第199話 ある兵長の決断

 オルトラント王国の首都オーラスは、巨大な城壁都市である。

 都市の中央に王城がありそれを守るように第一城壁が巡らされている。

 その外側に貴族や多くの上級市民たちが生活する区画がありその外周を第二城壁が守っている。

 そして第二城壁の外側には上級市民と市民が暮らす街が広がっていて、第三城壁はその街を守っていた。

 都市建造に魔法を使うこの世界では、十数ベルタキロに渡る城壁の工事も数年で完成する。

 オルトラントが王国として形を為して五〇〇年近く、今では第三城壁のさらにその外周にまで下級市民たち住まう区画が広がっているほどだった。


「これはレオン殿、早いですな。こんな時間に出仕ですかな?」


 第二城壁の市門で、顔見知りの門兵が疑問顔で聞いてきた。

 四十半ばのこの男は、レオンが常備軍に入ったばかりの頃、一時期上官であった男だ。

 彼は年齢もあって、いまは市警部隊に異動していた。

 別に市警部隊が年寄りで固められているわけではないが、市警部隊の指揮を執る上官として常備軍から歳のいった兵長が異動することが通例となっているのだ。

 自分もあと十年もしたら、彼のようにここで門を守っているかも知れないな。などという思いが頭をよぎる。

 だが口に出したのは別の言葉だ。


「ええ、ちょいと興味深い御仁の下に付きましてね。その御仁の鍛錬に付き合っているんですよ」


「ほう。レオン殿、いまは兵長でしたな。ということは上官は騎士なのだろう? こんな早くから鍛錬とは、確かに珍しい御仁だね。平民上がりの出世頭ってやつかね?」


「……それが貴族のボンボンなんですよ。それもつい最近まで蛇蝎だかつのように嫌われていた男でしてね……」


 レオンの頭に、ここ何日か毎朝のように剣を打ち合わせている男の顔が思い浮かんだ。



「ほらグラードル卿、脇が甘いですよ」


 そう言いながら、力を込めて、搗ち上げるように打ち合わせた剣を振り上げた。

 打ち上げた剣を受け流そうとしたグラードルの剣が、レオンの強撃によって、そのまま手から離れ、グルングルンと円を描いて後方へと飛ばされた。

 ここ数日の鍛錬でハッキリとしたことだが、相手をしているグラードルは、受け流しからの切り返しが特徴的な柔の剣を使う。

 そろそろ四ヶ月ほど前になるが、戦場で怪我をしたあの時までは、剣の型も何も無い、ただむやみに剣を振り回すだけの男だった。

 そのグラードルが、これほど短い時間で、明らかに一つの剣技の型を身に付けている。それはある意味異常なことだ。

 さらにレオンが違和感を抱くのは、グラードルが覚えたばかりの未熟な剣技を使っていると感じられないところにあった。

 あえて言うのならば、持っている剣技に対して、己の身体能力が追いついていない……そう感じ取れるのだ。


「ひと休みしますか、グラードル卿。その様子だと手が痺れているようですし」


 レオンの強撃によって剣を弾き飛ばされたグラードルは、たたらを踏むようにして背後に座り込んでしまっていた。

 身体の前では、剣を飛ばされた形のままの手が僅かに震えている。

 グラードルが痺れたその手をグッと握り締めて、レオンに視線を向けた。

 剣を打ち合わせていた最中の真剣な表情からは力が抜けて、どこか気の抜けたような様子になる。

 以前は、いつもどこか下卑て見えた彼の表情には、今は朴訥とした誠実さが滲んで見えた。


「なかなか巧くいかないな。剣の流のようなものは感じるのだが……まだまだ体力が追いつかない」


「いえいえ、貴方が真面目に鍛錬するようになって、まだそう日が経っていないんですから。そんなすぐに対等に立ち回られたら、こっちが兵士として自信を失うってもんですよ。……それにしてもグラードル卿。その剣技はどこで覚えたんですか? 以前はもっと……そう、力業だったと記憶しているんですがね」


