隠者の双容講座

 手紙を置いたレティが、机の向かい側に目をやった。


「クルト、そろそろ眠くはないかい」

「…………いえ」


 チコはぶわりと尻尾を膨らませる。ここにいるもう一人の存在をすっかり忘れていた。

 レティの向かい、チコの斜め向かいに座る双容デュオの青年は、あまりにも存在感が希薄だった。微動だにせず、お茶にも手をつけず、息をしているのかもわからなくなりそうだ。長めの前髪の下から覗く伏せがちの目がゆっくり瞬いて、いかにも眠たげだった。黒髪に黄金の目、それに頭の上には犬の耳。チコの位置からは見えないが、腰には尻尾があるだろう。


 双頭犬、チコの故郷を滅ぼした魔物、キルトの弟。


 チコは顔を逸らすようにうつむいた。嫌悪や憎しみよりも恐怖と困惑が湧き上がり、膝の上で両手を握りしめる。


「そうかな、けれど眠そうだよ。部屋に戻って、布団に入って休むといい」

「わかりました」


 クルトと呼ばれた人型はレティの言葉に従順に立ち上がり、チコに一瞥もくれずにダイニングキッチンを出て行った。扉が閉まる所まで見送ったレティがチコに向き直る。


「申し訳ない。あらゆる意味で、見ていて気分のいい相手ではないだろう」

「……すみません。その、あの人が、本当に……?」


 チコは戸惑いを隠せなかった。故郷を蹂躙した暴虐の化身のような双頭犬と、生気の薄い獣人の姿が繋がらない。感じる恐れはチコの過去からくるものではなく、クルトが纏う得体の知れない空気によるものだった。


「……ひと、に見えるかい、彼が」


 黄金の目を細めたレティが尋ねた。その声がひどく深刻そうで、チコは思わず背筋を伸ばす。


「だって、禁忌の魔物は魔物じゃなくて双容デュオなんじゃ……」

「身体のつくりはそうだね。言語が通じ、互いの不断の努力によって共生が可能な生物。けれど身体が能力を備えていても、育てられねば育たぬものもある。

 おそらくクルトは、ひととして育てられなかった。今の彼は、言葉を選ばないならば、生きた道具」


 チコは息を詰めた。手に持ったカップを揺らしてレティは続ける。


「こちらの指示や質問に従順にこたえる。けれどそれ以外はできない。普通の会話も、自ら判断して食べることも、眠ることも」


 クルトの席に置かれたカップは、一切手をつけられないままそこにあった。


「道具がそれのみで何かを為すことはない。おそらく最初は事故だけれど……後は誰ぞに使われて、幾多の惨事をなしたのだろうね」

「……魔物の使役者として、捕らえられた男がいました」


 チコは手を握る力を強めた。爪が手のひらに食い込んで痛む。双頭犬以外に本物の仇がいると言われても、長らく双頭犬を恨んでいたチコには受け入れ難かった。


「……赦しも、憐れみも、無関係で無責任な外野に任せておけばよろしい。それであなたの苦しみは癒えないのだから」

 

 チコは弾かれたように顔を上げた。慈しむような黄金色がチコを見ている。


「ただ、彼がここにいることだけ受け入れてほしい。あなたには我慢を強いるけれど」

「……はい」


 チコは素直に頷いた。首をもたげかけた怒り憎しみは、レティに認められた途端におとなしく鎮まっていった。レティが目元を和らげる。


「ありがとう。クルトのそばには私かキルトがつくようにしているけれど、もし見当たらなければ近づかないでくれ。暴走癖がついているはずだ、あなたが巻き込まれたら死にかねん」

「暴走癖!?」


 チコは全身を強張らせた。暴れ狂う双頭犬の姿を思い出して毛が逆立つ。何かの冗談だと思いたかった。レティはふむ、と顎に手を当てた。


「キルトにも関わることだし、説明しておこう」


 双容デュオはもともと単容ユニと比べて闘争心が強い。これは獣の因子によるものと言われている。そして、混血の双容デュオ——通称禁忌の魔物は特に獣の因子が強く、成長過程で闘争心が理性を上回って暴走してしまう。獣型になって巨大化し、意識を失うか力尽きるまで、見境なく周りを攻撃し続けるのだ。

 それを速やかに叩きのめし、普段から競争ごとなどで平和的に闘争心を発散していれば、二、三年で理性が闘争心を制御できるようになる。

 しかし、暴走を放置、または積極的に引き起こした場合、暴走状態に陥りやすくなる。些細なきっかけで前触れもなく暴走し、何年経っても制御できない。


 間違いなくクルトは後者であり、いつ暴れ出すとも知れないのだ、と。

 そこまで説明したレティは言葉を切り、すっかり冷めたお茶で喉を潤した。記憶に引っかかるものがあったチコは質問する。


「嫌な音がした後、私や他の双容デュオもその暴走みたいな状態になったんですけど……何かご存知ありませんか?」


 顔をしかめたレティが言うことには。


 暴走は混血かどうかにかかわらず、双容デュオが闘争心を制御できなくなると起きる。一般の双容デュオでも、死に瀕したときや過度の興奮状態のときなどに稀に暴走するのだ。この暴走も繰り返せば癖がついてしまう。

 そして、双容デュオの闘争心を煽る音というのが存在する。この音は単容ユニの耳には聞こえない。自然界で発せられることはまずないが、かつて作られていた笛を使えば、誰でも簡単に双容デュオの暴走を引き起こせるのだという。


「クロウの手紙にも書いてあったよ、使役者が『笛』を所持していたと。悪しき過去の遺物。昔抹殺したはずなのだけれど、どこかに残っていたのか、記録から復元したのか……」


 目を伏せたレティに、チコはもう一つだけ質問した。


「どうしてそんなに詳しいんですか? 双容デュオの私でも、そんな話は聞いたことがないです」


 今聞いたような話が獣人達に伝わっていたなら、禁忌の魔物なんて呼び名は生まれなかったはずだ。いや、禁忌自体が存在しなかったかもしれない。レティはチコを流し目に見た。


「長く生きていると知りうることも多いのさ。自分に関わることも、関わらないことも。……できることは、多くないのにね」


 疲れたろう、今日はもう眠るといい。そう締めくくったレティの表情は、チコにはどこか切なげに映った。

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