第190話 モブ令嬢とそれぞれの明日(前)

「ばぅぅ、あぅぁ――きゃ、きゃ、くぅぅ……」


「シュクルのことだから大丈夫だとは思うけど、気を付けてね」


「大丈夫なの! マリウス、笑ってるの。シュクルはマリウスが笑うと嬉しいの!」


 レンブラント伯爵邸を訪れた翌々朝、朝食を終えた私たちは、早く出仕なさる旦那様を見送りました。

 いまは、シュクルと一緒にマリウスをあやしながらサロンで憩いのひとときを過ごしております。

 ソファーに掛けている私の前のテーブルには、メアリーが入れてくれた紅茶が置かれていました。

 館の庭を望む大きなガラス戸の手前では今、シュクルがマリウスをあやしております。

 ……ただ、彼女は魔法を使ってマリウスを空中に浮かべておりますので、大丈夫だとは分かっていても少しドキドキいたします。

 メアリーが二人の近くで静かに佇んでおりますが、なにげにいつでも飛び出せるように身構えているようにも見えました。

 当のマリウスはおくるみに包まれたまま、空中できゃっきゃと笑顔を浮かべて喜んでいます。

 先日、同じような光景を目にした旦那様が、『この子は大物かも知れない……』と、子煩悩さを発揮して仰っておりました。

 でも……口には出しませんでしたが、私もそう思っていたりします。


「そらマリウス、くるんくるんなの!」


「うぅぅ……あぶぁ、きゃきゃっ――ばぅぅ……」


 ゆっくりと、空中でくるんくるんとマリウスの身体が回りますと、先ほどよりも興奮した様子でマリウスがはしゃぎました。

 その様子を目にしたシュクルは、自分にも浮遊魔法を掛けて飛び上がりますと、マリウスを背後から抱えて自分も一緒にくるんくるんと回り出します。


「シュクルお姉ちゃんの揺り籠なの!」


 マリウスはしばらくの間、きゃっきゃと声を上げてはしゃいでおりましたが、そのうち眠くなってきたのでしょう、瞼がうつらうつらと閉じられて、眠り込んでしまいました。

 シュクルは眠ってしまったマリウスを愛おしそうに抱いたまま、ソファーの上にポフリと着地いたしました。

 そうして、マリウスを自分の上に抱いたまま、シュクルも眠ってしまいそうに瞼が下がり始めました。

 ですが、その瞼が突然パチリと開きます。

 それと同時に、聞き慣れた鳴き声が屋敷の外、少し遠い場所から響いてまいりました。

 それは最近、私の親友がやって来る合図のようなものです。


「ママ、マリウス預けるの。シュクルは朝のお仕事なの」


 シュクルが、マリウスを起こしてしまわないように注意しながら身体を起こして、名残惜しそうにマリウスを私に手渡します。

 マリウスをシュクルから受け取りましたら、彼女はむずむずとした様子で、サロンから階段へと駆け出して行きました。


「シュクル、はしたないですよ」


 私も、まだまだ首が据わらないマリウスの首を支えながら、シュクルの後を追って静かに階段へと足を進めます。

 一階のエントランスへと下りましたら、斜め後ろに付き従っていたメアリーが、足を速めて玄関のドアを開けてくれました。 

 私が、玄関ポーチから屋敷前のアプローチへと出たところで、半ば前を走る犬たちに引きずられそうになりながらアルメリアも走ってまいります。


「フローラおはよう! 今日もいい天気だね! 絶好の散歩日和だよ」


 ……アルメリア、ほぼ毎日の光景ですが、その姿は散歩には見えませんよ。

 それにしましても、アルメリアは彼らととても馴染んでいて、時々、犬だけが集団で走っているように見えてしまいます。

 私、たまにアルメリアを見つけるために見返してしまうことがあるほどですもの。

 開け放たれている門を通り過ぎて、犬たちはまっしぐらに貴宿館の前で腕を組んで立っているシュクルの元へと駆け寄って行きました。


「ミュラ、クルン、フーク、トラウ、チュチュル、みんな整列なの!」


 ミュラを始めとして、シュクルに声を掛けられた犬たちが、見事に彼女の前に並びました。

 綺麗に横一列に並んだ犬たちを満足げに眺めて、シュクルはさらに口を開きます。


「番号なの!」


 彼女の言葉に、犬たちはわん、わん、わん、と順番に吠えてゆきます。

 いつも思うのですが、シュクルには彼らの言葉が分かっているのでしょうか?

