第187話 モブ令嬢と当て馬だった旦那様(三)
『いいかいフローラ。聖杯の中にはボクたちの声も届かない。だから良く聞いておきなさい。先ほどクルークの言っていた事とは少し違うけど、自分が人間であるという事を決して忘れてはいけないよ。いま君は、ボクの力で一筋の矢となっている。だけど君は、紛れもなく人間なんだから。あの聖杯の中で己の本質を見失ったら、君はあの中に満ちた欲望に揉まれ……その存在が消え去ってしまうだろう……』
金竜王シュガールの姿に戻った先生は、己の上空に神器、聖弓シュギンを顕現させて、金色の矢へと姿を変えた私を
ああ、それで……私が矢へと姿を変じる前に行われた皆さんとの遣り取り、それを急かすことなく見ておられたのですね。
いま私は、聖弓シュギンに番えられた矢であるはずなのに、何故か周りの光景が見えております。
その私の視界の中、地上にはアンドゥーラ先生を始め、マリーズやアルメリア、リュートさんにレオパルド様、さらにメアリー、そしてアンドゥーラ先生に強引に連れてこられたらしきサレア様も捉えられておりました。
私は、この直前に皆さんより掛けられた言葉を思い出します。
「フローラ……夫婦水入らずの時間の邪魔をするのは無粋ですので、私……止めません。ですが……ですが必ず、グラードル卿と共に帰ってくるのですよ」
マリーズが私の手を取ってしっかりと握りました。
私を見つめる彼女の顔に浮かんでいるのは聖女としての取り澄ましたものではなく、貴宿館にいるときの少し悪戯めいた表情です。ですがその瞳には薄らと涙が滲んでいて、私たちの無事を祈ってくれている彼女の気持ちがありありと見て取れます。
そんなマリーズの横に、背後からレオパルド様が進み出ました。
「……フローラ嬢。貴女とグラードル卿の絆は決して何モノにも断つことができない――私はそう信じている。だからグラードル卿を……私の理想とする騎士を、きっと連れ帰って頂きたい」
彼はそう言うと、どこか恥ずかしそうに鼻の頭を掻きました。
その彼に続くように私の前にやって来たのは、こちらへと戻って来たリュートさんです。
「……グラードルさんはボクに、『一時の感情で、自分を捨てて竜になる道を選んで、クラリス嬢の事はどうするんだ!』って、そう言って力尽くで止めたくせに……。フローラさん、あの人を必ず連れて帰ってください。今度はボクが……フローラさんの気持ちも考えずに先走ったあの人に、この拳を返してみせますから!」
リュートさんは、自分の顎に拳を当てるように示して見せました。
そのリュートさんの斜め後ろに立っていたアルメリアと視線が合います。彼女は視線が合った瞬間、アッ、というような表情をしたあと、渋々といった感じで口を開きました。
「……フローラ。私は送り出す言葉は掛けないよ。……別に仲間外れになって疎外感を味わっているわけじゃないからね。……私は、君が必ずグラードル卿を連れて帰ってくると確信してるから。だから……帰ってきたら一番初めに声を掛けるのは私だからね」
そう言ったアルメリアは一人、皆さんの後ろに居て、こちらにやって来ようとはしません。
……なんと申しましょうか、アルメリアらしいですけれど。
彼女はまるで、自分まで送り出す言葉を掛けたら、私が戻ってこないとでも思っているように見えました。
さらに、後ろ手で自分の手を握りあって、間違っても私の手を取らないようにしているようです。
そんなアルメリアの気持ちには配慮を見せず、メアリーが私の前にやってまいります。
「奥様……ご主人様と奥様がおりませんと私たちは路頭に迷ってしまいますので、是が非でもご主人様の救出を……」
彼女はそう言って、空いているいま一方の手を取りました。
なんでしょう……相変わらず薄い表情のままですが、これまで聞いた中で、一番切実に言葉が響いた気がいたします。
「フローラ……私も、君ならばきっと、このおとぎ話のような行いを見事に成功させるだろうと思えるが……。だけど念を押しておくよ。いいかい、君は私の弟子なのだから、師である私にその貴重な体験談を聞かせるためにも、必ず帰ってくるんだよ」
はあ……なんとも先生らしい激励と申しましょうか。ですが確かにそうですね。このような経験は二度とできるものではないでしょうし、きっと旦那様を取り戻して、個室を汚す先生に愚痴を言いながら、私もアンドゥーラ先生と話をしたいです。
「フローラさん……私、お二人との縁は決して深いとは申せません。ですがお二人の仲睦まじさにはとても感銘を受けております。ですから、貴女が最愛の夫をその手に取り戻すことを祈っております」
サレア様が最後に、遠慮がちにそのように仰ってくださいました。
これは、私の一方的な好意なのですが、アンドゥーラ先生に振り回される大変さを共有できるサレア様からのお言葉は、思いのほか私の胸に心強く響きました。
そのような会話があったあと、私は竜王様方よりも一言ずつ簡単な言葉を頂いて、最後に今一度シュクルのことを抱擁してから、意を決してトルテ先生の元へと歩み寄りました。
「準備は良いようだね。フローラ……それでは始めよう」
トルテ先生は私の手を取ると、その身から光をまき散らして私を伴って空へと舞い上がります。
そうして皆さんの居る場所から離れると、その身を金竜王シュガールへと変じて行きます。
先生の身から流れ出る光の渦……光が私を包みます……黄金色の光が……
先生が巨大な金竜王の姿へと変じると、その上空に神器、聖弓シュギンが現れます。
それを確認した私は、既にシュギンに番えられておりました。
