番外編 オーディエントの鬼姫
第200話 オーディエントの鬼姫(前)
「初めてお目にかかりますお
両の手の平をお臍の前に、左手の手を上にして添えたルリアは、僅かに頭を下げて、目上のひとに対する礼をした。
館の応接室に招き入れられ、始めて顔を合わせた夫の父親は、灰色の髪に深い湖のような青色の瞳をしていた。頬から顎にかけて髭を蓄えた顔には少し皺が寄り始めているが、本来であればまだまだ働き盛りと言っていい年齢のはずだ。
ロバートは話し渋っていたが、ルリアが聞き出したところによると、オルドーは法務卿としてオルトラント王国で要職を務めていたのだが、一〇年程前の失策によってその責めを負い、職を辞することとなったそうで、その後彼は家督をロバートに譲ったのだという。
胸に右の掌を当てて僅かに頭を下げた彼は、その青い瞳でルリアを見極めるように見つめていた。
「ルリア殿……愚息のこと、そしてエヴィデンシア家のこと、これよりよろしく頼む。儂は隠居した身ゆえ、大きな力にはなれぬかも知れぬが……」、そう言ってルリアの隣に並ぶ自身の息子、ロバートに一度軽く視線を走らせると「いまの此奴よりは身軽であろうから、何かあれば言ってくるがよい……
エヴィデンシア家の前当主オルドーはそう言うと、少し戯れた様子で笑って見せた。
顔に髭を蓄えている為に厳つい印象を与えるが、そのように笑って見せると雰囲気がなんとも好々爺じみて見える。
エヴィデンシア伯爵家といえば、多くの法務卿を輩出したオルトラント王国譜代の家柄として、ルリアも家庭教師より耳にしていたので、頭の中に厳つい堅物の人物像を浮かべていたのだが、実際のオルドーはその柔和な面差しを誤魔化す為に髭を蓄えているようだった。
ルリアは
「父上。迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした」
彼の謝罪は、マーリンエルトの療養所でルリアとの婚姻を決めてしまったこと、そして、その後に生じたオルトラントでの手続きを
「いや……ロバート。我が家の置かれた状況と、お主のその身体の状態を知ってなお、嫁ごうと申し出てくれたルリア嬢の為の骨折りだ。それにオーディエント家からも公王殿より許可を得たとの書状を寄越してくれたからな。バレンシオめに蔑みの言葉を掛けられたことなどなんということも無かったわ」
そう笑い飛ばすオルドーを見て、今度はルリアが僅かに気まずそうな表情になってしまう。
それは、もう少しじっくりと進めるべきだと腰の引けていたロバートに対して、彼女が強引に決断を迫ってしまったからだった。
ルリアの僅かな表情を見逃さず、オルドーが包み込むような優しい微笑みを彼女に向けた。
「書状を持ってきたマーリンエルトの使者が、『まさか、オーディエントの鬼姫の心を射止める人間がいるとは……マーリンエルトの社交界では大騒ぎになっていますよ』と言っておったから、どのような女子がやって来るかと思っておった。だが、そのいたたまれなそうな様子を見るに、恥じらいを知る可憐な娘ではないか」
そのように評されたルリアは、顔を赤く染めて俯いてしまう。……ただ、その内心での思考は少々過激だった。
エヴィデンシア家への使者は誰だったかしら? 公王宮から使者に立つとしたらバシュレ子爵? リサージュ伯爵? マティウス殿下に聞けば分かるかしら?