 とりあえず、犬たちがシュクルの言葉を理解していることは分かるのですが……。


「むふぅ~~~っ、みんな良い子なの!」


 シュクルは満面の笑みを浮かべて犬たちに近づくと一頭一頭その首に手を回して、ヨシヨシとあやしてあげます。

 シュクルよりも大きい犬たちが、まるで子犬のように甘え声をあげて鳴く姿を見ますと、彼らはシュクルの事を絶対的な上位者として慕っているように見受けられます。

 やはり、動物の本能として、シュクルの姿ではなくその存在の持つ力が感じられるのでしょうか。

 シュクルの様子を見ていると、元気のいい姉が、素直な弟たちを従えてご満悦といった感じがしました。

 そんなシュクルを目にしながら、私の横にやって来たアルメリアがため息をつきます。


「はぁーーっ、いつ見てもシュクルは凄いね。私、いまだにお手をさせようとすると頭の上に足を乗せられるのに……」


「アルメリア、君はまだ犬たちに一番下の階級だと思われているんだ。彼らが君の命令に従わないのはそれが原因だよ」


 そう言いながらアルメリアの後からゆっくりとやって来たのはミシェル様でした。

 彼は四年経っても、相変わらず薄茶色の髪を毛糸の帽子を目深に被ったような髪型をしておられて、年齢よりも若い――というよりも幼い印象を受けます。


「ミシェル様、いつもご苦労様です」


 ご自分の家の犬を捜査局に供出なさっておられるミシェル様が、日課としておられる犬たちの散歩をしながら我が家へと立ち寄りました。

 彼は、細い目の奥にある黄緑色の瞳に、煌めくような光を湛えて微笑みます。


「フローラ様――いつ見てもシュクル様はさすがですね。ボク以外にあの子たちがあそこまで心を許すのは彼女だけですよ。アルメリアも、あの躾に厳しい母上を怯ませるだけの力を持っているんだから、もっと彼らが従ってもいいと思うんだけど……。ところで、グラードル卿は?」


「旦那様は、引き継ぎのために既に出仕なさいました」


「慣れない環境の中での栄達ですから、グラードル卿も大変ですね。……ああ、アルメリア、ボクは先に捜査犬課の訓練所に向かうから、君は出仕時間までにきちんと彼らを訓練所に連れてくるようにね。先日みたいに屋敷に引きずられて行ってはいけないよ」


 そうアルメリアに声を掛けて、彼はゆるゆると我が家を後にいたしました。

 マリウスをあやしながらミシェル様を見送って、私はアルメリアに視線を戻します。


「アルメリア、ご夫婦で同じ職場に出仕するというのはどういう心持ちがするものですか?」


 私がそう言うと、アルメリアは目に見えて顔を赤くいたしました。

 実は、アルメリアのいまの姓名は、アルメリア・カレント・ヒルデスハイムと申します。

 学園在学中にミシェル様と正式にお付き合いを始めて、今年学園卒園を機に二人は結婚いたしました。

 既に公認の仲ではございましたが、クルークの試練の達成者であり、さらに邪竜事変でも邪竜討伐の一助となったアルメリアには、それは多くの求婚がございました。

 その中には侯爵家からの縁談話もあったのです。

 それらを丁重に断ってお付き合いを深めていたミシェル様の元へとアルメリアは嫁ぎました。

 それはもちろんミシェル様と心を通じ合った事もあるのでしょうが、アルメリア曰くミシェル様のお母様の存在も大きかったようです。

 なんでもとても礼儀作法に厳しいお方で、以前、ミシェル様に何回か持ち上がった縁談話が、全て立ち消えになったのは、お母様の存在が大きかったのではないかと旦那様が仰っておりました。

 ですがアルメリアは息を荒くして『最高の環境だよ! あんなに厳しくして頂いて、私は……私は……』と、感激しておりました。

 彼女は幼くしてお母様を亡くしておりますし、厳しくとも、母親に色々と教えられるのが嬉しいのでしょう。

 そういえばあの時、ミシェル様が『まさか、母上の方がたじろぐ姿を見ることになるとは……』と仰って、旦那様が生温かい目で、私とアルメリアの遣り取りを見ておいででした。