 鎌を掛けるように発せられたその言葉に、グラードルが僅かに瞳をグラグラと動かす。


「あっ、いや、まあ、療養所での休養中にな……。そこで色々と聞きかじったんだ。考える時間はそれこそ三月もあったからね。今はそれを試しているんだ」


 明らかに先ほどまでの剣の鍛錬によって吹き出た汗とは違う汗を、グラードルがダラダラと流した。

 その様子を目にしたレオンは、気にはなったものの、それ以上そのことについて問いただすことはしなかった。

 いまレオンにとって興味があるのは彼の過去ではなく、この明らかに人の変わったグラードルという男。

 この男が、この先どうなっていくのか……そこにこそ興味をそそられていたからだ。



 それにしても……あの時の汗を流し瞳をグラグラと揺らしたグラードルの表情を思い浮かべて、レオンはククッと相好を崩す。

 目の前の門兵の男が、そんなレオンに対してなんとも複雑そうな表情になっていた。

 だが男は、レオンの言葉を吟味するようにして口を開く。


「それはまた厄介そうな……だが、『嫌われていた』、ということは……?」


「ええ、いったい何があったのか――心を入れ替えた様子でしてね。あの御仁がこの先どうなるのか……見届けてみたくなったって訳ですよ」


 男は、レオンに自分の考察を肯定されたからか、僅かに気を良くしたように笑みを作った。


「なるほど。君ほどの男が見込んだというのなら……その御仁の名前を聞いても良いかな? このさき名を馳せる御方かも知れないからね」


「その御仁の名は……エヴィデンシア伯爵家のグラードル卿って御方ですよ」


 己の口から発せられた言葉が、想像以上に誇らしく響いたことにレオンは、『ああ俺は、あの御方のことをこんなにも気に入っていたのだなぁ』と、我がことながら驚くことになった。





「確か、この辺りに纏めておいたはず……」


 拉致されたグラードルが無事に救出され、軍務部の合同演習から王都へと戻ったレオンたちには数日間の休養日が与えられた。

 レオンは久しぶりに第三城壁内にある住居へと戻り、ある捜し物をしていた。

 それは、亡くなった母が残した遺品だ。レオンがその母の遺品を捜しているのには理由があった。

 拉致されたグラードルを救出する為に自ら動いた彼の妻フローラ、そしてその夫婦に従うアンドルクという使用人たち。

 彼らと時間を共にしたのは、昼から夜間までという短い時間であった。だがその時間が、レオンに過去の記憶を思い出させたからだった。


「そう……確かに、エヴィデンシア家と言っていた」


 自分が幼かった頃に兵士だった父が死に、女手一つで自分を育てた母も流行病で亡くなってそろそろ一〇年になる。

 あの日……母は確かに、もしもエヴィデンシア家に復興の兆しが見えたならば、そしてそのとき、エヴィデンシア家の当主が、お前が仕えるに足る人物であると思えたならば、エヴィデンシア家の力になってほしい……と、そう言い残して逝ってしまった。

 あのときの俺は、残される自分の心配ではなく、他人の家の心配をして逝った母への怒りが強く、その言葉も僅かに頭に残っていただけだった。

 それに、遺品の殆ども片付けてしまっていたが、母が、これだけはと言って残した遺品は。捨てるに忍びなく普段目に触れない場所に片付けておいたのだ。


「まったく……我ながら、若い若い」


 いまになって考えてみれば、一五歳で常備軍に入隊して、既に生活の糧を得る術を持っていた自分のことを、母は安堵していたのだろう。

 グラードル卿に興味を持って以来、この耳に入って来た情報だけでも、エヴィデンシア家がどれほどの苦境に立たされていたのか窺い知れた。まあ、現行でもその苦境は大して変わっていないようではある。

 それにグラードルから耳にした話では、彼が家に入るまでエヴィデンシア家には使用人が居なかったようだ。

 詳細は分からないが、グラードル卿救出に動いたアンドルクという使用人たち、まるであの家専属の間諜組織のような――かれらのエヴィデンシア家へのあのような忠誠心が一朝一夕で生まれるものではない。


「お袋も……彼らアンドルクに関係していた? もしかしたら親父も……」


 レオンがそう思い至ったのと同時に、彼は捜していた母の遺品をその手に取っていた。

 レオンの家は、父親の代で市民から上級市民へと成り上がったと聞いている。レオンとしては、オーラスで石を投げればクライスに当たるとも言われる、建国王の名をもじった姓を付けた父親に対して、思うところが無いではないが、この世界は厳然たる階級社会であって、上級市民でなければ就くことができない役職がある。