ルリアは、どちらかだろうと目星を付けた貴族の顔を頭に思い浮かべた。
次にマーリンエルトに帰ることがあったら、軽く修練場にお付き合い頂こうかしら。
オーディエントの鬼姫……それは、周囲から彼女につけられた
もちろん密かに付けられたものだが、それが周囲に広まってしまえばどうしても本人の耳に入る。
そもそもお父様が『鬼熊』ですものね。
だからといって嫁ぎ先のお義父様にそのような話をするなんて……。
神によってハルメニアと名付けられたというこの
この世界の管理を神より託された七竜王が棲まう中央大陸。
この大陸には、中央をぐるりと囲む円環山脈と呼ばれる山々がそびえ立っていた。
そして、竜王たちによって生み出された人間たちは、この円環山脈の外側に生活域を広げている。
山脈の内側には、竜王たちが人間を生み出す際に生まれてしまったという、凶悪な魔物や魔獣たちが封じられているのだという。
円環山脈の外側には、獣や若干の魔物たちも生息している。
しかしそれは、竜王たちが人間に対して致命的な害にならないと判断したモノたちだ。
その中に、
彼らは人間のように二足歩行をして、概ね人間の倍近い大きさまで成長する。さらに頭に鋭い角の生えているのが特徴的な魔物だ。
彼らはとても凶暴で、幼体ですら人間の成人が一対一で退けることが難しく、成体ともなると中隊規模の討伐部隊が編成される。
山脈外に放たれた魔物の中でも脅威的な存在だと人間たちに認識されていた。
ただ幸いなことに彼らは殆ど群れることはなく、繁殖期以外は雄と雌ですらも共に行動することが珍しいのだ。
彼らのような強力な魔物は、人間が驕ることのないようにと、竜王たちが与えた試練だとも言われている。
つまりルリアは、マーリンエルトの貴族たちの間でそのような魔物にたとえられているのである。
ちなみに
「ところでルリア嬢。荷物はそれだけなのかな? それに、気心の知れた使用人を伴ってくるかと考えておったが、供もそちらの侍女? ――が、ひとりだけか?」
オルドーが、ルリアの背後に控える侍女……というよりも侍従に近い男装の使用人に目を向けた。
艶めいた紺色の髪に鮮紅色の瞳をした彼女は、まるで気配を消すようにしてルリアの背後に立っている。
女性と分かるのは、その美しい容姿と明らかに胸の膨らみが女性だと主張しているからだ。
「……それは……」
ルリアが説明するのに口が淀むと、その顔に怒りを浮かべたロバートが悔しそうに口を開いた。
「父上、バレンシオの奴ですよ……。早々に嫌がらせをして来たのです」
「どういう事だ?」
「国境の関所にまでヤツの手が伸びていたのです。オーディエント家はルリアの私物を乗せた馬車と、あと何人かの使用人を遣わせてくれたのですが、関所で入国規制をされたのです……」
そこまで言ってロバートはグッと唇を噛みしめた。その時の屈辱を思い出したのだろう。
床に突いた杖がブルブルと震えるほどに、身体を支える腕に力が入っている。
「……罪を犯したエヴィデンシア家が、マーリンエルトでも勇名を誇る武門の家の人間を引き入れて、マーリンエルトと共謀して謀反を企んでいるのではないかと、そう難癖を付けられました……」
声を震わせてそう言い切ったロバートの言葉が、シーンとした応接室の中に溶けていく。
そんな息子にオルドーが申し訳なさげな視線を向けて、髭の生えた顎に手を添えた。
「あの地の領主はランドゥーザ伯爵の親筋であったか。あの一族はバレンシオに取り込まれているというわけか、オルトロス陛下より婚姻の許可を得たというのに……。バレンシオめ、そこまでするか……なぜ、彼奴はあのようになってしまったのか……」
そう沈み込んでしまった親子を目にして、ルリアは努めて明るい調子で口を開く。
「ロバートより話には聞いておりましたが……まことにこのような窮状に追い込まれておいでなのですね。……これは、なかなかに戦い甲斐のある相手であるようですね。そのバレンシオ伯爵とかいう方は……」
その挑戦的な物言いにオルドーが目を見開いてルリアに視線を向けると、ロバートはあわあわと慌てて口を開いた。
「おいルリア、物騒なことを言うものではない。あの事件より一〇年あまり経つが、我が家が手を尽くしても、いまだに確かな証拠を手にすることができずにいるのだ。それを、今日我が家にやって来たばかりのお前が何をするというのだ」
