第38話 モブ令嬢と旦那様の長い夜(中)
あの後、旦那様は床へと落とした夜着を拾い、私に着せてくださいました。
そのときになって私は、感情のままに
頬が火照り、動悸がいたします……。
いま私たちはベッドの隅で、バルコニーに向かって並んで座っておりますが、私は――膝に手をまっすぐに添えて、その先の絨毯に視線が固定されております。
「とりあえず……」
旦那様は、枕元のチェストの上に置かれた呼び鈴を手に取ると、それを鳴らしました。
しばしの間、静かな時が流れます。
コンコンと居室のドアを軽く打つ音がして、ドアが開きました。
「お呼びでございましょうか旦那様」
「セバス――これからフローラと大事な話がある。誰もこの部屋に近付かないように取りはかってくれ」
「畏まりました」
そう言うと、セバスは静かに退出していきました。
「これで良し……セバスに言い付けておけば間違いないだろう」
私も、メアリーに釘を刺しておきましたので大丈夫だとは思いますが、これでアンドルクの者が聞き耳を立てているということはないでしょう。
旦那様は、覚悟を決めたようにフーッと大きく息を吐きますと、軽く息を吸い口を開きました。
「フローラは……、生まれ変わりって知ってるかい?」
「生まれ変わり――ですか? たしか、銀竜クルーク様の審判を受けた後、罪過の重さに寄る罪の
私の返事に旦那様は安堵の息を吐きだします。
「よかった。こっちにも生まれ変わりの概念があって。俺の世界でも宗教によってはその概念がないからなあ。俺の記憶の中にはその辺りの覚えがないんだよ」
「あっ、あの?」
旦那様はいま、俺の世界と仰いましたが、それではまるで別の世界があるような……。
しかし彼はそんな私の戸惑いを押しとどめるように、言葉を続けます。
「何でこんなことになってるのかは分からないけど、俺はね……おそらくその生まれ変わりなんだよ」
隣に座る旦那様の横顔を私は凝視いたします。今の旦那様の瞳には先ほどあった怯えの色もなく、いまはいつもの優しい光を湛えて淡々とお話になっております。
「既に四ヶ月くらい前になるけど、あの戦場で傷を負ったとき……その前世の意識が甦ったんだ――と思う。まあ厳密に言うと、ここ二年の記憶も、その生まれ変わった前世の記憶と入れ替わってる」
「そっ……それは……」
私は、混乱してしまいました。
旦那様が、記憶を失っておられるのではとは考えておりました。それ以外にも何かあるとも……。
しかし、前世の意識とは? その私の様子を見て察してくださったのか旦那様は続けます。
「意識が甦ったっていうのはね。モノの考え方とか、感じ方っていえば良いのかな。 一八歳までのグラードルとしての記憶は間違いなくあるんだ。だけどそれまでの俺の考え方が分からないから、なんで記憶にあるような行動をしてるのか、今の俺にはほとんど理解できない。正直、入れ替わっている前世の記憶の方がしっくりと自分の考え方や行動のしかたと合っているんだ」
旦那様はいま、淡々とお話しになっておりますが、そのようなことが突然起これば相当に混乱なされたのではないでしょうか? いま話を聞いているだけの私がこれだけの衝撃を受けているのですから。
「では療養後に性格が変わったと皆様が仰っておられたのは……」
「そうだね。今の俺は、それまでのグラードルとはまったく別の人間だと言って良いかもしれない……だけどフローラ。君は俺の言っていることを信じるのかい?」
旦那様はどこか意外そうな様子でそう仰います。
「当たり前です旦那様。旦那様に秘密を話してほしいと言ったのは私なのです。覚悟を決めお話しくださる旦那様が私に嘘をつくわけがございません」
私は、当たり前のことを聞かないでくださいと、マリーズの真似をして少し口をプリプリとさせてそう言いました。
その様子を見て、旦那様は小さく笑います。
「……ほんと、君は……」
しかし、旦那様の目には僅かに涙が滲んでおります。
「しかし、このくらいの事でしたらそこまで秘密になさることは無かったのではございませんか? 私は今の旦那様と出会い、そして、その……今の旦那様を愛したのですから」
先ほどあれほどはしたない行動をしておきながら、恥ずかしさに頬が火照ります。
しかしこれは、今の話を聞いた私の率直な感想でございます。
ですが、旦那様はゆっくりと首を振りました。
「いや、問題はここからなんだ。俺の入れ替わっている二年の記憶には、この世界の記憶、いや、今から少し先の未来までの記憶もあるんだ」
「そっ……それは……一体?」
先ほどのお話ですと、前世の旦那様は私たちの世界とは別の世界で生きておられたと仰いました。
ですが何故、私たちの世界の記憶があるのでしょうか? それも、今より先の記憶があるとは?