 さらに申しますと、彼女は近衛からも入団を嘱望されていたのですが、結局ミシェル様がおられる法務部捜査局への入局を希望して、現在では捜査局の一員です。

 ですが、近衛として最適な戦闘術であるブランバルトの使い手でもある彼女は、陛下がノーラ様を伴って外遊なされるときに出向という形で近衛に召し出されております。

 マリウスが生まれた後、一度ノーラ様が祝いにやってきてくださいました。

 その時に仰っていたのですが、クルークの試練達成者であり、クルーク様より偽神器バルトを賜ったアルメリアが供として居ることで、外遊先で有利に話が進められるそうです。

 これが男性のレオパルド様ですと、圧力が強すぎて相手を脅迫しているように受け取られかねないので、アルメリアの存在には助けられているとも仰っておりました。


「えっ、あ、うん――その、捜査局では毎日冷やかされるし……正直に言って、その、最高だよ」


 ……えーと、なんで冷やかされて最高なのでしょう? 以前、痛いのや恥ずかしいのが好きだと言っていましたが、そういうことなのでしょうか?

 ですが、朝日を浴びてはにかむように笑うアルメリアがとても幸せそうなので、疑問を口にはいたしませんでした。ただ彼女の首元に光るものを目にして、私は別のことを口にいたします。


「アルメリア……相変わらずそれをしているのですね」


「フローラ、君だってそれをしているじゃないか。旦那様から贈られた大切な結婚の証だもの、できる限り着けていたいんだ。……私はあの人のモノだって感じられるから」


 私の言葉を受けたアルメリアは、私の左手薬指に嵌められた指輪を目にした後、自分の首にあるそれを愛おしそうに弄りました。

 マリウスを抱く私の左手の薬指に嵌められた指輪。

 四年前の邪竜事変の後少ししてから、旦那様が照れくさそうにして私に贈ってくださったモノです。

 なんでも旦那様の前世の世界には、結婚指輪と呼ばれるモノを贈る習慣があったそうで、我が家も生活に余裕が生まれたからと、贈ってくださったのです。

 実は、この指輪のことが学園内で話題になりまして、旦那様が結婚の祝いとして贈ってくださったという話をいたしましたら、いまではオルトラント中にこの、結婚指輪を贈る習慣が広まってしまったのです。

 私……それでなくとも大変な結婚の行事の中に、経済的な負担の掛かる風習を加えてしまったようで、心苦しくなってしまいました。ですがこれまでは結婚の証となる品を相手に贈るような風習はございませんでしたので、多くの方より記念となって良いと言われて、少しホッといたしました。


 ところで、アルメリアは記念の為に身につける装飾品を贈るものだと勘違いしておりまして、結婚指輪を贈ろうとしたミシェル様にいま首に着けているものを暗におねだりしたそうです。

 既に結婚指輪を作っておられたミシェル様が、旦那様にどうしたものかと相談にやって来まして、それを聞いた旦那様は、しばしの間頭を抱えておりました。

 結局、さすがに人を引き紐で繋ぐわけはないのだからと、引き紐を繋ぐ部分にその指輪を付けて結婚首輪なるモノが製作されることとなったのです。

 なんとはなしにですが、これが広まらなかったことにホッとした心持ちでおります。


「そうだ! フローラ、以前見せたエヴィデンシア家とグラードル卿の事を描いたあの話だけど、こんどヴェルザー商会が新たに興した書籍部門から出版されることになったんだ。これで、グラードル卿に対する世間の誤解が少しでも緩和されればいいんだけど」


「まあ、そうなのですか。我家のために……ありがとうございますアルメリア」


「私と君の仲じゃないか、水くさいことを言わないでくれよ」


「アルメリアにあんな特技があったとは、あの話をはじめて見せられたときには驚きました。でも、あれだけ本を読んでいるのですから、不思議ではないのかも知れませんね」


 邪竜事変の後、その原因が旦那様であるなどという噂が出回る事となりました。

 それは、陛下を始め多くの皆さんが否定してくださったおかげで、噂は下火になったものの、それでも口さがない方々の中にはいまだにそのような話をする方もいるそうです。

 それに憤慨したアルメリアが、私より聞いた話を元に、旦那様の前世の話を除いて、我家と旦那様の話、私たちの婚姻から邪竜事変の解決までを物語として書いたのです。


「アル・メリーって言う作家名で出版される事になったから、発売されたら進呈するよ」


 アルメリアは、そう言って嬉しそうに笑います。

 その後、シュクルがミュラたちと戯れているのを見やりながら、しばしの間アルメリアと私は、貴宿館を去った皆様の最近の動向を話し合う事となったのでした。

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