第121話 モブ令嬢と守られた王都
「…………助かった」
アンドリウス陛下は絞り出すように仰い、旦那様の手を握ります。
落ちくぼんでしまったように見える、瞳を収める下瞼には、隠しようもない隈が浮いていました。
疲弊の色は、目に見える顔だけでなく、全身から漂っており、いつもは年齢よりもお若く見える陛下が、今は十歳以上お年を召してしまったように見えます。
陛下の後方に立つノーラ様も、陛下と同じように疲労の色が濃く窺えました。
普段は王宮へと馬車が乗り付ける中庭の一角で、旦那様と私は陛下から声を掛けられているのです。
その陛下たちには廷臣も数名付き従っておりました。
周りではいまだに戦いの事後処理の為に、兵や文官たちがめまぐるしく動き回っており、中庭におられる陛下を目にして、ギョッとして立ち止まってしまう方もおられます。
そのような方たちには、陛下に付き従っている廷臣たちが、気にせず移動するようにと促しておりました。
しばしの間、旦那様の手を取り続けた陛下は、ゆっくりとその手を離しますと、旦那様のななめ後ろに控えていた私に視線を向けます。
「エヴィデンシア夫人……そなたの多大なる活躍はサンチェス軍務卿より報告を受けた。しかし、クルークの試練調査に同行したとクラウスより耳にしていたが……よもや、試練を達成したのか? ――いや、でなければこのような事を成せるわけが無いな…………」
陛下は軽く首を振って、最後に私の横で頭を地面に付け、目を閉じて伏せているシュクルに目を向けました。
本来であれば王宮内の謁見の間にてなされるはずの、功績を上げた者への声掛けがこの場所になったのは、シュクルが旦那様と私から離れることを嫌った為です。
ですが陛下たちが、本来の形式通りに謁見の間にて金竜騎士団の騎士たちにねぎらいの声を掛けて後、こちらへとやって来るまでの合間に、私がシュクルの頭を撫でてやっておりましたら、やはり疲れていたのでしょう、この子は眠ってしまったのです。
「ヴィッテルが第一世代の竜種のようだと言っていたが……誠か?」
陛下は、落ちくぼんだ瞳に、強い光を湛えてこちらを見ました。
ちなみに、ヴィッテルとは軍務卿のお名前であったと記憶しております。
サンチェス軍務卿とは、王都防衛の空中戦ののちに言葉を交わさせていただきました。
背は旦那様よりも少し低いものの、身体の厚みがあり力強い印象のある壮年期も後半に見える、乾いた土のような色の髪を短く刈りそろえ、黒味の強い赤い瞳を持ったお方でした。
「……はい、銀竜王クルーク様と金竜王シュガール様の子であるそうです。クルーク様よりフローラの元で育てるようにと託されました」
旦那様は何故か、私たちの元でと仰ったクルーク様の言葉を、私の元でと仰いました。彼には何か考えがあるのでしょうか?
旦那様の言葉を聞いたアンドリウス陛下は、驚きに目を見開きました。
「なんと! まさかクルーク様と直接言葉を交わしたのか!?」
「はい。人の姿ではございましたが、直接言葉を交わす栄誉に与りました」
「なんと特異な……これまでのクルークの試練でそのような例は聞いたことがない。前回のクルークの試練より僅か六年で次の試練が課されたことも我の知る限り初めてのことであったはずだ」
「……陛下、それにつきましては報告したき儀がございますので、後日お時間をいただきたく存じます」
「フム、……そのように言うということは、短い話ではないのだな?」
瞳に強い光を瞬かせたアンドリウス陛下に対して、旦那様は静かに頷きました。
これにつきましては、他人の耳がある場所で口にはできない事があると、陛下は理解してくださったようです。
確かに、バジリスクの毒によって削られた旦那様の命を取り戻す為、特別に私に課せられた試練であったなどと、このように他人の居る場で口にしましたら、どのような事態に発展するか分かりません。
「……それにしても、金竜王様と銀竜王様の子とは……エヴィデンシア伯爵、そなたが騎竜として従えている訳ではないのだな」
陛下の言葉にはどこか残念そうな響きがございました。ですが、陛下はすぐにその気持ちを切り替えたように言葉を続けます。
「ならばエヴィデンシア家では、早急に竜舎の準備をせねばならぬな。クルーク様たちの子を金竜騎士団の竜舎に預ける訳にもゆくまい。このようにお主たちと離れることを厭うのであればな……ふむ、この件については王家に任せよ。救国の功績を上げたエヴィデンシア家にそのくらいのことをしても誰も文句は言うまい。あとの報償については後日ということになるが、第一の功績を挙げたお主たちへの報償は多大なものになるだろう」
アンドリウス陛下はそこまで一気に仰いますと、一度両目の端を手で押さえました。
そして、陛下は両目の端を抑えていた手を戻して、少し気が抜けた様子で口を開きます。
「……だがいまは、我らも疲労の極みでな、とても会議を開ける状態ではないわ。後、ノーラもお主たちに声を掛けたいそうだ。我は、まだ声を掛けねばならぬ者たちがおるのでな、先にゆかせてもらうぞ。……先ほどの件、時間ができたらこちらから連絡を入れる。お主たちも身体を休めておくのだ。どちらにしてもしばらくお主たちは動き回れまい」
陛下はそのように仰いますと、疲れの色の濃い顔に、初めて笑顔を浮かべて王宮へと入って行きました。
その笑顔が、少し戯れたものに見えたのは気のせいでしょうか?