「記憶といっても、そうだな、この世界を題材とした物語といった方が良いのかな。ただし、人生の転機となるような場所で、主人公となる人間の行動が、いくつかの選択肢の中から選べるようになっているんだ。その選択肢で物語の先が変わるようになっていると考えてもらえれば良いのか」
「選択肢で未来が変わるのですか?」
それまで、外を見たままでした旦那様が私に向き直り、正面から私の視線を捉えました。おそらくはここからが重要なのでしょう。
「そうだ、そしてその物語の主人公は、いま貴宿館に入居しているリュート君なんだよ。しかも、アルメリア嬢もマリーズ様もヒロインの一人として登場する。フローラと仲良くなったレガリア嬢もだ。そして選択肢によってはリュート君と結ばれることになるんだ」
「まあ……、リュートさんが主人公で、そしてアルメリアやマリーズが……そのような物語が旦那様の前世の世界にあったというのですか?」
「ああ、そうなんだ。そして、最大の問題はその物語の中で、リュート君に難癖を付けたり、アルメリア嬢やマリーズ様たちに、言い寄ったりして、主人公がどの選択肢を選んだとしても最終的には様々な悪事が露見して身を滅ぼして破滅する当て馬として配役されているのが、俺――グラードルなんだ」
「ええッ! そんな……しっ、しかし、旦那様は……」
私は、目の前が真っ暗になりそうな衝撃を受けました。先ほどの生まれ変わりという話だけでも、私でしたらその事実を受け止めるのが精一杯だと思うのです。それがそのような……
私が旦那様の立場でしたらと考えると胸が詰まります……自分が突然これから先、破滅するかも知れない人間になったとしたら……それはとても恐ろしいことです。私の想像など――きっと旦那様がいま抱えておられる恐ろしさにはとても及ばないでしょう。
旦那様はこれまで、それほどの恐怖を抱えて生活をしておられたのですね。
考え込んでしまっていた私がふと顔を上げますと、旦那様の優しい光を放つ黒い瞳が私を見つめておりました。
「そんなに心配してくれなくても大丈夫、フローラ。俺には君がいるから。俺は君と出会えたからこのグラードルという人生を受け入れて、その先にあるかも知れない未来に立ち向かおうと決意できたんだ。それに、今の俺はリュート君やアルメリア嬢たちにおかしな事をするつもりは微塵も無いからね」
旦那様は、私が居るからと、私と出会えたから、破滅の未来があるかも知れないその恐ろしい人生を受け入れてくださったと、そう仰ってくださいます。私の瞳に、また涙が滲んできてしまいそうです。
「ああッ……ではあのときアルメリアの名前を聞いて驚いておられたのは!? それに、リュートさんが我家に来られたときも……、マリーズがやって来たときも……。考えてみますと、私と初めて会ったときの反応も……」
私が感じていた些細な違和感の正体が、次々と判明してゆきます。
「しかし旦那様。いま旦那様が仰ったように、その物語のように行動なされなければ、問題ないのではございませんか?」
「俺もそう思いたいんだが、これは、言って良いものか……」
「もしかして旦那様。これから先何か重大な出来事でも起こるのですか? それに私を巻き込んで良いものかと考えておいでですか? ……旦那様、夫婦は一心同体でございます。私はその旦那様の苦悩を夫婦として共有したいのです。お願いでございます」
「……これから先のことについては、正直まだどう動くか分からないんだ。いくつかの可能性はあるんだけれど、仮に俺が破滅しなかったとしても、リュート君の動向によっては、大変な事態が起こることは間違いないんだ」
「あの、もしかしてですが、先だってからリュートさんとアルメリアの仲を取り持とうとなされておられたのも、その辺りが関係していたのですか?」
「そうなんだ、先のことを考えるとリュート君には誰かヒロインと結ばれてもらわないと大変なことになる可能性がある。じつは、俺がヒロインとなる女性たちに言い寄ることでリュート君と彼女たちの仲が深まる切っ掛けとなることが多いので、正直、リュート君が彼女たちと仲良くなる機会が既にかなり潰れている……」
言いながら、旦那様がご自分の理不尽な状況に、苦笑いをしておられます。
それであのとき旦那様は、私の存在を忘れるほど、リュートさんにアルメリアを勧めていたのですね。理由が理解できました。旦那様は、その大変な事態になる可能性に気づき慌てておられたのですね。
「正直なところ、先に起こるかも知れない状況を知っているということは、一長一短なところもあるんだ。だから、いまフローラに話せる事は話すけど、全てを話すことは勘弁してほしい……それで、良いかな?」
「……分かりました。その辺りの事は旦那様の判断にお任せいたします。ですがその前に一つだけお聞かせいただきたいことがございます。先だって、書斎にてセバスに聞いておられました『
私がその言葉を口にした瞬間、旦那様はそれまでの淡々としたご様子を一変させました。
「……それを聞かれてたのか……ああ、あの時、セバスが『大きい鼠』って言ってたのは君のことだったのか……」
旦那様はそう言って眉間を押さえました。
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