第40話 モブ令嬢の居ない夜の闇

「で、どうであったオルバン――ルブレンの茶会は? 奴めにたらし込まれた下位貴族どもはしっかりと目にしてきたのだろうな。成り上がりのルブレンのことだ金で票が買えると思っておるだろうが、貴族同士の繋がりの恐ろしさというものをあやつは知らぬ」


 鎧戸が閉められた薄暗い部屋の中、執務机の上に置かれたランプの光を受けた男がそう吐き捨てた。

 モルディオ・ドラバント・バレンシオ伯爵。オルトラント王国の現財務卿だ。


 彼は頭の頭頂部が禿げ上がっており、側頭部に黒い髪が生えている。瞳は黒に近い赤色をしていた。

 老いを隠せない皺深い肌は、揺らめく光を受けてその皺が波打ってでもいるように見える。

 ぬめるように光る額は両生類を連想させるようにのっぺりとしていて、その下にある目がギョロリと大きい。

 いぼの多い鼻は鼻翼部が大きく張り出していて、その下にある薄い唇は横に大きく広がっている。

 モルディオは、その大きな口を開けて、少々ヒステリックに声を張る。


「ふん、それにしても忌々しいエヴィデンシアとルブレンめ! いま少しでエヴィデンシアの息の根を止められたものを! オルドーの奴めを、蹴落としてくれたときにはエヴィデンシアがこれほどしぶといとは思わなんだわ。あれから既に三〇年も経っておるのだぞ!」


 モルディオの執務室を兼ねた書斎の中、部屋のドアを背にしてオルバンは表情を変えずに立っている。

 口の端に泡を吹いてわめくモルディオを気にする様子もなく、彼は淡々と口を開いた。


「叔父上、そのように興奮なさいますな……しかし、何故そこまでエヴィデンシア家にこだわるのですか。今やバレンシオ伯爵家とは爵位は同じでも家格でいえば天と地だというのに」


 そのオルバンの疑問にモルディオは、顔に怒りを浮かべて吐き捨てる。


「ふん、貴様のように生まれたときからオルトラントで生きている者には儂の気持ちなど分からぬわ! バレンシオ家はいにしえの大国トーゴより続く、王さえ輩出した名家であったのだぞ!」


 トーゴ王国、五〇年程前よりオルトラント西北にて復興した新政トーゴ王国の前身であった王国である。

 およそ五〇〇年前、この地より黒竜戦争が始まり一夜にして滅亡したと言い伝えられている王国だ。


「今ではトーゴ王国で、ただの侯爵家であったマーリンエルトが公国などとうそぶいて大きな顔をしておる。我がバレンシオ家とて、曾祖父そうそふの代までは、あのトーゴの地にて長らく領地を治めておったものを……あの時、祖父オズワルドが怖じ気づいて亡命などしなければ……我家は今頃、新政トーゴ王国で公爵家としての地位を手にしていたはずなのだ! オルバン、貴様には分かるまい、亡命貴族がどのように白い目で見られるか……国を捨て、逃げ出した卑怯者よと後ろ指を指されて生きるのだ。そのような言葉を吐きかけられながらも、祖父も父もこのオルトラント……黒竜戦争後に運良く生き残った、出自も分からぬ男が興した国に、媚びを売るようにして生きてきたのだ!」


 暗い憤怒を、沸々とその言葉の中に滲ませてモルディオは吐き捨てる。


「しかし、その祖父や父上の献身のおかげでバレンシオ家は伯爵位を手にしているではないですか。それに、それは叔父上がエヴィデンシアにこだわる理由にはならないのでは?」


「オルドーの奴めは、人のいい顔をして儂に近付き、儂の最も大切なものを奪っていきおった……あの時代、誰もが卑怯者の子として儂をそしり嘲った。……ヤツだけがそのようなことは気にするなと……その行いが正しければいずれ他人ひとは理解すると……だがヤツはそのような甘言を弄した裏で、儂が唯一愛した女、儂のフローリアに近づき彼女を奪っていきおったのだ! ヤツなどと一緒になったためにフローリアは早世した……儂はフローリアを穢した――ヤツの血族だけは……許さん! 儂が生きているうちに根絶やしてくれる」


 彼の瞳に灯るのは狂気の光だ。

 エヴィデンシア家に向ける彼の異常な執着。オルバンはこの件に関しては、これまで一歩引いて眺めていたのだが、今回の財務卿選定に僅かでも枷となる可能性を見逃すことができず、初めて踏み込んだのだ。

 そんな叔父の口から飛び出してきたのは、なんとも私的な痴情のもつれであった。


「それに……おぬしとて分かるであろうが……ルブレンの小僧に愛した女を奪われたのはおぬしとて同じであろう……」


 モルディオがオルバンを睨めつけて、クックックッと嫌らしい笑みを浮かべる。

 オルバンの顔に、初めて苦々しげな色が浮かんだ。 


「メルベールと言ったか、あの娘は……幼馴染みであったのだろ? 娘にメイベルなどと名付けるのだ、未だに心が残っているのではないか、ああ? 今日は顔を合わせてきたのか? ……つくづく因果な巡り合わせよのう、ルブレンもエヴィデンシアも儂らには仇敵であるようではないか」


