第188話 モブ令嬢と当て馬だった旦那様(四)
……その日、少年は草原の草むらにいました。
父親が関係しているらしい荷物を運ぶ馬車に隠れ潜んで、少年はいま自分が住んでいる、王都と呼ばれる城壁に囲まれた街から外に出たのです。
少年にとってそれは、父親の愛情を試す為に行った、幼さ故の思慮の浅いとても無謀な行動でした。
自分が居なくなれば、普段自分の事を顧みない父親も、きっと慌てて自分を捜してくれるはずだと……。
ですが、少年がいくら待っても、誰も探しにやって来ません。
それは当たり前です。少年は行く先の手がかりも残さずに屋敷を、そして王都を出たのですから。
そんな事に思いも至らない少年は王都の市門が遠くに見える草原で、お腹が減るのを我慢して待っていました。
昼が過ぎて、そうしてさらに日が傾き、空が赤く色づいて、少年が寂しさに目に涙を溜めはじめたころ、彼はそれを目にしたのです。
遠くの空にキラリと光るモノが飛んでいました。
初めは鳥のようなモノかと少年は思いました。ですがそれは、見る間にどんどんと大きくなって行きます。
日の光を反射して眩いばかりに金色に輝くそれは、視界に入る王都と比較して、とてつもなく大きなモノである事が分かりました。それが空を飛んで近付いてきているのです
そして、少年は理解しました。
「あれは……竜王様?」
たしか、嫌みな家庭教師がこの世界を管理しているとか言ってた。
少年がそんな事を考えている間にも、それは彼の頭上を通り過ぎて行きました。
とても……とても大きな金色の竜でした、少年は頭上を通り過ぎて行く竜を振り返ることも忘れて見上げ、そのまま後ろへと倒れ込んでしまいました。
倒れた瞬間、少年は思わず目を瞑ってしまいます。
そして倒れ込んでしまった少年は、その体勢のまま目を開けました。
すると驚いた事に、その僅かばかりの間に、空を飛んでいた金色の竜は居なくなってしまったのです。
「おや……少年、このようなところでなにをしているのかな? その身なり、見たところ農奴や農民ではなさそうだが?」
そう声を掛けてきたのは、バリオンを背中に背負い、吟遊詩人姿をした、金色の髪に黄土色の瞳の色を持った男性か女性か判断に迷う……トルテ先生でした。
「父上を待ってるんだ」
「おやおや……このようなところで? 約束しているのかい?」
少年はブンブンと首を振ります。
「ふむ……もしかしてこれは、家出という奴だろうか?」
先生はそう仰って、考え込むように少年を見つめました。
「……この少年……、間違いなく愛し子に繋がってる。しかし、当の本人はいったい何処に居るのだろうか? 産まれたのを感じてすぐにやって来たというのに。この辺りで間違いないはずなんだが……ああ少年、ジリジリと逃げようとしないでくれないか。おそらく君の待ち人は、簡単にはやって来ないと思うよ。君は王都の人間だろう? ならばあの中を捜すだけでも何日かかるか……その間に、君は餓えるか、その身なりを見た邪な人間に、身の代金目当てに誘拐されかねない。ボクが送って上げるから一緒に王都へと戻らないかな?」
そう言ってニカリと笑って見せる先生に、少年は僅かな警戒感を抱いたものの、急速に暗くなって行く空の恐怖が勝って、先生に向かって頷いたのです。
少年を伴って王都へと向かう先生は、ぽつりと小さく呟きました。
「それにしてもこの少年……心の内に穢れのシミが見える。それについてはヨルムの奴が居ないからなんともしようが無い。この先おかしな事にならなければ良いんだけど……未来は揺らぎが大きすぎて、さすがのボクにも見通せないからな~~。……そうだ! ボクが彼に祝福を授けてあげれば……そうすれば、ボクの祝福――希望が彼を、愛し子へと繋がる未来へ繋いでくれるはず……」
それは少年の耳にも届いていましたが、彼には何のことかさっぱり分かりませんでした。
まさか……いまの旦那様となる前、旦那様の悪しき企みがことごとく失敗なされたのは……もしかして、この先生の祝福のおかげだったのでしょうか!?
