第178話 モブ令嬢と旦那様と邪竜の真実
神殿の鐘塔からあふれ出した黒い泥濘のようなモノが、ドロドロと塔の壁を伝って、神殿の屋根にまで落ちてきております。
いま少しすると泥濘は屋根からも落ちてきてしまいそうです。
完全に泥濘に呑まれた鐘塔は、まるで生き物のように変じており、メイベルさんたちのおられた辺りは、竜の頭のようにさえ見えます。
アンドゥーラ先生に促されて、私はストラディウスを奏で始めました。
先生は私が演奏を始めるのを確認すると、ご自身は瞬転魔法を使ってその場から消え去ります。
仰っていたとおり、バーンブラン辺境伯領のブラダナ様の館へと転移なされたのでしょう。
先生を見送って、私も口を開きます。
「これだけの建物を魔法によって転送するには、それだけの多くの力を必要とします! 対応する楽章を奏で切りますので、その間に建物の中におられる方たちの退避をお願いいたします!!」
魔奏十三楽章は、十三という数字が表すように楽章一つ一つが七大竜王様と六大精霊王に対応しております。
楽章の一節、一節を奏でるだけでも竜王様や精霊王方の力を借りることが可能です。
ですが以前アンドゥーラ先生が仰っていたように、ストラディウスのバリオンは魔法の増幅機なのです。
魔力を弓毛として通した
先ほどのライオス様の言葉で、白竜騎士団や捜査局の方々は既に動き始めておりました。
私の上げた言葉に、神殿の神職の方々も慌てた様子で神殿の脇を通って裏側に走って行きます。
いつ落ちてくるかも分からない黒い泥濘の為に、皆さん正面の入り口は避けておりました。
私たちは、まだその入り口の近くにおります。
ランゲ様とレオンさんが、ライオス様の脇を支えるように立ち上がらせて移動を始めました。
その様子を目にしながら曲を奏で、私も移動しようといたしましたら、不意に私の身体が持ち上げられました。
「だっ、旦那様!?」
「俺たちも下がるよ」
旦那様は、ストラディウスを奏でている私の腰の辺りを掴んで、背後からご自身の肩に担ぎ上げたのです。
私は、旦那様の右肩の上に腰掛けて、そのまま演奏を続ける事となりました。
旦那様は、ライオス様たちの後に続きます。
そんな私たちを、シュクルが追い越して前に出ました。そうしてシュクルは私たちに向かって振り返ります。彼女は旦那様の歩みに合わせるように背後に進みながら、そのお顔にどこかむにゅむにゅとした笑顔をうかべました。
「むふぅ~~、パパとママはラブラブなの!」
「シュクルっ!?」
少し悪戯めいたシュクルの発言に、私は自分でも分かるほどに顔に熱が上がってきてしまいました。
ストラディウスを奏でているために旦那様を確認することは叶いませんが、おそらく彼も顔を赤くしているのでは無いでしょうか。
……とても深刻な状況なはずなのですが、無邪気さを失わないシュクルのおかげで、心が少し楽になったような気がいたします。
「神殿内の確認がすみました! 皆退避いたしました!!」
私たちが神殿前広場の端にまで移動し、旦那様が私を地面に下ろしてくださったところで、神殿内を調べに行った神職の方がこちらへと戻ってまいりました。
神官や巫女の方々の退避が完了したようです。
私の演奏も終演に向かい、後は発動を待つところまで魔法は構築されておりました。
ですが、私にはひとつの懸念があったのです。
それは既に邪竜の頭部を形成している鐘塔であったモノ、そこに上空から吸い込まれるように落ちている黒雲は、まるで世界中からこの場所を目指して、昏い欲望が集まってきているような……。
私は、あれの事を知っているのではないかと思えるライオス様に、確認するように視線を向けました。
「……フローラ嬢、君が考えているとおりだよ。あれは五〇〇年前、邪杯から飛び散ったという邪な欲望だ。覚醒した邪杯は本来持っていた力の行使を始めたのだ。……だが、あれは……クッ、私としたことが……この五〇〇年の間に神職たちによって浄化されたことで、あれは力を弱めていると考えていたのだが……私の予想よりも強い欲望が集まっているように見える。……飛び散った欲望は宿主たちの中で以前よりも遙かに大きく育っていたのか……」