 自分がいま兵長という立場にいることができるのも、上級市民という地位があるからだ。

 だがこの先、あのグラードル卿が栄達したとき、自分があの人の役に立とうと考えた場合……取れる道は二つだ。

 手柄を立てて騎士爵の地位を得るか、今ひとつは、母が残したコイツを使うか……。

 レオンの視線の先、自分の手の内にあるのは、簡素だが造りの良い小箱だった。

 今回の事件が起こった演習が始まる前、グラードル卿は元軍務卿のバーナード様の孫であるレオパルド殿に絡まれていた。

 レオンは演習前に騒動が起こるのを収めようとして口を出したのだが、不味いことにレオパルドの怒りを買ってしまったのだ。

 結局、自分の取った行動が騒動をさらに大きくしてしまったようなものだが、己を庇って矢面に立ったグラードルの行動と、その決着後に彼が示した事態の落とし所に、彼は強く心を動かされたのだ。

 それまでは唯々、突然人の変わったグラードルという男への興味で、彼の下に就いていた。

 だが今では、この男が目指す未来。

 それを共に目にする為に力を尽くしたい……という思いが、胸の奥底から溢れてくるのを留めることができずにいた。

 母は……同じような思いを、エヴィデンシア家に対して持っていたのだろうか?


「これを、なんと言っていたか……。確か、どこかで示せばと言っていたような……」


 正直、気安い兵士たちを纏めるのは性分に合っているが、自分が騎士としてグラードル卿の配下に就くことは性格的にムリがあるだろう。

 ならば残る道は一つだった。

 レオンは、あのとき苛立ち紛れに聞いていた母の言葉。

 その薄れてしまった言葉を、懸命に頭の奥底からたぐり寄せるのだった。



「貴方の気持ちは分かりました。我々としては願ってもない申し出です」


 セバスと名乗った男は、レオンの話を聞くと一つ軽く頷いてそう言った。

 彼はエヴィデンシア家の使用人を纏める執事だという。

 スラリとした長身で、レオンより頭半分くらい背が高い。艶めいた黒い髪をピタリと撫でつけていてこめかみのあたりの髪だけが白くなっているのが特徴的だ。

 母親の言い残した言葉、その言葉を断片的ながらも思い出したレオンは、細切れの情報をつなぎ合わせてなんとかアンドルクに繋ぎを付ける事に成功したのだ。

 いま、指定された場所で、レオンはやって来たセバスと相対している。

 ここは第三城壁内の外れにある小さな館の部屋だった。


「貴方のような方がご主人様の側に居てくれるということは願ってもないことだ。レオン殿……貴方の立場は貴重です。できれば貴方にはこのまま、何も知らない振りを通して頂きたい。貴方が我々アンドルクと繋がったことはしばらく私の胸の内に留めておきます」


「それはいったい?」


「ご主人様……いえ、実際にはエヴィデンシア家ですね。貴方も薄々気が付いているかも知れませんが、エヴィデンシア家は財務卿であるバレンシオ伯爵によって不当な立場へと追いやられているのです。かの御仁との暗闘において、レオン殿、貴方のような人間の存在は攻防共に我らの強みとなる」


「なるほど……。俺は何も知らないただの知人として動いた方が、敵からグラードル卿を守りやすいってことですね」


 そのレオンの言葉に、セバスは薄い笑顔を浮かべて静かに頷いた。

 彼ら、アンドルクというエヴィデンシア家の密偵めいた働きをしている使用人たち。もしも彼らが、長くバレンシオ伯爵の抱える者たちと暗闘しているとしたら……確かに、面の割れていない人員は重要な意味を持つだろう。


「話が早くて助かります」


「なら俺は、これまでどおりを装って、グラードル卿の身の回りに気を配っていればいいってことですね」


「ええ……それと、貴方にはこれを頭に叩き込んで頂く」


「こいつは?」


 差し出された分厚い紙の束を目にしたレオンは、その紙にびっしりと書き込まれた文字に目を剥いた。


「そうですね。これは、暗号のようなモノだと考えて貰えば……」


「あっ、暗号……ですか」


 目の前にある分厚い紙の束をペラペラとめくると、どのページにも不思議な文字と、その単語らしきモノの発音の綴り、そしてその単語の意味が記されている。

 暗号というだけのことはあり、複雑怪奇な組み合わせの絵のようにも見える文字らしきもの、さらにその複雑な文字を単純な形の表記にしたらしき文字が二種類あるようだった。


「これを……記憶するんですか?」


 レオンは、生まれて初めて自分の声が引きつって聞こえるという体験をした。


「はい。記憶して頂きます。それから、その資料は他人の目に晒さないよう、さらに記憶した先から頁を燃やすなどして廃棄をお願いします」


 まるで当然のことのように言うセバスを目にして……こいつは、早まったかな。と、レオンは己の決断に僅かな後悔を覚えるのだった。

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