第61話 モブ令嬢と旦那様の居室にて(後)

「んっ…………あっ、……ああ、寝ちゃってた?」


「…………はい、旦那様。とても安らかなご様子でした……その、お役に立てましたか?」


 私は旦那様の頭を軽く支えたままの状態で微笑みます。


「ああ……これ以上ないほどにね。頭がすっきりした感じがするよ……ところで、どのくらい眠ってしまっていたのかな?」


 旦那様は身体を起こして、ベッドの端に座り直しました。私の腿に触れていた左の頬がうっすらと赤く跡になっています。

 私も、旦那様の隣に身体を移動しました。


「それほど長い時間ではございませんでしたよ。一時間は経っておりません」


 私がそう言いますと旦那様は、少し心配そうに私の足を見ます。


「足は痺れていないかい?」


「正座のままでしたら痺れてしまったと思いますが、足を伸ばしておりましたので大丈夫です……それに、私にとっても幸せな時間でした。こんなことを言ったら怒られてしまうかも知れませんが……旦那様の寝顔は、その、とても可愛らしかったです……」


 そう言ってしまったあと、私はやはり五歳も年長の旦那様になにを言ってしまったのだろうかと、顔を赤くしてしまいます。

 少し首を竦めて旦那様の方を見ましたら、旦那様のお顔も赤くなっておりました。


「ううっ、ゴホン…………ところで、正式に王宮で開催される茶会へ招かれる事になったから、今回はヴェルザー商会から馬車を借りようと思うんだ。流石に王宮へ辻馬車で乗り付けるわけにも行かないからね」


お義父ドートル様に話しに行かれるのですか? でしたら私も一緒にルブレン家に伺いたいのですが。カサンドラお義姉様にボンデス様のご様子をお伝えしたいのです」


 前回ルブレン家でのお茶会の後、一度ご挨拶の文を送らせていただき、カサンドラお義姉様からも、私が提案したように、ボンデス様と文を交わすことにしたとしたためられた文をいただきました。


「ああ、フローラは義姉上と文を交わしているのだったね。俺も兄上の様子も確認するつもりだったから構わないよ。あの茶会の後、義姉上や父上に言い含められていたから、レンブラント伯爵とは距離を置いているとは思うんだが……様子を見て、場合によっては兄上を領地に戻した方が良いかもしれないと父上に話をするつもりだ」


「アンドゥーラ先生に伺った、黒竜王様の邪杯の欠片ですか?」


 私が発した邪杯の欠片という言葉に、旦那様はグッと歯を食い縛るようにして渋面を作ります。

 これまでも、過去の話が出たときにはそのようなお顔をなされるときがございましたが、今回はさらに深刻そうなご様子です。


「ああ、もしそんなものを所持している人間が居るとしたら……簒奪教団に関係している可能性が高い。ゲームの中で俺が破滅した最悪の原因……。それが邪杯の欠片だったんだから」


 そんな……。そういえば、アンドゥーラ先生の口から邪杯の欠片という言葉が出たとき、旦那様は考え込んでいたように見えました。ですが、もしかしたらあの場にいた先生とブラダナ様に動揺を悟られまいと必死に平静を装っていたのでしょうか?


「ゲームの中のグラードルがどのようにして、邪杯の欠片を手にしたかはよく分かっていない。だけどそれによって俺は……邪竜復活の憑代よりしろとなってしまった……」


「まさか…………そのような」


 以前、最悪第二次黒竜戦争が起こってしまうかも知れないと仰っていましたが……旦那様が邪竜の依り代となってしまうかもしれなかったとは、ああ……それで旦那様は私に詳細をお話しにならなかったのですね。


「おそらく、いまの俺が邪竜となることはないだろう。だが、アンドゥーラ卿の言っていたことが事実ならば、邪杯からこぼれ落ちた汚れた欲望の影響を強く受けている人間は、邪竜の憑代となる可能性がある。これまでは、俺が簒奪教団と接触しない限り、この可能性は排除できると考えていた。だけど、これからは常にその最悪の可能性を考えないといけない」


「ということは、リュートさんにどなたかと結ばれて頂かないとならないということでしょうか?」


 私は、旦那様から聞いていた物語の内容からそう問いかけました。


「既にこれだけ状況が変わってしまっているから、どうなるかは分からない。しかし、ゲームの中で復活した邪竜を最後に鎮めたのはリュート君だから。彼がその力を発揮できるようにはしておいた方が良いのは確かだね。『ゲームだとまだ良いんだが、現実世界で考えると、愛の力で……ってのは、かなり恥ずかしいんだけど』」


 最後のところが日本語になっておりましたが、意味が分かってしまいました。私、愛の力で世界が救えるというのは素敵なことだと思いますけれど。


「ところで、いまの話と関連して、ひとつ気になっていることがあるんだ。バレンシオ伯爵の事なんだけど……俺は初めにバレンシオ伯爵と言う御仁の話を聞いたときは、エヴィデンシア家に対する執着心は確かに異常なものだが、相当に用心深い人間だと感じたんだ。でなければ、この三〇年もの間、犯罪の決定的な証拠を掴まれないわけがない。だけどここ最近の、レンブラント伯爵からだと思われる示唆。それに、ライオット卿の考察。そのどれもが狂気に取り憑かれた人間だと感じられる。まるで、兄上と同じように思考が短絡してしまっているように……」


