第39話 モブ令嬢と旦那様の長い夜(後)
旦那様は、大きな鼠が私のことだとご理解なされたようですが、正確にはメアリーもおりました。申し訳ございません。
旦那様は太ももに肘をついて、大きな右の手で額を押さえるようにして考え込んでしまいました。
目を閉じて――頭の中を整理しているようなご様子です。
少しして彼が目を開けました。
「これは……最悪の可能性だから、本当は口にしたくなかった。だからいまのところ、ここだけの話にしてほしい」
旦那様は真剣な表情ですが、私に視線を合わせることはいたしません。それは、どこかこれから話すことに関して私の関与を許さないという宣言のようにも受け取れます。
「
「竜王様たちの持つ世界の管理権限をですか? そのようなことができるのですか?」
「どうなんだろうね、結局物語の中では阻止されていたから……フローラは竜王様たちが持つ神器のことは知っているかい?」
「はい、聖剣ブランディア、聖
聖剣ブランディアと聖盾バルトは、婚姻の義にそれを模した剣と盾を使用しますのでよく知られております。
「奴らは、七大竜王様たちを滅ぼして、その神器を手にすれば、自分たちが彼らに成り代われると考えているらしい。これは、最も最悪の展開だけど場合によっては、第二次黒竜戦争がこのオルトラントで勃発する」
旦那様のその言葉に、私は――全身が痺れでもしたような悪寒に襲われました。
黒竜戦争と言えばおよそ五〇〇年ほど前、あまりにも多くの人々の欲望をくらい続けて邪竜と化してしまった黒竜ヨルムガンド様を、竜王様たちと当時の強力な力を持った戦士たちが死闘を尽くしてお鎮めになり、やっと収まった戦争です。
その中で多くの英雄が亡くなり、また多くの国々がそれを原因として滅びました。そのような戦争がこのオルトラント王国で起きると旦那様は言うのです。
「いまのは最悪の可能性だから、俺もそんなことが起きないように手を尽くす。フローラはあまり気にしないように」
「正直申しまして旦那様、最悪の可能性を一番初めに聞いてしまった私に、あまり気にしないようにと言われましても……」
「いや、まあ……それは確かにそうなんだが……奴らは、ゲーム――いや物語の中でも、ほとんど詳細が分からないんだ。物語の主人公はリュート君だから、その話に出てくる俺がどこで奴らと繋がりを持ったのかも分からないし……どちらにしても、奴らについてはセバスに調べるように依頼している。だからフローラは絶対に奴らのことを調べようと考えないように。分かったね」
私は、旦那様のそのお言葉に少し首を
その私の様子を見た旦那様が、何かに気が付いたように口を開きます。
「まさか……フローラ、その簒奪教団の話を聞いたのは君だけかい?」
旦那様が真摯な表情で私をまっすぐに見つめます。
メアリーごめんなさい。私、今の旦那様に嘘をつくことなどできません。
「いえ、その……メアリーも一緒に……申し訳ございません」
「はーーーーっ。そこは気にしてなかったよ。流石にメアリーは抜け目がないな。まさかフローラがそんな真似をするわけがないと思ってたから、完全に盲点だった。セバスは別にしても、アンドルクの中に俺のことを探る人間はぜったいにいるだろうと思ってたんで、それなりに気は張ってたんだけどね」
「私……どうしても旦那様のことが気になってしまいまして。その、お嫌いになりますよね――そのようにはしたない真似をしてしまった私の事……」
「……いや、そこまで俺のことを思ってくれていたのかと……嬉しいというか、恥ずかしいというか……それに、全裸の衝撃に比べれば……」
旦那様は、お顔を赤くして傷痕の辺りを掻きます。
「もう、旦那様は意地悪です!」
私だって今考えますと、いくら感情が高ぶっていたとしましても、なんということをしてしまったのでしょうと顔から火が出そうな思いですのに……。
「でも――ということは、メアリーも簒奪教団の事は調べているか……これはセバスに言っておいた方が良いな。もしも別々に動いていたら、何かあったときにアンドルクの連中が危ない。……却って、これは今分かって良かった。……だいぶ話が逸れてしまったけど、君にいま話しておけるだけのことは話しておくよ」
そう言って旦那様は、彼の知る、これからリュートさんを中心にして起こるかも知れない出来事の一端をお話しくださいました。
それは、先ほど聞いた話ほどではないにしましても、正に物語でございました。しかし、これから先に起こるかも知れない出来事だというのです。
私は、旦那様と共に、より良き未来をつかみ取れるように、夫婦で協力して行くのだと、誓いを新たにいたしました。
◇
「では、旦那様が独り言で話しておられる言葉は、前世の世界のものなのですね?」
話が一段落しました後、私はそう切り出しました。
「まあ、分かるよね。そう、前世で俺が暮らしていた国。日本っていうんだけどそこの国の言葉だよ」
「……旦那様。お願いがございます。私にその言葉を教えてくださいまし」
私は旦那様の手を取ってそうお願いいたしました。
「えッ……いッ、いや、ほら、そこは
「旦那様は私に聞かれると恥ずかしいことをお話しになっておられるのですか?」
私は、小首をかしげて旦那様に笑いかけます。
これはマリーズがたまに、お付きの巫女たちにしている駆け引きのような仕草です。
私、彼女から悪い影響をうけてしまっているでしょうか?