そう思った瞬間、その幻影は消え去り、私はまた強い圧力を伴った暗く濁った空間に居るのだと理解させられました。
そうして、水の中で感じる、浮力のように私の身を押し返す力が掛かる方向から、まるで私を導くように、また光り輝く泡、それはもう間違いようもありません、旦那様の過去の記憶が浮かんでまいります。
私は懸命に圧力を押しのけて泡の浮いてくる方へと進みます。
彼の記憶を取りこぼさないように、私はあえてその泡に触れながら深部へと向かいました。
少年時代の旦那様は、以前お義父様が仰っていましたが、確かに使用人たちによって大事――というよりは腫れ物を扱うように、大切にされていたようです。
ですが彼が本当に求めていたもの、肉親の愛情は得られなかったのです。
そして……愛情を得られなかった少年は、狂おしいばかりに愛情を求めて、次第に
愛情を知らずに育った彼の行動は誰にも理解されず、彼も自分のなにが悪いのかまったく分かりません。
愛してほしいと、目に付いた女性たちに言い寄るモノの誰にも相手にされず、その女性たちに手を出そうとすると、理不尽に喜劇のような出来事が起こって失敗し、ついには自分を馬鹿にしていた男たちに攫われる。
何故誰も自分を理解しないのか、誰も自分を愛してくれないのか……胸の奥から湧き上がってくる狂おしいばかりの苛立ちに突き動かされて、かれはついに最後の狂行に出ます。
…………え?
次々と昇ってくる記憶の泡を通り過ぎて、私の中に大きな疑問が浮かびました。
いまのは……おかしくありませんか?
私がそう思う間もなく、次の泡が私に触れました。
それは……
「なッ、なんで……奴ら、俺を……簒奪教団め……俺を騙したな!」
それは、間違いようもなく旦那様の声。
泡の中にある記憶。
簒奪教団を名乗る男から渡されたモノ。そして聞かされた言葉。
これを身体に取り込めば、竜王様のごとき力を使える伝説的な存在、竜騎士になる事ができるのだと。
しかし、何でもできそうな高揚感があったのは初めのうちだけ、それが終わると、今度は自分の中にあったナニかが、急速に吸い上げられて行く感覚です。
そして、固まったように動かなくなってしまった視界に映ったのは、見えている手がどす黒く変色して、次の瞬間ドロリと溶けるように崩れて行く光景でした。
それは、私たちが王家のお茶会の折りに目にした、ローデリヒ様の身に起こった現象とよく似ておりました。
ですがこの場所は、王宮の庭園ではありません。先日褒賞授与式典のあった謁見の間です。
これは、新政トーゴ王国による、トライン辺境伯領への侵攻を退けるのに活躍した方々への褒賞式典です。
これは……いったい誰の記憶?
先ほどまで、私は旦那様の過去の経験を垣間見ているのだと思っておりました。
まさか、これが旦那様の仰っていたゲームとやらの記憶なのでしょうか?
……ですがこれは……物語と言うにはあまりにも生々しすぎます。
いえ……この記憶が告げております。これは現実に起こったことであると……。
そして……己の身体が崩れ去って行く中、この人は気が付きます。
己がもう助からないということに……ですが不思議でした。
皆が己を嘲り、責め、罵り。
それによって湧き上がる狂おしいまでの怒り……それが心の中から抜け落ちて、心はとても静かにこの情景を諦めと共に受け入れようとしておりました。
そして自分が、五〇〇年前に討伐された、邪竜の依り代とされたことにも気が付きました。
諦めが心を充たして、邪竜へと成り果てようとしている彼の目に最後に映ったのは……己を取り巻く人々の後ろ、一筋の涙を流し己を見る女性、それは……私でした。
己が顧みなかった妻、
彼の瞳に映った私……あのドレスは、王家のお茶会まで私が着ていたものです。
彼の脳裏に、私の声が響きます。
『グラードル様、そのように深酒をなされてはお身体に障ります』
『グラードル様、人の評価など気になさらず、励めばきっと見る方は見てくれます』
『グラードル様、何故そのように焦っておられるのですか? 日々の暮らしが幸せであればそれで良いではないですか』
『グラードル様』
『グラードル様……』
不意に、彼の心の中にとてつもなく大きな後悔の念が湧き上がりました。
それを聞いたときには『小娘が忌々しい綺麗事を』、そう思われた言葉、その言葉になんと深い慈しみの情がこもっていることか……。
ああ……自分が狂おしいほどに求めていたものはこんなに近くにあったのに……、なぜ……何故自分は気が付かなかったのだろう。
彼女は、ずっと自分の事を想ってくれていたというのに……。
この国では不美人である私と……彼は爵位のために結婚しただけで、自分が望んだ相手ではないと見向きもせず、新たに建てた館で共に暮らすこともしなかった。
それでも世話を焼く私の事を、忌々しくさえ思っていた彼が……薄れてゆく意識の中で最後にこう思いました。
『彼女を……彼女を笑顔にしてあげたかった……』
幻影は去り、また黒き濁りの中に私は戻ります。
いまの記憶……どう考えても現実に起こったことだと感じられました。
なぜそんな記憶が?
