子猫と隠者のお散歩

 物音が聞こえた気がして、チコは目を開けた。部屋の中はまだ暗い。窓は仄明るくなってきているが、まだ夜といっていい時間だった。

 ノックの音がした。寝ぼけ眼のまま床に下りて扉を開ける。


「少しばかり、朝の散歩におつきあい願えるかな」


 外套を羽織り、小籠を手に提げたレティが、悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。






 昨日大怪我したばかりで何を言っているのかとか、せめて昼にするべきではとか、寝起きの頭で精一杯引き止めたチコは最終的に押し切られた。


 薄闇に白く浮かぶ霧に、吐き出した息が溶けていく。下草を踏みしめる音を聞きながら、チコはレティの後を歩く。闇と霧に包まれても、揺れる深紅の髪はよく見えた。


 ゆったりと歩みを進めていたレティがついと手を伸ばし、寄り集まって生っている赤い実を捥いだ。まとめて小籠に入れると一粒摘み、チコのほうに振り向く。チコの顔の前に実を構えたレティが、あ、と口を開けたので、チコも反射的に口を開けた。放り込まれた実を噛むと爽やかな香りが鼻に抜ける。はっとしてチコは頬を染めた。レティはくすくす笑って自分の口にも一粒放り込む。


「キルトとの関係性が偲ばれるな」

「今のはつい……! 最近はちゃんと手で受け取ってますから!」


 チコが慌てて否定しても、レティは笑うばかりだった。その後もあちこちから木の実草の実を集めるレティは、隙あらばチコの口に差し出してくる。半分以上は手で受け取ったチコが自分で食べたが、残りはうっかり放り込まれる結果となった。


 小籠がいっぱいになってきた頃、いい加減恥ずかしがるのも馬鹿らしくなってきたチコは周りを見回して首を傾げた。時々魔物の気配は感じるのだが、まるで襲ってくる様子がない。


「思ったよりも全然襲われませんね」

「ここらの魔物は賢いからね、一度力関係を叩き込めばそう無謀なことはしてこない」


 チコは黙った。レティが常識外れなお師匠様であることをすっかり忘れていた。はがね級制限の地で頂点に君臨するような人間がいていいのか、なんて考えてはいけないのだ。


「ただしこの先は不安がそのまま形になって襲ってくるから、できるだけ楽しいことを考えていなさい」

「それ言われると逆に不安になるんですけど?」


 レティの逆効果な注意を聞いて、チコはつい考えてしまった。例えば、蛇が出てきたり、とか。


 途端、シャアという威嚇音とともに縄のような影が飛びかかってきた。明らかに蛇だった。全力で飛び退ったチコの前に落ちた蛇は、着地するや否や首をもたげる。その目がチコを捉えた瞬間、蛇はレティに胴を踏まれて霧散した。


「……あ! 『見たくない幻』!」

「実際それほど可愛いものではないけれど、概ね合っているよ」


 チコがうっすら記憶に残っていたキルトの言葉を口に出せば、レティの肯定が返された。だからといってチコの想像が止まるわけではない。四方八方から襲来する魔物の幻は、レティが全部潰していった。


「すみません……」

「想定よりは多いけれど、この辺りはこれが通常だから気に病まなくていい。私の生み出しているぶんもあるのだし」


 レティが石ころや小枝を投げるだけで、面白いように幻が消滅していく。たまに片手では足りなくなるのか横着しているのか、足で蹴った石を当てていることもあった。


「数が厄介なだけなんですか? レティさんだから難易度が狂ってるんですか?」

「あなたなかなか言うね。よほど幻惑魔法に精通していないとできないから、これが普通と思わないように」


 レティがいる限りは怖いものもそう怖くないのだな、とチコが納得してから、幻の数は目に見えて減った。


「適性は高いが制御が上手くいかないのかな。こことはだいぶ相性が悪いね」


 右手で石を弾ませながらレティが言う。チコはぎくりと肩を跳ねさせた。


「それって、幻惑魔法のですよね。変化はできるんですけど、幻は全体的にダメで……」

「なるほど、心因性かな。キルトは何をしていたのやら」

「キルトさんは教えてくれました。私がどうしてもできなかっただけです!」


 ムッとしたチコが言い返すと、黄金の目が一瞬チコを見て逸らされた。ちょっと気にかかったがチコは言い募る。


「それに自分の髪が嫌いじゃなくなったのだって、キルトさんのお陰なんですから!」

「心当たりはやはりそこかい。他にはない綺麗な髪だと思うのだけれどね。ともあれ、リボンは役に立ったようで良かった」


 チコは自分のリボンに手をやった。若葉色の目を瞬かせて恐る恐る尋ねる。


「ひょっとして、これもレティさんの贈り物……なんです?」

「そんなところだ。効果は確かだが発揮の仕方がわかりにくい魔道具だよ。えにしを結び心を繋ぐ」

「……キルトさんにお返ししたほうがいいのでは……? でももうボロボロだし……」


 普通のリボンだと信じて疑わなかったチコは、魔道具を擦り切れるほど使い倒した事実に恐れおののいた。幻を蹴散らしながらレティは笑う。


「あなたが持っているからいいのさ、贈られることに最も意味がある魔道具だから。持っているだけでも多少効果はあるけれど」


 さあ着いた、というレティの声に、チコは悶々としながら顔を上げた。見覚えのある湖が広がっている。キルトが死にかけた湖だ。流石に全く同じ位置ではないだろうが。


「いいものが見られる。私の説明を聞き流しながら向こうを見ているといい」


 レティが指差さしたのは、湖のずっと先だった。霧に隠れて何も見えない。困惑するチコを尻目にレティは朗々と語り出す。


「金剛蝶。卵から生まれた幼虫は冷えた溶岩の身体をもつ。大食らいで、目の前で動くものすべてに食らいつく。食えば食うほど身体は大きく赤熱し、自らが溶け落ちる直前になると湖に身を投げる。外層は急激に冷やし固められて蛹となり、内層は時間をかけて冷やされ成虫の姿を形作る」


 突然風が吹き荒れた。霧が流されていく。顔を出した朝日がチコを背後から照らした。


「——やがて身体が完成すると、頑強な殻をその羽で切り開き、湖上に舞い上がる」


 霧の晴れた湖の上を、大きな蝶が飛んでいた。朝日を受けた羽が眩しいほどに光を弾く。羽の動きに合わせて風が吹き、まとわりつこうとする霧のベールを押し退けた。どこか不安定にふわり、ひらりと舞う蝶は、次第に風に乗ることを覚える。そして、最後は優雅に飛び去っていった。


 神秘的な光景に目を奪われていたチコはやっと呼吸を思い出した。胸を押さえて深呼吸する。


「——すごい」


 ぽつりと一言だけ落とされたチコの呟きに、レティは満足げな笑みを浮かべた。蝶が飛び去った方を見つめ続けるチコの手を引いて帰りを促す。


「朝食時になる前に帰ろう。あなたを連れ出したことが知られたら、おそらく私が怒られる」

「キルトさんに?」


 顔をしかめて頷くレティに、笑ってチコは帰路についた。






 道中、幻が出なくなったあたりでレティが振り向いた。


「ところで、一つ助言を与えよう」


 チコの前に何かを摘んだような手が向けられ、レティが、あ、と口を開ける。あ、と口を開けたチコの目の前で、何も持っていない手がパチンと指を鳴らした。顔を真っ赤にして睨むチコに、レティは意地悪く笑う。


「正面から敵わない相手には、習性を利用して戦いなさい」

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