昼下がりのこたえあわせ

 キルトはチコが素直に追って捕まえられる相手ではない。冷静に考えればわかることだった。


 追って捕まえられないものを捕まえるにはどうするべきか。待ち伏せするか誘き寄せて、可能ならば動きを止めてから仕留める。狩の基本だ。


 チコは苔むした切り株に腰掛けて深呼吸した。山奥の清涼な空気が肺を満たす。風は冷たいが、頭上を覆う葉の合間から降り注ぐ陽の光は暖かい。屋敷の裏手の森の中、チコは一人そこにいた。

 レティの許可はもらっている。魔物がここまで寄ってくることは滅多にないそうだが、万が一襲われたら助けるとも約束してくれた。そうまでしてチコが外に出たからにはもちろん理由がある。


 習性を利用して、キルトを誘き寄せるためだ。


 リボンに緩みがないのを確認して、チコはよし、と気合を入れた。これからは羞恥心との戦いだ。キルトが本当に来るかも割と賭けだが、最初に思いついた作戦がこれなのだから仕方ない。

 目を瞑ったチコは、霧湧く森にたどり着いたときにキルトの幻から受けた仕打ちを思い返した。効果は覿面。さすがチコの見たくない幻だけあって、あっという間にチコの気分が沈み込む。呼吸は浅くなり、目尻に涙が滲み出した。顔も見せずに逃げられる現状を併せて考えるとより一層悲しくなる。とどめについ死にかけたキルトまで思い出してしまって、チコの涙腺は決壊した。


「っふぇ、うぅ……キルトさぁん」


 自分の泣き声を聞くと余計に泣けてくるのはどうしてなのか。想定よりも本気で泣き始めている自分にチコは少々困惑したが、割り切って心の底から泣きじゃくった。恥ずかしがる必要も頑張る必要もなく泣けるのは、今だけは好都合だった。


 習性とは、生き物の生まれ持った性質のこと。もしくは習い性、習慣のこと。

 習慣というべきか。キルトはチコに甘い。度々過保護に感じるほどに。チコが危機的状況に陥っていれば助けに入るし、泣いていれば慰めにかかる。目の前にいるときはもちろん、チコの居場所を知らないはずのときでさえ——どこからともなく現れる。


 チコの三角耳がぴんと立った。自分の泣き声に紛れて、草を踏みしめる音が急速に近づいてくる。チコは泣きながら立ち上がり、相手との距離を慎重に測った。


「チコ! 大丈——?」


 全速力で飛び出してきたキルトを滲む視界に捉え、チコは地面を踏み切った。


 腕を捕まえ足を払って、走ってきた勢いのまま地面に叩きつける。息を詰めたキルトの鳩尾に膝を押し付け、チコはがらがら声で宣言した。


「捕まえ、ました!」


 一瞬振りほどこうとしかけたキルトは、次の瞬間脱力した。せめてもの抵抗のように顔を逸らし、絞り出すように尋ねる。


「念のため訊くけど、危険なことはないんだね……?」

「危険はないです! 泣いてたのは割と本気です!」


 一度溢れ出した涙はなかなか止まらない。チコはキルトの腕を掴んだまま、流れっぱなしの涙も構わずに大きく息を吸って、吠えた。


「どうして私を置いていったんですか! 私はいつもいつもいつも、置いていかないでって言ってるのに! キルトさんはいっつも聞いてない!」

「——チコ、は」


 ぐ、とキルトの腹に力が入ったのを感じて、チコは膝に体重をかけるのをやめた。鳩尾を解放されたキルトは一度咳き込んで、続ける。


「殺すためじゃないんなら、どうして、俺を追ってきたの。だって、俺は知ってるんだよ。真人はともかく獣人にとって、禁忌の魔物俺たちがどれだけ忌まわしく、厭わしいものか」


 チコはキルトの腕を離し、乱暴に自分の顔を拭った。鮮明になった視界には、また鼠色のローブをまとい、外れかけのフードに囲まれた顔を逸らし続けるキルトがいた。その横顔からは何の感情も読み取れず、黄金の目は頑なにチコを見ない。チコは乱れた呼吸を整えて、慎重に言葉を紡いだ。


「……否定は、しません。私も、きっと他の双容デュオもそう言い聞かせられて育ちました。子供の頃から染み付いた価値観は、そう簡単には変えられません。

 それでも私にとって、キルトさんは愛おしいひとだから」


 キルトが歯を食いしばった。目元が歪んで、どこか怒っているようだった。その目はどこかへ向けたまま、キルトは言葉を吐き出す。


「嘘だったのは姿だけじゃない、優しくしたのだって、ただつまはじきにされない為の浅ましい打算でしかなかった。親切な真人なんてどこにもいなかったんだ」

「私にはそうは見えませんでしたけど、別に嘘だっていいじゃないですか。今残ってる事実は、その優しさにいろんな人が救われた、それだけです。真になった嘘は、もう誰にも暴けないんでしょう?

 猫かぶりの何がいけないんですか。嫌われないための方法に優しさを選んだ、それだけでやっぱりあなたは優しいひとです」


 キルトの眉が下がる。おそらくは耳も萎れたのだろう、フードが凹んだのを見てチコはくすりと笑った。弱々しくもようやく向けられた黄金色に、手を差し伸べて引き起こす。その拍子にキルトのフードが外れた。チコと向かい合わせに立って、萎れた耳も露わなキルトがチコを見下ろす。チコが待っていると、キルトの唇が震えた。


「……俺がいなければ、君の家族も、故郷も、無事だったかもしれなくても?」

「……何も亡くさなかった未来を夢見たことはあります。それはきっと平穏で……でも今ほど幸福ではなかったと思うんです。

 キルトさんがいたから、私は幸せに生きてこられました。家族も故郷も、喪ったとしても」


 泣いて赤くなったチコの目尻は、なおも優しく笑んでいた。その若葉色が見つめる前で、黄金色が、揺らいだ。


「……俺は」

「はい」




「生まれたことが間違いで、生きていることは罪なんだ」




 声音は平坦だった。口元は笑みを形作ろうとして、それなのに黄金色は泣き出さないのが不思議なほど揺らいでいた。


「レティは否定してくれたけど、俺は俺を赦せなかった」


 そう告白したキルトは口を閉ざした。チコは万感の思いで息をつく。キルトに気づかれないようひっそりと。


 笑顔の裏に押し込められた悲痛に、ようやく、手が届いたのだ。


 チコはキルトの両手を取り、自分の両手で包み込んだ。キルトの手の方が大きいから覆いきれないけれど、そんなことは構わない。チコは一心にキルトを見上げた。


「何度だって言います。私を置いていかないでください。生きてください、私はあなたに生きてほしい」


 ぽたり、チコの手の甲に雫が降った。


「私の言葉、今度こそあなたに届きましたか」

「……うん。ごめんね。ありがとう」


 涙をこぼす融けた黄金が、崩れるように笑み返した。

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