「あの黒雲が、邪杯に元々収まっていたモノであったとするのならば、あの繋がりを一時でも遮らなければ瞬転魔法が発動できないかもしれません……」
それに――あの欲望を全て呑み込んでからでは……おそらく私がいま持つ力をも超えてしまうでしょう。
「ママ! シュクルがあれを止めるの!!」
「シュクル!? ダメよ! あれは危ないわ!!」
言葉と共に駆け出してしまったシュクルには私の制止の言葉も間に合わず、彼女は飛竜の姿へと変じて空へと舞い上がってしまいます。
ですが私の言葉よりも早く、旦那様が動いておりました。
「シュクル!!」
「旦那様!?」
なんと、シュクルの後を追った旦那様は、飛び上がったシュクルの足に咄嗟に飛びついて、共に空へと舞い上がったのです。
シュクルはその旦那様に気付いたのでしょう、空中大きくぐるんと一回転して、上空で旦那様を放り出すようにして、その後自分の背中で受け止めました。
旦那様もシュクルの気持ちを読み取ったのでしょう、空中に放り出されている間にクルーク様より賜った
二人はグングンと上空高く飛び上がり……そうして……邪竜の頭部の上、そこに吸い込まれている黒雲へと飛び込みます。
「シュクル!! 旦那様!!」
そう叫んだ瞬間、上空に巨大な盾の幻影が浮かび上がりました。
……あれは、そう、旦那様の盾の力です。
旦那様の盾の力によって欲望の黒雲は行き場を失い、盾から弾かれるように大きく横に広がりました。
『ママ! いまなの!!』
「フローラ! いまだ!!」
シュクルの声が頭に響き、同時に旦那様の声が耳を打ちます。
私はすかさず瞬転魔法を発動させました。
それは、初めシュクルがこの魔法を使った時と同じような透明な泡。
その中に邪竜の半身を形成しつつある神殿を納め、次の瞬間には、まるでその場所には初めから何もなかったかのように、それのあった場所を綺麗に削って神殿は消え去ったのです。
◇
「ライオス殿下……移動する前に、知っていることを教えておいて頂きたい」
シュクルと共に広場へと降り立った旦那様は、ライオス様の前に来るとそう仰いました。
ライオス様も初めからそのつもりであったのでしょう、真面目な表情で口を開きます。
「グラードル卿……私はね、君たちが修練場で言ったとおり、前回のクルークの試練が終わった後、アンドゥーラに避けられて、この国の為に懸命に尽くせば、もしかしたら認められるときが来るかも知れない……一度はそう考え直した。ライオットという立場で捜査局に入り、クルーク様より頂いた宝具を使って、エルダンという内偵のための人物を作り出した。そうして私は、この国を脅かす者たちを調べ始めたのだよ。その中で、バレンシオと繋がっていた人物の中に、簒奪教団の人間が紛れていることに気が付いたのだ。私はその人物を捕らえて情報を引き出し、その後はその人物に化けて簒奪教団の情報も探った。その結果分かったことなのだがね。五〇〇年前……あの黒竜戦争を引き起こしたのは黒竜王ヨルムガンド様ではない。……黒竜王様はトーゴ王国に招かれ、そこで
「まさか……黒竜戦争を起こした邪竜の正体は……」
ライオス様の言葉で、旦那様はひとつの可能性に気付いたようです。
「……そう、そのとおり。邪竜の正体は、聖杯ムガドの力を人間が手にできると勘違いしたトーゴ王だよ。邪竜は穢れた欲望を浄化する聖杯ムガドを、その邪な欲望によって浄化のできない邪杯へと零落させてしまった。その結果生まれたモノなのだ。かの王は邪杯に呑まれ邪竜と化し、そうして己の国を滅ぼした。だがね……金竜王シュガール様の聖弓シュギンによって邪杯が打ち砕かれた後……王は生き残っていたそうだよ。簒奪教団の奴らも黒竜王様を弑する事に成功したような奴らだ、竜王様たちの目を欺いてトーゴ王を回収したらしい」
「……と、いう事は……まさか!?」
旦那様は、さらなる事実に目を見開きました。
彼が導き出した答えを肯定するように、ライオス様がひとつ頷きます。
「……いまの新政トーゴ王国は、まさに正統な王の血筋が治めているのだよ。……まあ、その真実を他国に広めてやる義理はないがね」
その一連の話を聞き終わった旦那様は、何かに思い至ったように口を開きます。
「待ってください。では何故、邪杯の欠片を使ったローデリヒはあのような最期を遂げたのですか?」