『愛する者を救う為、行ってきなさい……フローラ』
そうして、私は聖弓シュギンより放たれたのです……。
一筋の光……私は黄金色の矢となり、いままさに邪なる欲望に呑まれまいと戦っておられる旦那様の元……その魂が存在する聖杯ムガドへと飛び行きます。
『旦那様、旦那様……ああ……私の愛おしいグラードル』
そして……一筋の光の矢、私は過つことなく見事聖杯へと至りました。
◇
その場所は濁っていました。
黒ではなく、灰色でもなく、ただ暗く……そして濁っている。
さらにいま、この身の周りより感じられるのは、汚水のような強烈な臭気と、粘つき、触れた肌をチリチリと焼くような痛みを伴う、泥水のような不快な感情が満ち満ちた空間でした。
私はもがくようにして、その泥水のような空間の中、旦那様の存在を探ります。
初めは、自分がどのような状態で上下も左右も分かりませんでした。ですが、しばらくするとある方向へと動くと、この身に掛かる圧力が強くなる事を感じました。
それは、水の中を深く潜るときに感じるような全身を押しつぶされるような感覚です。
そしてその方向、おそらく聖杯の底へと潜っているのでしょう、深く、深く潜るほど、それまでチリチリと感じていた、身を焼くような感覚がジリジリと強くなって行きます。
そして、私の身を焼くその泥水からは……とても、とても不快な感情が、まるで傷口に染みこんでくるように襲ってまいります。
……なんで……なんで私だけ……なんでボクだけ……なんで俺だけ……奴が……アイツが……あの人が……あの地位は俺のモノだ……あれは全部ボクのモノだ……あの人は私のモノよ……うらやましい……妬ましい……忌々しい……恨めしい……呪わしい……憎い……殺してやる……
肌を焼く痛みよりも、強烈に私の心を苛む怨嗟の感情。
この感情は、私のモノではないはずなのに……染み入るように私の心を侵そうといたします。
ああ……止めてください! 私の中に入ってこないで!
……いや……いや……助けて、旦那様……助けてくださいまし……
そう、助けを求めて旦那様の事を思った瞬間、僅かに私の心を責め苛む不快な感情が弱まりました。
私は、強く、強く旦那様を想います。愛おしい最愛の夫を……
心が……旦那様の事を強く想えば想うほど、私の心の内からその身を包み込むように温かいモノが溢れ出てまいります。
身体を――そして心を襲ってきたとても嫌な感情たちは、私の心の中から溢れだした想いの力によって、じわりじわりと退いて行きました。
そうです。私は旦那様をこの手に取り戻すためにこの場所にやって来たのです。聖杯の中に満ちている穢れた欲望に、惑わされている暇など無いというのに……
旦那様を助けに来たはずの私は、自身の内に溢れる旦那様への想いによって救われました。
そして私は、シュガール様の仰っていた事がいまになってハッキリと理解できたのです。
いまの私は、むき出しの精神体としてこの場所にいるのでした。
私を形作る大切な想いを見失ったら、たちまち私の心はあの恐ろしい感情たちに侵されてしまうでしょう……。
旦那様……旦那様はどこにおられるのですか?
私は溢れ出した旦那様への想いのままに、彼の気配を探ります。
まるで濁った泥水の中を、深く、深く潜るように、強い圧力を感じる方向へと進み、私はその深部へと意識を向けました。
こぽり、っと泥水の奥底から、なにか泡のようなモノが浮かび上がってまいります。
それはこの濁った空間の中、何故か光り輝いて私には知覚されました。
あれは……旦那様?
私は、その光り輝く泡のようなモノから旦那様の気配を感じて、懸命に、もがくようにしてその泡へと近付きます。
感覚としては、泥水の底から昇ってきたと思える、旦那様の感じるその泡を、私は愛おしい思いのままに手を差し出して触れました。
その泡に触れた瞬間、私の脳裏に見たことの無い映像と感情が押し寄せます。
それは……悲しみ?
『なんで? なんでボクには母様が居ないの?』
そんな想いと共に見えたのは、どこか屋敷の部屋の中です。
そう聞いた幼い声の主に、目の前に立つ十歳を超えたくらいの年齢の少年が、忌々しげに口を開きました。
『居ないモノは居ないんだから仕方ないだろ。お前は、生まれたときから居ないんだから、別になんと思うこともないだろ!』
そうすげも無く言い放った少年は、もしかして……ボンデス様でしょうか?
どこか面影があるような気がいたします。
『アルクには、母様が居るのに……ずるいじゃないか……』
そんな言葉と共に、チクリと悲しみと、痛みを伴う感情が声の主に生まれました。
そして幼い声の主は、赤子用に作られたにしてはとても豪奢なベッドで、おくるみに包まれて静かに眠っている赤子を睨みつけました。
そこで突然、夢から覚めたように私は、濁った空間の中にいたことに気付きます。
いまのは……旦那様の過去の記憶?
私は、あの泡が昇ってきた方へとさらに意識を向けました。
すると、意識を向けた方向からいまの泡と同じようなモノが、ひとつ、またひとつと昇ってくるのが分かります。
あれをたどって行けば、きっと、きっとその先に旦那様がいらっしゃる。
私は意を決して、その泡の上ってくる方へと、強く、強くのしかかる不快な圧力を、旦那様を想い、そしてシュクル、さらに私と旦那様の帰りを待ってくれている皆さんのことを想い描いて、深く、深く潜って行くのでした。
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