「旦那様は、バレンシオ伯爵も邪杯の欠片の影響を受けていると――そう考えているのですか?」


「ああそうだ。それに、ブラダナ様は俺の魂が浄化されていると仰ったが、落馬したときに意識が前世のものと切り替わったとするならば……これは仮定だけど、浄化されたんではなくて、俺の中に在った汚れた欲望は、俺の身体から抜け落ちたのではないか? そう考えると、その汚れた欲望はどこへ行った……、兄上もそうだがバレンシオ伯爵の様子がおかしくなったのも、俺が――いまの俺になった時期と重ならないか?」


 旦那様は、肘を膝に付けるように前屈みの状態で両手を握りしめます。そして思考の渦の中に呑み込まれて行くように見えました。


「考えすぎかもしれないが、兄上の状態が悪化したのは邪杯の欠片だけが原因ではないかもしれない……」


 その言葉は、私に聞かせようとしたのではなく、ご自身に確認させるためのものに聞こえました。

 私は思考の渦の中へと沈んでしまった旦那様を少しの間見つめておりましたが、時を見て話題を変えるように声を掛けました。


「ところで旦那様、アンドゥーラ先生の個室で旦那様は、物に残る記憶を見る魔法と仰いましたが、あれはもしかしてリュートさんの持っている逆鱗に残っているかもしれない記憶を見てみたいということでしょうか?」


 その問いかけに、旦那様は私と視線を合わせて口を開きました。


「やっぱり気付いたか……。フローラが俺にお守りをって思ったのは、彼の持つ逆鱗の首飾りを見たからだろ? あれは彼の亡くなったご両親からもらったお守りだって話だし」


 旦那様にはリュートさんの持つ逆鱗の首飾りの話はしておりません、ですがゲームの主人公がリュートさんですので知っていて当たり前ですよね。


「はい、そうです。ですがどうしてその記憶を見てみたいと考えているのですか?」


「これは、法務卿の茶会でバレンシオ伯爵の犯罪について聞いたときから、頭の端に引っかかってはいたんだけど、もしかしたらバレンシオ伯爵がおこなっている犯罪が、ゲームの物語の裏に関係していたのではないかと思ったんだ」


「犯罪とは、人身売買と竜種売買のことでしょうか?」


「そうだね。俺は、リュート君のご両親が、その竜種売買に関わった被害者ではないかと考えている」


 旦那様は、ゲームという物語の知識を持っておいでですので、これまでに得た情報から私には理解できない答えを導き出す事がございます。いまのこの話も私には突拍子もなさ過ぎて理解が及びません。


「何故そのようにお考えになったのですか?」


 旦那様は、顎の下に片方の拳を付けるようにして軽く考え込むような仕草をなさいます。


「……俺にはエヴィデンシア家、というかフローラ、君がそれらの事件を繋ぐ存在キーパーソンだと思えてならないんだ」


「私が……、それは、もしかして私に知らされていない、ゲームの知識から導き出されたのでしょうか?」


「そうだね……ゲームでは、名前と遠目の後ろ姿しか登場しなかった君が、グラードルがいまの俺になった事で、貴宿館を提案した。そして、君の交友関係からリュート君が貴宿館へと入居して、アルメリア嬢、聖女マリーズ、そして今日――クラウス王子、レオパルド君、レガリア嬢までもがやって来た……。リュート君やアルメリア嬢だけならば俺も偶然だと――ここまで考えなかったかも知れない。でもここまで貴宿館にメインキャラが集まるなんて、普通あり得るわけがない。これは逆にただの関係以上のものがあるんじゃないかと思えるほどだ……」


「それで、逆鱗の記憶なのですね」


「ああ、逆鱗の記憶を見ることができれば、もしかすれば竜種売買に関係する何らかの証拠が手に入るかも知れない……巧く行けば、君をバレンシオ伯爵の前に晒す前に、彼を排除できるかも知れない」


 ああっ……そういう事なのですね。


「旦那様――旦那様はもしかして、デュランド元軍務卿にお婆さまの話を聞いたときから、どうすれば私がバレンシオ伯爵と顔を合わせずにすむか考えていらっしゃったのですね」


「デュランド元軍務卿の話を聞いて、いまのバレンシオ伯爵の様子を考えると、おそらく君を目にすれば彼は君を……君の存在を許せないと思うんだ。その茶色の瞳と髪色をした君を……」


 そう言われて、旦那様の懸念が私にもハッキリと分かりました。確かに、これまで聞いた話からバレンシオ伯爵は貴族としての矜持が非常に強い方だと伺えます。そしてお婆さまの血とお祖父様の血が混じった私のこの瞳と髪色を見れば、それこそ汚れの象徴に見えることでしょう。

 旦那様は、眉根を寄せて苦悶の表情をつくります。そして私を抱き寄せました。それはまるで野にある花を手折ってしまわないように包み込むように優しく愛でるように……。


「それこそいまの彼の状態では、その場で剣を抜いて襲い掛かられかねない。俺としては、できることならば王宮での茶会前に決着を付けたいんだ。フローラ、君を少しでも危険から遠ざけておきたい」


 彼はそう言って、私に優しく口づけをしました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る