……まさか……いえ、でも……
私が混乱から立ち直る間もなく、さらに次の泡が私に触れました。
金竜王シュガール様から放たれた
邪竜の身体が崩れて――散ってゆきます。
『邪なる欲望に踊らされし道化者よ。そなたの成したことには同情の余地もない。しかし道化故、成した罪の重みも軽いもの、それにそなたの罪過を減免するため、そなたの妻が我によこした品。お主が贖罪の地にて
邪竜と化し薄れた意識が、最後に消えて行く前に、何者かの声が響きました。
この声は、クルーク様……。
そんな、まさか……本当にそんな事が……。
驚き、さらなる混乱に襲われた私に、次の記憶の泡が触れます。
地球という星、その日本という土地に、彼の魂は前世の贖罪を果たすために送り込まれました。
その彼が、丁度物心が付いた頃、両親が事故で亡くなってしまいます。
少年は、児童養護施設というところに連れて行かれて、そこで自立できる年齢まで暮らしました。
彼は人のために役立てる人間、警察官になりたいと願います。
そして同じ施設に暮らし、先にそこから巣立っていった、二人の兄のような人たちに勧められ、懸命にお金を稼いで大学へと入りました。
その大学の寮で、同室になった友人から勧められて彼は『白竜の愛し子』というゲームをすることとなります。
それは、私たちの世界で、この数ヶ月間にリュートさんの身に起こる可能性の物語でした。
警察官になる事を目指して日々生活をしていた彼が、ある日……アルバイトの帰り道。
暗い夜道の中で、辺りに響き渡る悲鳴を耳にしました。
彼は持ち前の正義感から、その悲鳴の聞こえた場所へと駆け寄ります。
そこでは、まだうら若い女性が男によって襲われておりました。
彼は一瞬どう行動するべきか考えましたが、街灯に照らし出された女性を目にして身体が動きます。
ズカズカともみ合う二人に近付くと、彼は、兄のような二人から習った、逮捕術という体術を使って男を取り押さえました。
ですが、彼が女性に逃げるようにと促している間に、男に取り押さえていた腕をほどかれて、ナイフを胸に突き立てられてしまいます。
彼は、意識が遠のきそうになるなか、二度と男を放すまいと、今一度男を組み伏せます。そして、最後に意識が途絶える前に彼の目に映っていたのは地面に転がった、この世界でバイオリンと呼ばれる楽器のケース。
そして、彼の意識が途絶えてどれだけの時間が経ったのかは分かりません。ですが彼の頭にまた言葉が響きます。
『……よ、クルークより課された罪過をあがなう贖罪の地にて、よくぞその罪を贖った。その行いは過剰なほどであったわ。まさか、それにより命を失うなど……されど、それによってお主の罪は既になく、過剰に償われた行いは、おぬしに最後の希望を与えるにあたいするものであった。……お主は何を望む?』
とても威厳のある言葉、ですがこの声の主は私のよく知っている方のものでした。
「……望みとは……いったい?」
彼は、訳も分からぬままそう答えます。
『いかようにも、新たに生まれ変わる先において、王にでも……人々の賞賛を浴びる英雄であろうとも、または人々から愛される美姫にでも……いかような存在でも』
「俺は……あの
彼はそう口にしましたが、あの娘と呼んだのが一体誰なのか、それはよく分かりません。けれどとても――愛おしくてたまらない人だと分かります。
そして、ただただ……とても悲しそうに涙を流しているイメージが、彼の心に強く残っているのです。
『ほう、ほう、お主はそれほどまでにあの
「違う……あの娘が俺を愛してくれたんだ……だから俺は……」
『良かろう良かろう……確かに聞き入れた。……我が愛し子を愛せし男よ。いまひとつ我がお主に祝福を与えてくれよう、この贖罪の地ではなんといったか、チートとか言ったかのう。道しるべとなる記憶を残し、我が愛し子に笑顔を与えられる可能性の時に、贖罪を果たしたお主の魂を送ってくれよう。
……そうだったのですね。
私は、滂沱のごとく涙が溢れ出すのを止めることができませんでした。いまの私は、間違いなく実体では無いはずなのに……それでも頬を伝う涙は、確かな現実感を持って流れ落ちてゆきます。
ああまさか、そのようなことが本当に起こりえるのですか……ですが旦那様は、本当に旦那様であったのですね。