 モルディオは己の狂気を、オルバンに植え付けんとでもするように、暗い笑みを彼に向けた。


「それにしても、エヴィデンシアも馬鹿なものよ。自らを滅ぼすかもしれん駒を我らに晒して、それが我らを止める駒になると勘違いしておる」


 ニヤリと、口の端を上げてモルディオは言う。


「叔父上。……まさか、白竜の愛し子と聖女を手に掛けようなどと企んでおられるのではないでしょうね。軽挙はお慎みください」


「何を言っておる。別に儂が手を掛けるわけではないぞ……どこの誰とも知れぬ暴漢が、エヴィデンシアの邸宅に住まう貴人を襲うのだ。王国の賓客ともいえる貴人を預かったエヴィデンシア家で、そのような事件が起きれば、家の断絶は免れまい……うまくいけば一族郎党死罪ということもあり得るぞ」


 モルディオはそう嘯いて見せると、愉快そうに喉の奥で笑い声を上げた。

 それを見るオルバンの瞳には冷たい光が走る。


「法務部の捜査局が動いていると手の者から報告が上がっています。エヴィデンシアの屋敷は間違いなく厳重に警備されておりますよ」


「どこの誰とも知れぬ暴漢だ。うまくいけばよし、失敗しても儂らの腹は痛まぬだろう」


 いや、このような時期にそのような行動を起こすのは叔父上、貴男しかいない。オルバンはその言葉を口にすることはしなかった。この狂気に呑み込まれた老人にその言葉が届かないことを理解したからだ。

 だが、そのような事件でも起きれば、捜査局は間違いなくその線で捜査を始めるだろう。証拠はそう簡単に消すことはできない。

 エヴィデンシア家への復讐という狂気の愉悦に酔うこの男には、そのような道理でさえ理解できなくなっているのか。





『しかし狂人ではあっても、叔父上も抜け目のないことだ。いや狂人の妄執故か……まさか私の身辺まで調べていたとは。ならばいまひとつの秘密も既に知れていると考えるべきだろうな。しかし……身内でさえ脅そうというわけか。

 だが、叔父上も老いたな。以前はまだ己の身の安全を図る理性があった。いまのあの執着は危険だ。場合によっては叔父上には退場願わねばならないか……』


 モルディオの書斎を出て廊下を歩きながら、そのようなことを考えていたオルバンに、どこか粘ついた声が掛けられた。


「おお、これは従弟いとこ殿。このような時間に我家におられるとは珍しい。財務卿選定の件で父上に呼び出しでもうけたのかな? それともまたエヴィデンシアか?」


 オルバンの心の内に苦いものが浮かび上がる。

 それは、バレンシオ家においてモルディオのほかにオルバンが気に掛けておかなければならない男の声だったからだ。

 その声の主に振り返ると、まさにモルディオの縮小版とでも言ったような男が立っていた。髪色と瞳の色も微妙な違いはあるものの、ほとんど同じようなものだ。

 その男が忌々しげに言葉を続ける。


「父上も老いたわ。あの執着を、死にかけのエヴィデンシアなどよりも、我家を良いように使い潰そうとするオルトラント王家とトーゴ王家への復讐に向ければいいものを」


「ローデリヒ殿、そのようなことを口にしては……」


 モルディオが老いたという点については、オルバンも相違はなかったが、このローデリヒの言葉は口の端に載せる事柄ではない。

 ローデリヒ・シモンズ・バレンシオ。

 モルディオによって幼い頃より、バレンシオ家の不遇と彼の内にあった怒りを注がれ続けてきたある意味、バレンシオ家の狂気の象徴のような男だ。


「ハッ、我家に間者でも忍び込んでいるとでも言うのか? 我家はあの新政トーゴの王を名乗るあの男よりもずっとトーゴ王の血を濃く受け継いでいるのだ! 奴らはそれを恐れて、我家が帰参することを許さず、オルトラントの情報だけは寄越せと言ってくる。そしてオルトラントはどうだ。これまで三代にわたりこの国に貢献してきたものを、いまだに領地すら与えようとしない。オルトラントも新政トーゴも共に潰し合い滅んでしまえばいいのだ!」


 ローデリヒもモルディオと狂人という点ではそう変わりはしないとオルバンは思う。

 だが、モルディオはこれまで財務卿として君臨してきた老獪さがある分、闇の中を覗き込むような恐ろしさも感じる。だが目の前のローデリヒは、ただギャンギャンとがなり立てる鎖に繋がれた狂犬のようなものだ。