アンドリウス陛下が、王宮内へと去って行きますと、ノーラ様が代わりに私たちの前へとやってまいります。
ノーラ様も陛下ほど酷くはございませんが、化粧では誤魔化しきれないほどに、下瞼に隈が浮いております。
「グラードル卿、それにフローラ。貴方たちには本当に救われました。あと少し貴方たちの到着が遅かったら……。皆、限界が来ておりました。この四日、昼夜を問わず行われた新政トーゴ王国軍からの空襲によって、城壁内を守る都市防護魔方陣を起動し続ける為に、多くの者に力を貸していただきました。魔道士はもちろんですが、ファーラム学園魔導学部の生徒、果ては冒険者に魔力保有量の高い市民にまで……魔方陣が
ノーラ様は僅かに涙を滲ませております。
おそらくはアンドリウス陛下もノーラ様も、魔方陣を起動し続ける為に魔力を注ぎ続けたのでしょう。
都市防衛の魔方陣は元々、地脈の上に実際に描かれた魔方陣に、魔法使いが魔力を通すものでした。
しかし黒竜戦争後に開発された魔具によって現在では、起動と出力の制御に魔法が使える人間が必要ではあるものの、魔力供給は魔力のある人間が触れていればその方の力を使うことができるのです。
この魔具の発明によって都市防衛は、黒竜戦争以前と比べて格段に長い時間行えるようになりました。
ですが黒竜戦争後に、四日という長時間にわたって都市防衛魔方陣が展開された戦は初めてのことでしょう。
「金竜騎士団の騎士より少し話を伺いましたが、銀竜騎士団が出立した二日後の夜よりの急襲であったとか? 城壁外は酷い有様でしたが、よくあれだけの被害で抑えられたものです」
「ええ、それについては幸運が重なりました。数年前にアンドゥーラ卿が開発した、暗視の効く遠見の魔具がなければ、それだけで王都は墜ちていたでしょう。さらに王都に駐留する騎士団が少なくなったので、物見の塔の兵士たちが気を張っていたことが幸いいたしました。さらに言うのならば、兵士たちが発見した飛竜の数が多く、すぐに異常事態だと判断できたことです。そのおかげで、素早く都市防護魔方陣を起動する決断ができました」
ノーラ様の言葉を聞く限り、王都オーラスが何とか壊滅せずにいたのは、確かに奇跡的な幸運の重なりであったことが窺えます。
「しかも、トーゴ王国軍は魔道士を多数投入して城門や城壁の破壊を試みました」
「なんとそのような事も……」
旦那様も私もトーゴ軍の用意周到さに驚きました。そういえばトライン辺境伯領での戦闘のさなか、魔道士が少ないように感じましたが……やはり、王都を墜とすことが本命であったのですね。
都市防衛の魔方陣は城壁の上へと展開されますが、城門や城壁を崩されますと都市内への侵入を許してしまうのです。
考えてみますと、トライン辺境伯領の主都タルブを封鎖しようとしていた部隊のアダンという指揮官は、この作戦を知っていたのでしょう。
勝利の決め手となる戦力は、私たちに不審に思わせない最低の数だけでトライン辺境伯領を攻撃していたのです。
彼の最後の叫びが脳裏に浮かびました。あれは、最悪自分たちが囮として殲滅されることを覚悟していたからこそのものだったのですね。
「ですが、その攻撃は白竜騎士団とセドリック殿の活躍によって、トーゴ軍の魔道士部隊は早いうちに退けることが叶いました。おかげで私たちは都市防衛魔方陣の展開に全力を注げたのです」
さすがは精鋭揃いの白竜騎士団です。
セドリック様も、王国の守りを担う盾の騎士の面目躍如といったところでしょうか。
「金竜騎士団の者たちもよく働いてくれました。守りの限界が来ていた事を理解してた彼らは、貴方たちがやって来る前に、玉砕覚悟で全員が打って出ていたのです」
私たちが到着したときに、金竜騎士団の飛竜が全て出撃していたのはそれでだったのですね。
「彼らが言っておりました。トーゴの躁竜騎士たちは練度が低く数頼みであったので、金竜騎士団では三騎墜とされたのみだったと。あの後、彼らはトーゴ軍の起点となっている近海の船団を急襲したそうですが、あちらにはまだ五騎も飛竜がいたそうです」
旦那様が、トーゴ軍の掃討作戦を終えて戻られた金竜騎士団の方々から聞き及んだ話をいたしました。
彼らはあの戦いの後、私たちには、まだ王都を襲う部隊があるかも知れないから守りは任せると仰って、飛竜を運んできたと思われる船団の掃討に向かわれたのです。
彼らは全員が無事に帰ってきた後、私たちにねぎらいの言葉を掛けてくださいましたが、中には私を崇拝するような態度を取られる方もおりまして、とても居心地の悪い思いをいたしました。
私がそのような事を考えておりましたら、ノーラ様は私の前へといらっしゃいまして、静かに私を抱きしめます。