一度の人生で失敗なされた旦那様は、それを悔い、贖罪を果たして、私を笑顔にするために戻って来てくださった。
『シュガール。それで良いのですか? 過去に戻りその者の魂を今一度、同じ人間に生まれ変わらせたとしたら、そこから先は別の世界軸に分岐して、私たちのいる世界が変わるわけでは無いのですよ』
『そんな事は分かっているクルーク。だが、我が愛し子が幸せになる未来があってほしいのだ。我はあの時まで――この者が邪竜となり、お主がノルムから愛し子を解放するまでまったく気付くことができなんだ。……自己満足である事は十分に分かっている』
『ならばいいのです。それに……私も、あの娘が幸せになれる世界があるのなら、あの娘に私たちの子を託す未来があるかも知れないと思えます。あれほどノルムを魅了したあの娘にならば……。ノルムの眷属によってどのような目に遭わされるか分からぬこの子。自力で、彼らの嫌がらせを乗り越えられる歳になるまで、卵のまま、我が財宝の中で時を過ごさせるのはさすがに忍びない……』
……それは、旦那様が今一度私たちの世界へと、グラードル・アンデ・ルブレンとして生まれ出る前の最後の記憶。
意識が濁りの中へと戻った私に、それは見えました。
それは……求めて止まない旦那様の姿です。
彼を見つけた私の心の奥底より、旦那様に対する愛情がこれまで以上に溢れてまいります。
生まれ変わっても私の事を心の奥底に留め、そして贖罪を果たして私の為に戻って来てくださった旦那様。
私の目に映る彼は、周りに満ちる邪な欲望に侵されないように、その身を丸く縮めて懸命に己の大切なものを守っておりました。
やはり……私は、この場所にやって来る前に感じたとおりであったと確信いたしました。
私は、懸命に身を縮める旦那様に触れます。
「旦那様……それではダメです。大丈夫です……旦那様の心に満ちる愛は、このような邪な欲望に侵されるようなものではございません。ご自分を信じてくださいまし……生まれ変わってまで私の所に帰ってきてくださった。その旦那様の心の内に満ち満ちる愛情を。……大丈夫です。私も一緒におります。ですから、見せつけて上げましょう。ここに満ちる邪なる欲望たちに。……誠に人を愛することはこれほど素敵でこれほどに強いのだと……さあ、旦那様……」
私の掛けた言葉に、それまで縮こまるように丸まっていた旦那様の力が抜けました。
私は、旦那様の顔を上げてそして静かに口づけをいたしました。
次の瞬間、光が満ちあふれます。
旦那様が、邪な欲望に侵されまいと懸命に守っていた、いまの旦那様の中に満ち満ちている愛情。それは、私に向けただけのものではございません。
シュクルに、お父様にお母様、ルブレン家のご家族、アンドルクたち、貴宿館の皆さん、レオンさんを始め騎士団の方々、アンドゥーラ先生。それにアンドリウス様やノーラ様、私たちの周りにいる方々、そして……ライオット様。さらに、その皆がいるこの世界さえも……。
この空間に満ち満ちてゆく旦那様の愛情が、邪なる欲望を浄化して行くのが分かります。
そして……気が付くと私と旦那様は、リューベックの城壁を望む小高い丘の上で、抱き合って唇を交わしておりました。
ゆっくりと旦那様と交わされていた唇を離します。
「旦那様……お帰りなさいまし」
私はそう言って、涙が頬に溢れているものの、自分がいま浮かべられる最高の笑顔を彼に向けました。
私の頬に伝う涙を、旦那様が指で拭ってくださいます。そして彼はとても優しい笑顔を私に返してくださいました。
「ただいま……フローラ」
いつの間にか夜が開け、地平線から昇ってくる日の光が私たちを明るく照らし出しました。
遠くから私と旦那様を呼んで、駆けてくる人たちの姿が見えます。
その先頭にはシュクルがいて、彼女はもどかしいのか竜の姿へと戻って私たちの元へと飛んできます。
私たちの直前でまた人の姿に変じた彼女は、私と旦那様へと飛びついてまいりました。
パパ、ママと言って泣きじゃくる彼女を、旦那様と私はしっかりと抱きしめます。
とても苦しい戦いでした。
ですが……私と旦那様は、やっと本当に幸せを手にすることができたのだと、そう実感できたのです。
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