 だが、鎖から解き放たれた狂犬は、理性が及ばずその行動が読めない分、別の意味での恐ろしさはある。

 モルディオとローデリヒ。この二人の狂人を暴走させることなく財務卿選定を乗り切らねばならないのだ。

 オルバンは軽くめまいを覚えそうになりながらも口を開いた。


「いくら血族とは言っても、私はれっきとしたオルトラントの爵位を頂いている身です。ローデリヒ殿――口を慎んだ方がいい」


 オルバンに静かに威圧された、ローデリヒは一瞬怯んだものの、怯んだ己を恥じるようにその顔に怒りを浮かべてさらに続けた。


「何を賢しげに! 父上の犯している悪事に加担している以上、貴様は我らと同じ船に乗っておるということを忘れるなよ! フンッ、せいぜい我らの役に立つことだな」


 ローデリヒはそう捨て台詞を残すと、オルバンを押しのけて廊下の奥へと去って行った。





 月の光が煌々と地を照らす中、馬車が石畳の路を進む。

 バレンシオ伯爵邸を出たオルバンが乗る馬車だ。

 オルバンはその馬車の中で口を開いた。


「今日はもう現れないと思っていた。……あのグラードルという男。お前の話とだいぶ様子が違っていたぞ――エルダン」


 オルバンの席の斜め前にはひとりの男が掛けていた。

 グラードルとフローラの婚姻の儀に出席していたエルダン・カンダルクである。


「オルバン様……ヤツのことは俺にも分からんのです。ついこの間まで――あの国境線での小競り合い前までは、確かに御しやすい馬鹿だったんですがね。療養所から出て、あのエヴィデンシア家の娘と結婚してから、てんで真面目な堅物になっちまった。こっちが酒場や色宿に誘おうと手を尽くしても、のらりくらりと躱しやがる」


 エルダンが苦虫をかみつぶしたような顔をして吐き捨てた。

 その様子を見て、オルバンはその冷徹な顔に、面白そうな表情を浮かべる。


「ふむ、あのエヴィデンシアの娘……、農奴のごとき瞳と髪をした平凡な娘に見えたが、男をそのように変える何かがあるのか……。それとも、あの男が韜晦とうかいしていたのか……」


「あの馬鹿が韜晦――それは無えですよ。こっちの思惑通りにあれほど綺麗に踊ってくれる馬鹿は、俺のこれまでの人生でも彼奴くらいしか居なかった。兄貴の方は疑心暗鬼が強すぎて俺のような人間では、腰が引けてダメですね。オルバン様のように、功名心をくすぐるやり方しかありません」


「だが今回の件で、家族に戒められたろうな。まあ、今回役に立ってくれただけでも十分だったがね」


「ですがこれでは、身内に騒動を起こさせてルブレン家の信用を落とす計画が台無しですよ」


 エルダンは、やれやれというように大仰に手を広げる。


「いや、ルブレン家を支持する者たちが特定できただけで十分だ。下手に騒動を起こして王に目を付けられては台無しだからな。アンドリウス王は実力主義だ。そちらの方が国のためになると見れば、これまでの叔父上のように、少々強引なやり口くらいならば、目を瞑ってくれる。だが王国への貢献度が高いヴェルザー商会が関係するとなれば、そうはいかんだろう。ルブレン侯爵は貴族としては三流だが、商人としては一流であることは認めぬわけにはいかぬのだからな」


 オルバンは、馬車の外に流れる貴族街の街並みを、その冷徹な瞳で見つめながら、深く思考している様子を見せる。 

 エルダンが、彼の思考を妨げないように息を殺していると、オルバンが何かに思い至ったように口を開いた。


「先ほどの、グラードル卿が戦場で怪我をしたという話だが、叔父上があの男を戦場で亡き者にしようとしたという可能性はないか。エヴィデンシア家とルブレン家が繋がるのを潰すために」


 そう聞かれたエルダンは、ハッとしたように目を見開くと、考え込むように顎に拳を当てた。


「……俺にはなんとも、モルディオ様が抱えている連中は俺たちとはまったく違う、もっとヤバい連中ですから。俺も奴らに近づくことは遠慮したいですしね。それに、もしそうだとしたら完全に逆効果だ。グラードルのヤツめよほど打ち所が良かったのか、あのようにまとも、いやあれじゃあまとも以上だ……どちらにしてもバレンシオ伯爵は厄介な敵を作り出しちまったことになる……」


 エルダンはそう言いながらも、オルバンに得意げな顔を向ける。


「ですがオルバン様、ヤツも俺がレンブラント家子飼いの人間だとは気付いてはおりません。何か仕掛けるときには十分に役に立てるでしょう」


「……お前は引き続き、カンダルク商会を隠れ蓑に情報を仕入れるように。それから少しでも隙があればヴェルザー商会を切り崩すことを怠るな」


「仰せのままに、オルバン様」


 大仰に礼をするエルダンには目を向けず、オルバンは冷徹な光を放つ瞳を馬車の窓から覗く、暗い闇へと向けていた。

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