った琴代が立ち竦んだのが分った。

「どうしたの? 琴代」

「うん、須恵器みたいなのがあって・・」

「ほんとだ。まるで博物館みたいだね」

 そこには、綺麗な曲線を描く青みがかった素焼きの土器が並んでいた。完成度は高い、高い技術の陶工が作ったのだろう。


「これ、きっと今でも売れるよ」

幾つかの商店を覗き見して進んだ。布や紙から様々な生活用品を扱っていただろう商店があった。中には、ナイフや包丁などの刃物、鋤や鍬・鎌など農業で使う道具も置いてあった。


「ここでは、生活に必要な物が何でも揃いそう・・」

「大勢の人たちが暮らしていたのね。その人達は、何処に言ったのだろう?」

 二人は顔を見合わせて首を傾げた。いずれにせよ、遠い昔の事には違いない。


 街を進むと、広い場所に出た。広場の正面は一段高くなっていて、案内の娘達は、二人をそちらに誘導した。

そこには左右に二人ずつ、四人の伴を従えた高貴な女性が待っていた。高貴な女性は、白い着物に緋色の袴を着けた巫女の姿だった。

白い着物は海女装束とは違い袖が長く優雅に垂れていた。頭に付けた丸い金の飾りが一際目を惹くその顔は、二人のよく知っている顔だった。


「比奈子!」

 驚く二人に、比奈子は頷くとゆっくりと喋った。

「琴代、清美、ようこそ竜宮城に」

 その声は厳かで神韻としていたが、懐かしい比奈子の声に違いなかった。


「ここは、あると信じる人だけが見られる幻の世界よ。現実の世界とは違います」

「幻の世界・・・」

「でも、あたしたちは、実際にここに来た・・」


「そう、二人は竜宮井戸があると信じた。だからここに来る事が出来た。ここは、時間も空間も超越した世界です。二人が昔の事件を探っていると聞いて、私が連れて来て貰ったのです」

「・・・私達、比奈子に連れて来られたの?」


「そう。その時に起こった事件の事は、ほとんどの人が知らない。誰も知らないと言っても良い。ただ、米子お婆ちゃんを除いてはね。だから、町の人にいくら尋ねても無駄でした。ですがあなたたち二人は、その事をいずれは知って貰う必要がありました。だから、それを説明するために、私がここに招きました」

「米子お婆ちゃんは、やっぱり行方不明になった海女の一人・斉藤よね子さんだったの?」

 琴代は、比奈子の言葉を聞いて問い返した。


 比奈子は頷いて、後を振り向いた。

すると、彼女に従っていた内の一人が前に出て来た。それは、清美によく似た体つき、丸い顔も清美の雰囲気に良く似ていた。


「清美、わたしが斉藤よね子よ。もっとも、あなたのお母さんを産むのは、まだ十年も先の事なのだけれど・・」

「うっそー」

と、清美が声を出した。

琴代も瞬間、背中に電気が走った。

その人の声は見掛けどおりの若い声だった。だが、確かに米子お婆ちゃんの面影があった。


「光子お婆さん、勝代お婆さん・・・・」

 四人の内の他の二人にも、見覚えがあった。

十年ほど前に亡くなった山形勝代お婆さんと三年前に亡くなった伊集院光子お婆さんだ。光子お婆さんは、比奈子の実の祖母だった。

「・・・と言う事は、比奈子の後の人達は・・」

と、清美が呟いた。


「そう、あの時の事件で行方不明になった四人の海女たちです。実は彼女達は、生きていました。三人はそれぞれの寿命を全うして、亡くなりました。米子さんはまだ生存しています。昭和二十二年の六月に何があったか知って貰う為に、私が彼女たちをお呼びしました」


 残りの一人に琴代の目がいった。

すらっとした姿、細面の顔立ちは、確かに自分に似ていた。「琴代は、お母さんの若い時によく似ているわ・・」と、母がこの頃の琴代を見てよく言っているのだ。


「あなたが私の孫の琴代ね。私はさち代ですよ。あなたが生まれる年に死んでしまって会うことが出来なかった。こうして会えて嬉しいわ。ほんと、和子が言うとおり、私によく似ているわ」

 一歩前に進んで来たその人が、琴代に向かって言った。

とても慈愛に籠もった目だった。

琴代はその人から目を離すことが出来なかった。

「お・おばあさん・・・」

 琴代は思わず、壇上にいるさち代お婆さんに触ろうと進んだ。

だが、壇に上がろうとした一歩が動かなかった。そこには透明な壁があるようだった。


「ここでは、話をする事は出来ても、お互いに触れあう事は出来ないの。それをすれば、元の世界に二度と戻れなくなる。だから壁を作りました。ここでは同じ空間に居るようでも、存在している世界が違うのよ」

と、比奈子が説明した。

たしかに、亡くなった人や生きていても何十年も若い時の人に会えるとは存在している次元が違っていた。

「比奈子はここに来たのね。だから、連絡先を誰にも教える事が出来なかったの?」

 いつも三人仲良く行動していたのに、ある日突然比奈子は消えてしまったのだ。


「そうでもあるけれど、それはいずれ事情が分るときまでの事だった。それが今です。事情を知って貰えれば、以降は昔のように連絡取り合ったり、会ったりする事が出来ます」

「本当、又、昔の様に一緒に遊んだり出来るの?」

と、清美が懐かしい友に尋ねた。


「出来ます。私にも現実に生きている世界がある。それは、清美の生きている世界と同じです。だから、自由に行き来出来ます。その前に、ここに来た目的を知って貰う必要があります」

と、比奈子が言って、両手を翳して呪文の様なもの唱えた。


「・・・カシコミカシコミ、ワレオオイニネガイタテマツル」

両者を遮る壇の堺に、ぼんやりとした半透明の空気が横たわり広がった。

皆はそれを避けて丸くなった。

丸い半透明の空気の壁が、中心から割れて丸い広がりを見せた。

その中に風景が見える。

それは、岸壁にへばりつくような小さな建物だ。小屋の周りには、漂流してきた木ぎれが沢山積み上げられている。


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