第四章

隠者は子猫の師匠の師匠

 食卓について、チコはそわそわと尻尾をぴくつかせていた。石造りの暖かいダイニングキッチンにはチコを含め三人もいるのに、誰一人声を発さない。茶器の音とお茶を淹れる水音だけがしめやかに響いて、普通なら平和な音なのだろうけれど、今のチコには居心地が悪かった。

 目の前にことりとお茶のカップが置かれ、いい香りが立ち上る。チコは上目で相手を窺いながらお礼を言った。チコの斜め向かいの席にもお茶を置き、最後のカップを持ってその相手はチコの隣に座る。そしてチコの方を向いてゆるりと微笑みかけた。黄金の瞳がチコを映し、深紅の長髪がさらりと揺れて、左耳のピアスがちらりと見えた。


「緊張するなというのは無理な話だろうけれど、ともあれ心配無用。ここへは敵も来られないし、キルトだって生きている。……まあ、目を覚ますまで不安は尽きぬかな」


 そう言ってカップを口に運ぶ女性を、どこかキルトに似ているとチコは感じた。真実はきっと逆なのだろうけれど。なにせ、この単容ユニの女性はキルトのお師匠様なのだから。


 あの時、チコがキルトに飲ませた『天使の涙』は伝説に違わぬ効果を発揮した。胸の穴はみるみる塞がり、手の裂傷や火傷も消え、キルトの呼吸は安定した。ただ意識だけが戻らず、チコはキルトが死ななかった安堵と起きてくれない不安でひたすらに泣き続けていた。

 そこにお師匠様が現れた。錯乱状態だったチコは自称お師匠様に全力で抵抗したが、お師匠様はそれをものともせず、チコとキルトを山奥の屋敷に文字通り持ち帰り。正気に戻ったチコに湯を渡して身を清めさせ、清潔な衣服を渡し、温かい食事を与え、やっと落ち着いたのが今、というわけだ。


「キルトさんは、いつ目を覚ましますか……?」

「早ければ今夜、遅ければ明日の昼頃だろう。ここのところ寝不足だったし、思う存分眠るがよろしい。だから、大丈夫だよ」


 キルトとは言葉選びも声の高さも違うけれど、やっぱり語調がそっくりだった。それだけでチコは少し安心できた。そうして余裕が生まれたところで、はたと気付く。


「すみません私自己紹介してませんね!? チコといいます、ええと、しろがね級の冒険者で、キルトさんの弟子です」

「ふふ、では私も改めて。レティと呼んでくれ、長らくこの山に篭っている隠者のようなものだ。キルトとの関係は……便宜上師匠としておこう」


 慌ててかしこまったチコに、レティは鷹揚に応えた。聞いたチコは首をかしげる。


「便宜上、ですか?」

「私としては母でも姉でも友でもあるつもりだったけれど、実際キルトが私をどう思っているのかは聞いたことがなくてね。確実な共通認識である師弟関係が、呼称として最も適当であるというだけさ」


 チコが思っていたよりも、複雑な関係であるようだった。キルトの生まれを考えれば当然なのかもしれない。


 それにしても、とチコは思った。思っていたのとだいぶ違う。


「——確か、千里眼持ちの常識外れ、話題にあげるたびキルトに微妙な顔をさせる師匠が、こんなに若い普通の人のはずがない、だったか」

「ひえっ」


 くすくすと笑うレティの口から出た言葉に、チコは肩を跳ねさせた。千里眼は心まで読めるのだろうかと考えたところで、錯乱時に自ら口走ったことを思い出す。


「すみませんすみません忘れてください」

「いや、とても的確な分析で感心したよ。不審者への対応としては満点。『時の愛子いとしご』の知識があれば、また判断は変わったかもしれないね」

「『時の愛子いとしご』? ……初めて聞きました」


 萎縮するチコに構わず、レティは機嫌よく説明を始めた。


「途中で老いを止めた者たちをそう呼ぶんだ。長い時間を老いることなく過ごし、再び老い始めたときやっと、自らの寿命を知ることになる。寿命に個人差はあれど、短くとも普通の者たちの倍以上。誰一人として原因を知らず、未だ解明すること能わず。最近は滅多に生まれないようだけれど、私ともう一人、クロウにもあなたは会ったろう?」

「クロウ……手紙の人! あの人も『時の愛子いとしご』なんですか?」

「ああ、もう二百年以上の付き合いだ」


 足元の鞄から手紙を取り出しながら、チコは心底驚いた。クロウもレティも、到底そんな年齢には見えない。レティは二十代にしか見えないし、クロウだって、せいぜい五十にしか見えなかった。


「あった、この手紙です……あれ? 宛名にはレスティアって書いてますけど」

「私の本名だよ。クロウは真面目だからそっちで書いたんだろう。レティは愛称でね」


 クロウがチコの師匠の師匠の友人を自称していたことからも、手紙の相手はレティでまず間違いないだろう。チコは納得して手紙を渡した。封を破ったレティがその場で目を通す。


「協会の、通称禁忌の魔物に対する姿勢および今回の件への対応、それから彼個人の対応について、ね」

「キルトさんも、処罰は避けられないですよね……」

「逃亡幇助だからね。まあ、キルトが処罰を受けてまで戻りたがるのなら、私とクロウが多少口利きはするさ」

「……んん?」


 チコは耳を疑った。そういえばクロウも似たようなことを言っていた、とその言葉を思い返す。

 クロウは概ね、キルトを裁く前に社会復帰に乗り気にさせないと、というようなことを言っていた。レティは、キルトが社会復帰しないなら処罰も受けさせないような口ぶりだ。重ねて、処罰ありとしても口利きという言葉。


「それは……ダメでは……?」

「法を捻じ曲げはしないさ、そこはわきまえている。長く生きているといたずらに人脈やら権力やらが増すばかりだから、たまには使ってやらねばね。本人の申告によれば、クロウ冒険者協会長のあつりょ……頼みは山をも動かすらしいし」


 やっぱりダメでは? とチコは思ったが、あまりの恐ろしさに口をつぐんだ。きっと以前のキルトの報告のように、正しいとは言い難いが不正ではない何かが行われるのだろう。嫌なところに師弟の繋がりを感じ取ってしまった。

 そして自分もその弟子であることに気づいたチコは震えた。自分の所属組織のトップの鳩尾を狙ったことを忘れるほどの衝撃だった。自分だけはこうなるまいと誓ったチコは、それが十数年前にキルトが誓った言葉であることを知らない。

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