「だからこそですロバート。オルトラントの人間でない私の視点が、新たな道を示すかも知れません。……お義父様、私に事の詳細を教えて頂きとうございます。エヴィデンシア家に嫁いだ以上、私は既にオルトラントの人間です。どうか、我が家の為に戦わせてくださいませ」
一六歳という年齢の娘の可憐な容姿には似合わない挑戦的な光を、その赤黄色の瞳に湛えるルリアを目にして、オルドーは初めて彼女を見出したように息を呑んだ。
「……なんと、まことに使者殿の言っていたとおりであったとは。だが、いまの我が家にとってこれ以上頼もしい嫁はおらぬかも知れぬな……。分かった、あの後我が家が独自に調べ判明していることは教えておこう」
◇
エヴィデンシア家の現状を聞いた後、ルリアと供としてマーリンエルトよりやって来た男装の侍女は、久しぶりに顔を合わせた親子水入らずの会話の邪魔をしないようにと応接室より辞した。
応接室では、館の中でルリアの目に入る事になる使用人たちの数人も紹介され、ルリアたちは執事のアルフレッドに案内されて、これよりさき生活することとなる夫婦の居室に移動した。
案内された居室には、既にルリアの荷物が片付けられていて、ふたりは軽く部屋の中を見て回ると、近くに人の気配が無くなったのを確認して、男装の侍女が口を開く。
「お嬢様……何をそんなに浮き立っておられるのですか。私、この家がここまでの窮状に追い込まれているとは考えておりませんでした。こんなことなら、もっと強く反対しておくのでした」
彼女の鮮紅色の瞳には麗しげな光が揺れている。
「まあアネット姉様、やりがいがあるではないですか。私、はじめて
フンと息を吐いたルリアに、アネット姉様と呼ばれた侍女は、呆れとも諦めともとれる表情になる。
「貴女は……外見だけは深窓の令嬢のように見えるのに、変わらないわね。でもルリア様、いまの私は貴女の縁戚ではなく侍女なのですから、立場はしっかりとわきまえてくださいね」
「姉様は頭が固すぎです。二人きりのときくらいいいではないですか。姉様は私の師匠でもあるのですから」
ルリアはプウと頬を膨らませて甘えるように言う。
アネットは、今はルリアの侍女として仕えているが、元々はオーディエント家の縁戚に当たるオーディアス男爵家の五女で、ルリアが得意としている
彼女は幼い頃より、成人後は家庭教師や小間使いなど、上位の使用人として貴族家に仕えることを考えており、その一環としてオーディエント家にてルリアの面倒を見ていたのだ。
彼女は数年前より、とある伯爵家の家庭教師として仕えていたのだが、ルリアの婚姻話が正式に決定すると、伯爵家の職を辞してルリアの元にやって来たのだった。
アネットはプリプリしているルリアを、少し呆れた様子で見つめる。
「それにしても、私だけでもオルトラント入りできてよかった。国の重責を担う財務卿に偏執的な憎悪を向けられているエヴィデンシア家に、貴女をひとりで解き放ったらどのような暴発をするか……ガァーンド様が私に耳打ちした訳がわかりました」
「まあ、やっぱりお父様の差し金だったのですね! やっと馴染んできたと仰っていたお屋敷を辞してまでお姉様がやって来たので、私、不審に思っていたのです」
「ガァーンド様が心配するのも当たり前です。
「だって、その……好きになってしまったんですもの、仕方ないじゃないですか」
それまで、まるで戦場に赴く前の戦士のように、湧き上がる猛り抑えているようだったルリアが、突然、年相応の乙女のように頬を染めたのを目にして、アネットは深く息を吐き出した。
「どちらにしても……ここまで来てしまったのですから言っても詮無いことでした。ところでルリア、気が付きましたか?」
アネットは、侍女というよりは歴戦の戦士のような眼光を湛えてルリアを見つめた。
その視線を受けて、ルリアも表情を正す。
「ええ……あの使用人たち、殆どが武術の心得がありますね。あの執事も……無手で戦ったら勝てないかも知れません。おそらく彼らも、私たちの力量を推察していた」
生徒の正しい答えに満足する教師のようにアネットは頷いた。
「敵ではない事が救いですが、まさか伯爵家の使用人たちが手練れ揃いとは、いったいどういう家なんでしょうエヴィデンシア家というのは」
「何を言っているんですか姉様。頼もしいではないですか、私、早く彼らと友誼を結びたいものです」
懸念の響きがあるアネットの言葉を、ルリアは楽観的に受けて止めて見せるのだった。
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