隠者の双容講座
手紙を置いたレティが、机の向かい側に目をやった。
「クルト、そろそろ眠くはないかい」
「…………いえ」
チコはぶわりと尻尾を膨らませる。ここにいるもう一人の存在をすっかり忘れていた。
レティの向かい、チコの斜め向かいに座る
双頭犬、チコの故郷を滅ぼした魔物、キルトの弟。
チコは顔を逸らすようにうつむいた。嫌悪や憎しみよりも恐怖と困惑が湧き上がり、膝の上で両手を握りしめる。
「そうかな、けれど眠そうだよ。部屋に戻って、布団に入って休むといい」
「わかりました」
クルトと呼ばれた人型はレティの言葉に従順に立ち上がり、チコに一瞥もくれずにダイニングキッチンを出て行った。扉が閉まる所まで見送ったレティがチコに向き直る。
「申し訳ない。あらゆる意味で、見ていて気分のいい相手ではないだろう」
「……すみません。その、あの人が、本当に……?」
チコは戸惑いを隠せなかった。故郷を蹂躙した暴虐の化身のような双頭犬と、生気の薄い獣人の姿が繋がらない。感じる恐れはチコの過去からくるものではなく、クルトが纏う得体の知れない空気によるものだった。
「……ひと、に見えるかい、彼が」
黄金の目を細めたレティが尋ねた。その声がひどく深刻そうで、チコは思わず背筋を伸ばす。
「だって、禁忌の魔物は魔物じゃなくて
「身体のつくりはそうだね。言語が通じ、互いの不断の努力によって共生が可能な生物。けれど身体が能力を備えていても、育てられねば育たぬものもある。
おそらくクルトは、ひととして育てられなかった。今の彼は、言葉を選ばないならば、生きた道具」
チコは息を詰めた。手に持ったカップを揺らしてレティは続ける。
「こちらの指示や質問に従順にこたえる。けれどそれ以外はできない。普通の会話も、自ら判断して食べることも、眠ることも」
クルトの席に置かれたカップは、一切手をつけられないままそこにあった。
「道具がそれのみで何かを為すことはない。おそらく最初は事故だけれど……後は誰ぞに使われて、幾多の惨事をなしたのだろうね」
「……魔物の使役者として、捕らえられた男がいました」
チコは手を握る力を強めた。爪が手のひらに食い込んで痛む。双頭犬以外に本物の仇がいると言われても、長らく双頭犬を恨んでいたチコには受け入れ難かった。
「……赦しも、憐れみも、無関係で無責任な外野に任せておけばよろしい。それであなたの苦しみは癒えないのだから」
チコは弾かれたように顔を上げた。慈しむような黄金色がチコを見ている。
「ただ、彼がここにいることだけ受け入れてほしい。あなたには我慢を強いるけれど」
「……はい」
チコは素直に頷いた。首をもたげかけた怒り憎しみは、レティに認められた途端におとなしく鎮まっていった。レティが目元を和らげる。
「ありがとう。クルトのそばには私かキルトがつくようにしているけれど、もし見当たらなければ近づかないでくれ。暴走癖がついているはずだ、あなたが巻き込まれたら死にかねん」
「暴走癖!?」
チコは全身を強張らせた。暴れ狂う双頭犬の姿を思い出して毛が逆立つ。何かの冗談だと思いたかった。レティはふむ、と顎に手を当てた。
「キルトにも関わることだし、説明しておこう」
それを速やかに叩きのめし、普段から競争ごとなどで平和的に闘争心を発散していれば、二、三年で理性が闘争心を制御できるようになる。
しかし、暴走を放置、または積極的に引き起こした場合、暴走状態に陥りやすくなる。些細なきっかけで前触れもなく暴走し、何年経っても制御できない。
間違いなくクルトは後者であり、いつ暴れ出すとも知れないのだ、と。
そこまで説明したレティは言葉を切り、すっかり冷めたお茶で喉を潤した。記憶に引っかかるものがあったチコは質問する。
「嫌な音がした後、私や他の
顔をしかめたレティが言うことには。
暴走は混血かどうかにかかわらず、
そして、
「クロウの手紙にも書いてあったよ、使役者が『笛』を所持していたと。悪しき過去の遺物。昔抹殺したはずなのだけれど、どこかに残っていたのか、記録から復元したのか……」
目を伏せたレティに、チコはもう一つだけ質問した。
「どうしてそんなに詳しいんですか?
今聞いたような話が獣人達に伝わっていたなら、禁忌の魔物なんて呼び名は生まれなかったはずだ。いや、禁忌自体が存在しなかったかもしれない。レティはチコを流し目に見た。
「長く生きていると知りうることも多いのさ。自分に関わることも、関わらないことも。……できることは、多くないのにね」
疲れたろう、今日はもう眠るといい。そう締めくくったレティの表情は、チコにはどこか切なげに映った。
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