ねこかぶりは夢をみた
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真っ暗闇の森の中を、風のように移動する。俺は首筋を咥えられたまま、邪魔にならないよう懸命に身体を縮こまらせていた。
「——いたぞ! あっちだ!」
「回り込め、逃がすな!」
離れたところから怒号が響く。隣を駆けていた父が囁いた。
「二人とも、いきなさい。俺が彼らの相手をする」
足を止めた父が遠ざかっていく。黄金の目が最後に一瞬だけ俺を見たけれど、暗いせいか、その顔立ちはわからなかった。
真っ黒い四肢がしなやかに躍動して、俺を咥えた母が木々の間をすり抜けるように駆ける。荒い息が吹きかかって後頭部が暑い。俺は自分の後ろ足の間に見えるものを睨みつけた。
——こんなものがあるから。
「見つけたぞ、猫のほうと魔物だ!」
上擦った声が近くに聞こえて、次の瞬間俺は宙に浮いた。なんとか四つ足で着地して、俺を放り投げた母の方を見る。母は揃いの制服を着た犬獣人達に囲まれながら、こっちを見て叫んだ。
「いきなさい、キルト!」
黄金の目が俺を見ていたけれど、その姿は闇に溶けてよく見えなかった。俺は弾かれたように逃げ出した。
走って、転んで、起き上がって。石に木の枝、それに根っこ。小さな身体には障害物が多すぎて。ここまで歩き通しで傷ついた肉球も、痛くて痛くてたまらなかった。
「ちょこまかするな!」
硬い靴に強かに蹴り飛ばされ、岩に叩きつけられた。息が止まる。全身が痛くて、もう立ち上がることもできない。近づく足音に身を震わせていたら、唐突に背後の岩が動いた。
「っひぃ!? ……仕方ない、撤退するぞ!」
「まだ息がありそうだけど、いいのか?」
「どうせ他の魔物の餌になって死ぬだろ、いいから逃げるぞ!」
足音が遠ざかっていく。目だけ動かして背後を見れば、そこには大きな亀が立っていた。岩だと思ったのは甲羅だったらしい。騒音が消えると、亀はまた首と足を引っ込めて岩に戻った。
なんだか寒くてたまらなかった。いつも温めてくれる父と母はまだ来ない。うまく動かない身体をなんとか丸めようとしたら、目の前に憎たらしい尻尾が現れた。かっとして、爪を出した前足で押さえつける。
——こんなものがあるから。
——俺なんかがいたから。
ぽろぽろ涙が零れていく。息が苦しい。もう疲れた、寝てしまおう。明日になったら母が起こしに来てくれるはずだ。父がご飯を狩って来てくれるはずだ。
冷ややかな眠気に身を委ねたとき、誰かの声がした。
『愚かな化け猫、みんな殺して、そんな明日はもう来ない』
よく知っている声だった。
『それなのに、どうして
憎悪に満ちた、それは自分の声だった。
**********
キルトは飛び起きた。心臓が痛いほどに早鐘を打っている。暗闇の中、震える両手を広げて見た。目の前にある手は青年期の人のもので、無力な子猫のやわい前足とは程遠い。それを確かめて息をついた。あの夢は、もう遠い過去のものだった。
周りを見回したキルトは眉をひそめた。昔より狭く感じるようになった自室。キルトにとってここは世界一安心する場所だったが、同時に今では一抹の不安を覚える場所でもある。ベッドから降りて机の上の短剣を手に取り、鞘を払って、現れた刀身を指の背でなぞった。
「——うん。こっちは、夢じゃない」
短剣を鞘に戻したキルトは、ふと喉の渇きを覚えた。短剣を置こうとして迷い、結局持ったままキッチンに向かうことにする。
暗い廊下を進み、ダイニングキッチンの扉を開ける。
柔らかな光がキルトの目に飛び込んできた。食卓に火を灯したランプが置かれている。まさかと思ってキッチンの方を見れば、両手にマグカップを持ったレティが灯りのもとへ歩いてきた。
「おそようキルト、ミルクでも飲むかい」
「……夜更かしだねレティ、ありがたくいただくよ」
キルトは苦笑し、何食わぬ顔のレティと並んで座った。短剣は机の端に置いておく。レティが目敏く気付いたのを見て、キルトはうろ、と視線を彷徨わせた。
「……あー、ごめんねレティ。せっかくレティがくれた短剣、なくしちゃったんだ」
「そうか、まあそういう運命もあるさ。今度は今のあなたに合う短剣を……いや、まだしばらくは必要ないか。それをずいぶん大事にしているようだし」
謝罪は穏やかに受け入れられた。今の短剣のことに言及され、キルトは鞘の上から短剣を撫ぜる。
「これも贈り物でね。金銭状況をよく知ってる相手だったから、どれくらい頑張って良いものにしてくれたのかもわかっちゃって。大切にしようって気にもなるよ」
「なるほど、思い出深い贈り物か……旅路のこの上ない証明というわけだ」
ひくりとキルトの口元が引きつった。どうしてレティはいつも余計なことに気づくのか。頬杖をついて不貞腐れる。
「仕方ないでしょ。綺麗なものを見て、楽しいことをして、それ以外も色々あったけど。仲のいい相手ができて、誰に追われるでもない、昔夢見た通りの旅だったんだ。本当に夢だったんじゃないかって、ここで目覚めるたび不安になるくらいにはね」
だから目を覚ますたび、キルトは短剣に触れて安心するのだ。夢のような旅路が現実であった証明だから。
「よい旅をしたようだね」
「それはもう。……だからといってあの始まりを許すわけじゃないからね。あれはない。人の所業とは思えない」
のんびりミルクを飲んでいるレティを横目に睨んでキルトは責めた。レティはにっこり笑って黙殺する。
「ともあれ、彼女がいればもう証明には事欠かないだろう?」
「彼女?」
「……あなた、自分がどうベッドまで辿り着いたか覚えているかい?」
「……もしかして、あっちも、夢じゃなかった?」
師弟は黄金色の目を見合わせた。
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