「いえ、はい……分かりました……教えます」
旦那様が、私の笑顔に耐えきれずお言葉を教えてくださると仰いました。
これで、私が時折旦那様を遠くに感じてしまう、あの不思議な響きの言葉を知ることができます。
私はそう喜んだのですが、一つ旦那様に告白しなければならないことを思い出してしまい、軽く血の気が引いて行きます。
「……あっ、あの旦那様。私も、旦那様に告白しなければならないことがございました」
「何だろうか? フローラ」
「実は、丁度一週間前になるのですが、私、いえ、私たち
「………………鍵を開けた形跡があったから、誰かあそこに入ったのは気付いてたけど……まさか、君。えッ? チョット待って今、『私たち』って言った!? フローラが私たちって言うって事は、メアリーだけじゃないって事だよね」
旦那様、私がそのようなことをするときはメアリーが既に、
「はい、そのアルメリアとマリーズが……」
「えッ、マジ。……それにしては、彼女たち何も変な様子がなかったけど? アルメリアがあんなところ見たら、俺に食ってかかってきそうだし……あれ、そういえば、なんか熱っぽい表情で見つめられてたことはあったけど、あれ? あれ? ……それにマリーズだって、あんな物を館の中に造っているような男のいる屋敷にリュート君を置いておくなんて以ての外だって言い出しそうじゃないか」
「いえ、アルメリアはあの後少し様子がおかしかったですけれど、マリーズはあの部屋が使用されていないことと、それまでの旦那様の行動を見て、あの部屋を造る指示を出したときの旦那様と、今の旦那様の心根が違うと仰っておられました」
実際には、本当に心根がお変わりになっていたということなのですが、今となりましては弁解する必要もないでしょう。
「それにしましても、なぜ旦那様は鍵が開けられたことにお気づきになったのですか? メアリーは鍵を元通りに戻してたのですが」
「ああ、ドアの蝶番にね、俺の髪の毛を一本挟んでおいたんだよ。このように、一方を端を壁の角に固定してもう一方を蝶番に挟む、ドアが開いて蝶番が開くと髪の毛はまっすぐに伸びて壁に張り付くから、まず目に付かないし掃除されてしまうこともない」
旦那様は、少し得意気な様子でそのように仰いました。旦那様は私が思っていた以上に慎重なお方のようです。あの何でもお見通しのように感じられるメアリーにすら気付かれないように、そのような仕掛けを施しておられたとは。
「……だけど、あの部屋を見て、良く俺を信じてくれたね……フローラ」
旦那様が、愛おしいものを見る表情を浮かべて私の頬に手を当てます。
最近になり旦那様は感情が高ぶると、このように私に触れるのだと分かるようになりました。
「私、旦那様があのお部屋を一番初めに封印なされたのを知っておりましたし……ですが、旦那様はやはりお気づきではなかったのですね。私、婚姻の儀で初めてお目にかかり、旦那様のお優しい光を灯したその瞳を見たときより、既に旦那様のことをお慕いしていたのですよ。ですから心は揺るぎませんでした……」
私は頬に添えられた旦那様の手を両の手で取り、胸の前で包み込むようにして、心の底からの微笑みを彼に向けました。
「ンッ…………ン、ハッ、ン…………、……だっ――旦那様…………ンッ」
私は、目を回してしまいました。それは、旦那様が突然、私が包み込んでいるのと逆の手を、私の首の後ろに回して自分に引き寄せ……口づけをしたからです。
お茶会に出席する前に剃った旦那様の髭が、僅かですが伸びてきており、口の周りが少しチクリといたします。
ですが、そんな些細なことなど関係なくなってしまうほどの衝撃です。
頭がクラクラとして、身体の中心に火が灯ったように熱が立ちこめてまいります。
先ほども、顔から火が出そうなほど恥ずかしいと申しましたが、いまは本当に火が出ていても不思議でないほど、顔が熱いです。
「ンッ…………はっ」
「フローラ、君も気が付いていなかったんだね。俺は、わりと何回も君のことを宝だと言っていた気がするんだけど、俺も君と初めて顔を合わせた瞬間から君のことが大好きなんだよ……」
口を離した旦那様が、そう言って優しく笑いかけてくださいました。
私は、その笑顔がまぶしすぎて少し目を伏せてしまいます。そして、胸の内から小さな不満が湧き上がってきました。
「旦那様……でしたらお願いがございます」
私の、少し拗ねたような顔を見て、旦那様が少し動揺したお顔になりました。
「何だろうか?」
「今一度、口づけをしてくださいまし、私、あまりに急すぎて衝撃しか覚えておりません。そっ、その……せっかくの
私は、旦那様にふしだらなお願いをしてしまいました。
ですが、夫婦なのですからそのくらいのお願いは良いと思うのです……
◇
あの後、私たちは結婚して夫婦となった者としてはとても遅い口づけを終えて、ベッドに入りました。
正直申しまして、まったく眠れる気がいたしません。
まんじりともせずに布団の中で、ドキドキと鼓動を打つ、己の心臓の音を数えておりましたら、突然旦那様が口を開きました。
「ところで、フローラ。君、なんで夜着の下、全裸だったの? 下着は?」
「だッ、旦那様……それは、……眠るときに下着を着けておりますと、早く下着が傷んでしまいますので……」
「…………ごめん、フローラ」
この会話の後日、旦那様に連れられて、下着を扱います衣料品店へと買い物に行くことになりました。
その買い物の最中、旦那様はずっと、視線をどこに向けたら良いのか分からないというように、顔を真っ赤にしてキョロキョロとしておられました。
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