「陛下から話は聞いております。あの竜たちをトーゴへと送り込んだのがあのバレンシオ伯爵であったと……王家の失態が招いた事態でもあったものを、貴方たちエヴィデンシア家には、本当にどのように報いれば良いのか……」
ノーラ様は感極まってしまったようで、しばしの間私を抱きしめたままでおられました。
そうして、ゆっくりと身体を戻しますと、最後に今一度口を開きます。
「……本当にありがとう」
その時、眠りから覚めたのでしょうか、シュクルがキュィーっと鳴きました。
◇
陛下たちから声を掛けられた私たちが、屋敷へと戻ろうといたしますと、ノーラ様にこの場からシュクルに乗り直接館へと向かうように促されました。
王宮の中庭での飛竜の発着は、本来金竜騎士団と王国お抱えの特級飛竜士のみに許された行為です。
旦那様と私はそのお言葉に甘えて、シュクルの背に乗り飛び立ちましたら、そのように促された理由はすぐに判明いたしました。
王宮を守る第一城壁から飛び出しましたら、眼下には大量の市民たちが王宮前に詰めかけていたのです。王都上空でトーゴの飛竜を殲滅した私たちを一目見ようと集まってきていたようでした。
既に金竜騎士団の方々がおっしゃっていた言葉が浸透してしまっていたのかは知りませんが、私たちを目にした彼らからは、『女神の加護に感謝を!』とか『救国の女神万歳!』などという言葉を掛けられてしまい、私は穴があったら入りたい心境になってしまいました。
この時になって私は、陛下が去り際に浮かべていた戯れた笑みのわけを理解したのです。
その後、館へと向かうさなかも私たちを目にした方々からは声が掛けられ、なんと我が家の周りも人々に取り囲まれておりました。
既に私たちの身元までもが王都の方々に知れ渡ってしまっているようです。
敷地内への侵入を阻む為でしょう、屋敷を囲む塀の門も閉じられており、門の内側にはセバスとトニーの姿が見えました。
旦那様は人であふれかえる上空を通り抜けて、本館の前へとシュクルを降ろします。
するとそれを待っていたかのように声を掛けられました。
「フローラ……グラードルも、一緒であったのか!? よく、よく戻った……しかし、何故このようなことになったのだ? 我らは突然このような事になって何が何やら分からず混乱しておったのだ。ただ、お主たちが帰ってくるらしいことは分かったのでこの場で待っていたのだが……その飛竜はいったい……」
玄関前のポーチの下でお母様に支えられて立っておられたお父様は、目の前へと降り立った私たちに、杖を突くのも煩わしそうにして近寄ってまいります。
「フローラ、よく無事で戻りました。……グラードルさんも……」
お母様も、目に涙を浮かべて嬉しそうに仰ってくださいました。
「旦那様……奥様。ご無事で何よりです……しかし、こちらの飛竜は?」
門の前を見張っていたセバスが、トニーをその場に残してやって来たようです。
「
「はい、至急手配いたします」
セバスは答えますと、素早く手配に動きました。
「シュクル、私たちはお父様達とお話をしなければなりません、しばらく大人しく待っていてね」
私がそのように諭しますと、シュクルは『ハイ、ママ』と答えました。
「なッ、この竜は話ができるのか!? ……まっ、まさか……第一世代……」
驚愕に目を見開くお父様に、私は無言で頷きました。
その後、屋敷を出立したあとからの子細を説明して夜を迎えた私たちは、久しぶりに居室のベッドで休むこととなりました。
シュクルには寂しがらないように、侍女達が交代で付いていてくれます。
旦那様と私は、シュクルのことを心配しながらも、これまでの疲れに一気に襲われて、深い眠りへとつきました。
どれほどの時間眠っていたのは分かりませんが、僅かに夢心地のまま意識が戻りますと、瞼の向こうからは明るさを感じます。
そして、微睡んでいる私の身体に、もぞもぞと動く、温かいものが触れました。
触れた感触は地肌のようです。
旦那様が寝返りでも打ったのでしょうか? ですがその肌触りはすべすべとしていて、どこか違和感がございます。
「んっ、フローラ? どうした?」
旦那様が、声を上げました。
えっ? いまの聞き方は……私が何かしたような聞き方でしたが?
私はまだ眠気が強く、目を開くまでには至りませんでしたが、旦那様は起き上がったようです。
「『なッ、何じゃこりゃ!?』」
旦那様が叫びました。
私は久しぶりに聴いた旦那様の日本語に、何事かと驚いて、さすがに目を開きました。
そこでは旦那様が固まっております。
「パパ、ママ、ムニャムニャ……」
私も、あまりのことに固まってしまいました。
なんと、私と旦那様の間に、キラキラと光るような腰まである長い金髪をした、裸の幼い女の子が眠っていたのです。
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