「あれはまさに欠片であり、完全なモノではなかった。しかも己の内に取り込んだのだ。穢れた欲望でできあがっていたようなあの男が、その欲望を吸い取られたら何か残ると思うのかね?」
ライオス様は旦那様の問いを、当たり前のことを聞かれたように答えました。
その答えを受けた旦那様の表情は深刻なものです。それはそうでしょう、旦那様はゲームという物語の中でその運命を辿っているのですから。
「邪杯は先ほど見て分かるとおり、強い……それも負の欲望に支配された人間でなければその力を発現できないのだよ。そして、メイベル嬢は邪杯の力を発動させ、その行動の指針を与える為のいわば起動装置のようなものであって、先ほどの事で分かったと思うが、黒竜の本体は五〇〇年前にこの世界に飛び散った穢れた欲望だよ。……ただ、まさか飛び散った欲望が後の宿主たちによってさらに強く育てられていたとは……誤算だった。私の計算では、五〇〇年前よりも簡単に倒せると踏んでいたのだが……」
ライオス様は、ここに来て初めて焦りをそのお顔に浮かべました。
その時、ライオス様に私たち以外の人間の声がかかります。
「ライオス! ……お前、なんということをしたのだ……」
その声の主はアンドリウス様でした。安全を確認して近衛兵より解放されたのでしょう。
陛下の顔には、親としての心配と王としての怒り……そのようなものがない交ぜになった複雑な表情が張り付いておりました。
ですが……人目のあるこの場所で行われてしまったライオス様の犯行に、アンドリウス様は王としての裁定をなさなければならないと心を決めたのでしょう、その表情を無理矢理怒り顔へと変じます。
「お待ちください陛下! 確かにこの方が犯してしまった騒動は大変なものです。ですが、全てはオルトラントを想っての事! どうか、どうかライオス殿下より子細をお聞きくださいますよう、伏して――伏してお願いいたします!」
旦那様は、アンドリウス様が最悪の言葉を吐き出すのに先んじて、石畳に頭をこすりつけるようにして拝み倒しました。
「陛下! 私からもどうかお願いいたします!」
私も、旦那様の隣に身体を伏して並びます。
「お願いしますです!」
シュクルまでもが私の真似をして並びました。
「………………面を上げよ、エヴィデンシア伯爵夫妻。まだ全てが終わった訳ではない……が、いまの騒動を収めてみせたお主たちの言葉とあれば聞き入れぬ訳にはいかぬな……」
そう促されて顔を上げた私たちは、明らかに安堵しておられるアンドリウス様の表情を目にすることになりました。
陛下は私たちに近付きますと声を落として、「その方たちの行動に感謝する……」と、そのようにおっしゃいました。
「ありがとうございます陛下! つきましては今ひとつ願いがございます……」
ライオス様に向き直ろうとしたアンドリウス様に、旦那様はそのように声を掛けました。
陛下は怪訝そうな表情で旦那様に視線を戻します。
「本来であればこの場で手打ちにしても問題のないライオスに、弁明の機会を与えるというのに、まだ何かあるのかエヴィデンシア伯爵?」
「はい。……この度ライオス様の行いによって復活を遂げてしまった邪竜、きっと私たちの手で倒してみせます。ですので……私たちが戻るまで、決してライオス様を死なせないで頂きたく、お願いいたします」
旦那様の宣言は、この機会にライオス様を弑そうと画策する方たちから、彼を守ってほしいとの懇願です。
「大言を吐くものよ、エヴィデンシア伯爵……。分かった、必ずそう取りはかろう……ライオスを拘束せよ」
陛下は私たちの懇願を受け入れてくださり、そうしてライオス様の拘束を近衛に伝えました。
「グラードル卿、フローラ嬢、締まらぬ事になってしまったが、後の始末は君たちと竜王様方にまかせるしかない。私は武力ではものの役に立たないからね。クルーク様より頂いた宝具も君たちと違い、身隠しと変幻の魔法が使えるだけの逃げ隠れ専門のものだからね」
「待ってください、それでは修練場やこの場所で使われていた魔法は!?」
近衛兵が近寄ってくる中、仰ったライオス様の言葉に、私は驚きの声を上げました。
ライオス様はやれやれといった感じで首を振ります。
