子猫とねこかぶりの追いかけっこ
チコは憤慨していた。
事の起こりは朝だった。チコが目を覚ました時にはすでに窓の外はずいぶん明るくなっていて、チコは慌てて身支度を整えダイニングキッチンに向かった。
おはようございます! と扉を開けたら、なぜか大きく開け放たれた窓からひんやりとした風が吹き込んできて。食卓の方を見れば、微動だにせず座るクルトと、眉間を抑えるレティがいた。クルトの前には中身が減っていないカップ、レティの前には飲みかけのカップ、そして椅子の引かれた席の前に、飲み干されたカップが一つ。
「覚悟は決まらなかったか……」
ため息とともに吐き出されたレティの言葉に、やっとチコは思い至った。
「キルトさん、ここまできてまた逃げたんですか?!」
「言ってやるな……。とりあえず朝食はいかがかな。その間にキルトが戻ってくるならよし、戻ってこなければ……すまないが捜してやってほしい」
朝食は大変美味だったが、キルトは戻って来なかった。
そんなわけでチコはキルトを捜し始めたのだが、これが全く捕まらない。時々足音が聞こえたり、服の裾や尻尾の先がちらりと見えたりはするのだが、どれほどしぶとく追ってもいつの間にか撒かれている。たまに部屋の中から物音がした気がしたが、チコには開けていいものかわからない。
チコは早々にレティに直談判した。
「ちょっと無理があると思います」
「地の利もキルトにあるしね。とはいえ私が捕まえると、きっと拗ねて話を聞いてくれないだろう。できればあなたに捕まえてほしい」
玄関先で会ったレティは考えるそぶりをみせた。チコは拗ねるキルトというものに少々興味を惹かれたが、話を聞いてもらえないのは困るため今回ばかりは黙っておいた。
「ではこうしよう。キルトが屋敷の外に出た時は私が捕まえる。あなたが出ては危ないからね。屋敷内では、鍵のかかっていない扉は好きに開けて入るといい。下手な部屋を選べば袋の鼠だな」
ぽんと手を打ったレティが微笑む。レティぃぃぃ! という叫びが遠くから聞こえた。キルトも聞き耳を立てていたらしい。
「この件に関しては、キルトよりあなたを応援するよ。がんばって」
手を振り、レティはクルトを連れて外へ出て行った。クルトは監視が必要なのと、何かしら反応を示すものがないか探すのも兼ねて、食料採集に同行させるらしい。
その背を見送るが早いか、チコはキルトの声がした方へ駆け出した。
扉の奥に物音を聞き取ったチコは取っ手に手をかけた。許可を得てはいるものの、遠慮がちに扉を押し開ける。
その先の光景に、一瞬で目を奪われた。
広い作業台の上には針や鋏や定規、その他名前も知らない幾つもの工具が整然と並べられていた。色とりどりの糸束が天井から吊り下がっている。艶やかな布やリボンが巻かれた状態で壁一面に並んでいて、その下の木箱には端切れが無造作に放り込まれていた。その向かい側の壁にはたくさんの引き出しが並んでおり、いくつか開けっ放しのそこからきらめく宝石や繊細な細工のボタンがのぞいている。部屋の奥には造りつけの棚があって、虹を映す貝殻、変わった木目の木の塊、乳白色の何かの牙、渦のような模様の鱗……何処か謎めいて美しいものがひしめいていた。
思わず数歩足を踏み入れたチコは、はっと我に返って叫んだ。
「鍵かけなきゃいけない部屋ですよ!?」
どう見ても高価なものばかりの仕事部屋だった。客を入れていい部屋でもないし、絶対に追いかけっこをしていい場所ではない。
すぐに出るべきだとは思ったが、チコはついずらりと並ぶものたちに見入ってしまった。チコとて綺麗なものは好きだ。旅暮らしだと実用的な物のほうに手が伸びるから、あまり縁はなかったけれど。
うっかり引っかけないように尻尾を抱えて見とれているうち、チコは足元に風を感じた。視線を下げて振り向けば、廊下に走りでる小さな影。チコの膝ほどもない高さにひらめく鼠色の布の下で、黒いふわふわの足が床を蹴った。
「……キルトさん?!」
初めて獣型のキルトを見たチコはすぐに反応できなかった。遅れて廊下に出たところで、キルトの姿は見当たらない。変容し布を被ったキルトは、よそに気をとられたチコの足元をすり抜け、再びまんまと逃げおおせたのだ。
チコもいい加減腹を立てた。もはや扉を開けるのに遠慮のえの字もない。開けた瞬間に足元をすり抜けられること二回、今度こそと思って足元に気を取られていたら、家具の上に潜んでいたキルトがチコの頭上を飛び越していった。軽やかに遠ざかる足音を聞きながらチコは頭を抱えた。
「そんなあの手この手で逃げなくたっていいじゃないですかぁ」
苛立ちも一周回ると悲しくなってくる。チコが肩を落として扉を閉めようとしたとき、ふと部屋の中に目がいった。
部屋は全体的に白かった。埃よけのシーツのせいだ。ベッドも、机や椅子も、キルトが乗っていた背高の箪笥のような家具も、真っ白に覆われて沈黙している。掃除は行き届いているようで埃っぽさはないけれど、どこか息を吸うのがためらわれるような雰囲気があった。
しばしそれを見つめていたチコは、玄関扉が開く音をきっかけにやっと扉を閉めた。どうやらレティたちが帰ってきたらしい。
「キルト! タオルを持ってこい!」
切羽詰まったレティの大声が響き渡った。何事かとチコが玄関に向かうと、鼠色のローブを羽織ったキルトがタオルを抱えて一足早く駆けていくのが見えた。
「どうしたのレティ、っ……経緯は」
「油断した。夜まで眠る。クルトは任せた」
「……後で詳しく聞く」
玄関には、右半身を赤く染めて血を滴らせるレティと、顔中に血をつけて声もなく涙を流すクルトがいた。手短にやりとりを済ませたレティがタオルでクルトの顔を拭い、何事か囁きかける。そのままクルトはキルトに慌ただしく連れられていった。
残りのタオルに血を吸わせつつ、レティは廊下の奥で立ち竦むチコに声をかけた。
「無様を見せたね」
チコはおずおず歩み寄った。濃い血の臭いが鼻につく。レティは穏やかに微笑んでいて、その顔は青ざめていることを除けば昨日と全く変わりないように見えた。
「今日はキルトとあなたに時間を作ってやれそうにない。重ね重ね申し訳ない」
「いえ……レティさんは、大丈夫、なんですか?」
「傷は塞いだ、問題ないよ。出血が多いから休息は必要だけれど」
歩き出すレティにチコは慌てて肩を貸した。礼を言ったレティが体重を預けて息をつく。
「ああ、でも、よかった」
あまりに現状に似つかわしくない呟きに、チコはレティの顔を盗み見た。レティは血色の悪い顔をほころばせ、吐息とともに言葉をこぼした。
「きっと、クルトはひとになれる」
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