「君たち……私が、かりにも第二王子だという事実を見落としていないかい? 王家の宝物庫にどれだけ魔具が収蔵されていると思うのだね。私の立場と、持つ宝具の特性を考え合わせれば、それを持ち出すのは造作もないことだ。しかも私は事を起こすのに周到に準備したのだよ。持ち出した魔具の数々を考えれば……正直それだけで首が飛んでもおかしくない」
ライオス様はそう仰って、剽げた笑い顔を浮かべます。
ライオット様の周到さの対策を考えてはいましたが……少し前まで生活に汲々としていた私には、王家秘蔵の魔具を使い倒すなどという行為までは思い至りませんでした。
ですがそれは、旦那様と私にとって彼は、ライオット様であった……そういうことだったのかも知れません。
結局私は、絆を結んだ皆さんの力によって、本当にギリギリのところでライオス様の命を救えたのだと再認識したことになったのです。
◇
ライオス様が引き立てられ、私と旦那様はいよいよ邪竜を転送したユングラウフ平原へと、自らも向かおうといたしました。
すると私たちの前に、レオパルド様を筆頭に貴宿館の皆さんがやってまいりました。
「待ってくれグラードル卿。私たちも連れて行ってくれないだろうか。クルーク様より頂いたこの偽神器があればきっと力になれると思うのだ」
「……気持ちは有り難いが、五〇〇年前の逸話を見ても、邪竜は竜王様方が束になってやっと収める事ができるほどの力を持っている。ライオス殿下の話ではその時よりも力を蓄えてしまっているかも知れない。学生である君たちをそのような場所に連れて行くわけには……」
「なればこそです! 私たちの力で僅かでも力を削げるかも知れない!」
旦那様の心配をよそに、レオパルド様は引かれるつもりは無いご様子です。
「グラードル卿。もしも五〇〇年前のように長期戦になれば、私の偽神器の癒やしの力も必要になると思います。それに、もしも竜王様方が敗れるような事になれば、どのみち世界は滅びてしまうのですから。それならば、そうならないために少しでも力を尽くした方が賢明というものではございませんか」
マリーズが絡め手の説得をいたします。
さすがにこのマリーズの言葉には、旦那様も心を動かされた様子になりました。
「そうです、私の偽神器もマリーズのものほどではありませんが癒やしも使えますし、戦闘にも参加できます!」
「ボクの剣も、威力だけならばレオパルドさんのものより強いようですから、足手まといにはなりません!」
「もちろん私は、奥様とご主人様が行かれる場所にはお供いたします」
アルメリアにリュートさん、さらにメアリーまでもが続けざまに帯同を申し出て、止めとばかりにシュクルが旦那様の足にペトリと抱きつきました。
「……仕方がない。だけど、自分の命を最優先で行動する事。良いね」
皆さん、「はい!」と、良い返事をいたしました。
それでは、ユングラウフ平原に皆さんと私を瞬転魔法で移動させようと、ストラディウスを構えましたら、何日か前からどこかへフラリと出かけておられたトルテ先生が、ひょこひょことバリオンを担いでやってまいりました。
「おや、フローラに皆さん。何やら物々しい雰囲気だがどうしたのですか? 先ほどこちらの上空におかしな雲が見えたのでやって来たのだけれど……いつの間にか雲も無くなっているし……おや? あれ? ここには神殿があったような気がするんだが……もしかしてボクの記憶違いだったかなぁ? ……いやいや、そんな事は無いはずだよ。私は一週間ばかり前にここで興行したのだからね。フローラ……いったいどういう事態なのかな?」
暢気にそう仰るトルテ先生に、私たちが事態を早急に説明いたしましたら。
「なんと……いや、それは……吟遊詩人として是非その場に立ち合いたいね」
と仰って、旦那様の制止も聞かず、「良いじゃないか、吟遊詩人たるもの、歴史に残る壮大な事件の舞台に居合わせ、後の世に物語を語る……それに勝る喜びはないよ。もしもその過程で命を失おうとも一片の後悔も無い!」と、結局、強引に付いてくることになってしまいました。
最後の最後にそのような茶番じみた出来事があり、私たちは瞬転魔法によってユングラウフ平原へと跳んだのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます